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    <title>おおやにき</title>
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    <updated>2012-01-07T05:16:10Z</updated>
    <subtitle>jus postulandi actionem pro aliis</subtitle>
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    <title>Note</title>
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    <published>2012-12-31T14:30:48Z</published>
    <updated>2012-01-07T05:16:10Z</updated>

    <summary>どうもサインインせずにコメントを書くと、結構な割合でスパム認定されるようです。チ...</summary>
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        <name>おおや</name>
        
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        <![CDATA[<p>どうもサインインせずにコメントを書くと、結構な割合でスパム認定されるようです。チェックして戻すようにしていますが、<strong>私が確認するまでのあいだは表示されないまま放置されることになります</strong>。申し訳ありませんが、そのことを承知してコメントしていただくか、サインインするようにお願いします。<br />
</p>]]>
        
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    <title>自由と処分</title>
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    <published>2012-01-20T14:55:13Z</published>
    <updated>2012-01-20T17:59:03Z</updated>

    <summary>オバマ大統領へのインタビューで「親密な外国首脳」として野田総理の名前が挙がらなか...</summary>
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        <name>おおや</name>
        
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        <![CDATA[<p>オバマ大統領へのインタビューで「親密な外国首脳」として野田総理の名前が挙がらなかったという報道があったが、いや現総理の人格識見がどうこう言う以前に<strong>そりゃ一年一人ペースで代わってりゃ「親密」にはなりようがねえよな</strong>と思うのだがどうか(挨拶)。国家としての日本との関係は外交を通じて、ということは人事に連続性のある官僚を通じて維持できるだろうけれどもさ。なお参考、「野田首相の名前出ず　オバマ米大統領が挙げた信頼築いた各国首脳」(<a href="http://sankei.jp.msn.com/world/news/120120/amr12012009100006-n1.htm">MSN 産経ニュース</a>)。というわけで師走に忙しくしていたあいだの落ち穂拾い。</p>

<p>群馬大学教授の早川氏がtwitter上の発言によって大学から訓告処分を受けたという件について(参考、「群馬大教授「福島の農家はオウム信者と同じ」　訓告処分」<a href="http://www.asahi.com/national/update/1208/TKY201112080628.html">asahi.com</a>)。問題は大きく法的な層と「賢明さ」(prudence)の層に分けて考えるのがよく、法的な層については一般的な言論表現の自由の問題と学問の自由の問題に分けて論じる必要がある(が、それができている議論をあまり見ない)。</p>]]>
        <![CDATA[<p>まず言論の自由から言えば、同じ時期にニュースになった防衛省沖縄防衛局長(当時)の暴言問題がある。そこでは発言から社会的な信用失墜が生じたことをもって停職という懲戒処分に至っているところ、これを否定する人は滅多にいないであろうから、大学教員であっても構造は同じであって処分自体に問題はないということになるだろう。</p>

<p>行政機関と違うのは、大学教員の発言は憲法上定められた学問研究の自由によって特に保護されていると解する余地があることである。だがこの条文によって大学教員の発言であればどのような状況におけるものでも・誰に対するものでも・どのような内容のものでも処分の対象にできないという解釈は、第一に大学教員をまさに特権階級にするものであって同じく憲法の定める法の下の平等に矛盾するであろうし、第二にセクハラであろうがアカハラであろうが発言に留まる限り処分できないという帰結になり、明らかに不当である。</p>

<p>この点に関する私の見解はすでに明らかにしているところであるが、つまりいかなる言論・行為も一定の規制の下に置かなければ暴走して他者に対する危害をもたらす危険性があるところ、<u>学界においては相互に発言を評価して一定の水準に達していなかったり問題性のある言説の公表を認めない自主規制が機能しているのであえて副作用の大きい国家による規制を加えることを差し控えるという趣旨に解すべきもの</u>で、つまり象徴的に表現すれば<strong>「査読誌の自由」</strong>ということになる。ピアレビューに基づく自由な議論としての学的な営みに参与する限り、どのような社会的立場の人の発言であろうが学問の自由で保護されるべきだし、逆に大学教員のものだろうが学的な営みの舞台に乗っていない限りその保護を受ける余地はないということになるだろう。</p>

<p>今回の事例についてはtwitterという学的営為の媒体としては到底認められないもので行なわれた言説であるという点からも保護に値しないと解すべきだろう。twitterの位置付けについては、(1) 独立の単位として扱われ得る発言の単位が140字に制約されており根拠に基づく主張という学的営為の基本性質を極めて満足させにくいこと、ブロックなどにより自らの発言が見られたり自らが見たりする範囲を操作できることから万人に開かれた討議という性格を持たないことなど、アーキテクチャ的な性質が学的でないことを指摘してもよいが、(2) そもそも現時点において学的な討議の媒体として利用されておらず、社会的にもそのような場として承認されていないという事実で十分であろう。</p>

<p>なお、研究者の発言の社会的影響を理由として所属機関が当該研究者を処分し得るとすると、そのような制度がいわゆるニセ科学者や悪徳業者などに悪用されるおそれがあるとの理由からそもそも処分を認めるべきでないとの見解があるが、(1) もちろん過去にそのような事例の標的になった立場から悪用の危険性を懸念することは理解できるが、現実的には実際に社会的な被害が生じているケースのほうが圧倒的に多く、前者を理由として後者における処罰可能性を否定するのは要するに殺人に使われる可能性があるからといって包丁の市販を差し止めるのと同じことである。また、(2) 原則論としては、外部からそのような指摘があったとしてそれが十分な理由のあるクレイムなのかいわゆる因縁付けに過ぎないのかは当該所属機関が判断すべきものであり、因縁に過ぎなければ処分しなければいいだけのことである。所属機関(典型的には大学)の切り分け能力が十分でないケースがあるというのは往々にして事実であるが、<strong>だからといってそこから生じる問題を社会に甘受させることは正当化できない</strong>。別の言い方をすれば、事務がボンクラであるとしても誰もそんな大学に勤めろと強制されたわけではないのであって、イヤならお辞めになればいいのである。逆に、問題発言をする教員が存在するということは社会の側が選択した事柄ではないので(むしろ社会の側にはそのような人物を排除する自由が認められていないので)、その帰結を引き受けさせる根拠はないことになる。さらに、(3) 問題発言が実際の被害を生んでいるのであればその被害者が直接に加害者たる研究者を訴えればよいという解決策は、特定の人物を対象としない差別発言(いわゆるヘイトスピーチ)に対する救済としては機能しないので、研究者を所属機関による処分から免責する根拠にはならない。</p>

<p>ここで問題は「賢明さ」の次元になるのだが、そもそも所属機関が処分することがなぜ可能になるかといえば、当たり前のことだが<strong>その機関の人間だということがわかる状態で発言しているから</strong>である。同じような趣旨の発言であっても、たとえば2ちゃんねるあたりでデフォルト名無しさんか捨てハンで言い逃げしていたとすれば、明確な被害者のいないヘイトスピーチの場合は特に、発言者の特定から処分にはおそらく至らなかっただろう。</p>

<p>では逆に、なぜ所属機関が特定されるような形で発言していたかといえばその機関名が自己の発言の信頼性を増す裏付けになるという判断があったからではないか。つまりやや厳しい言い方をすれば「虎の威を借る狐」であるところ、<strong>その行為が虎に迷惑をかければカジられるのは当然だよな</strong>と思うわけである。それがイヤならそもそも虎の名前など借りなければよかったわけで、その選択をしたのが本人である以上その帰結も引き受けていただくべきだと思うわけだ。</p>

<p>このとき、自分の発言したい内容に応じて発言の場所・手法を選ぶというのは別に法的な義務でも道徳的な責務でもなく、そうした方が人生が平穏であるという「賢明さ」の問題であるに過ぎない。従ってドジった人がいたとしても社会的な非難の対象ではなく、単にあほやなあと指さして笑えばいいと思うところではある。なお、じゃあこんなブログとか書いてる人間も賢明じゃないんじゃねえかという論点については自覚的であるので、それ以上ツッコまないこと。<br />
</p>]]>
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    <title>定番。</title>
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    <published>2012-01-17T08:17:26Z</published>
    <updated>2012-01-17T08:21:43Z</updated>

    <summary>総理が演説した。「崖っぷちにいるのは民主党ではない、日本と国民だ」。「総理、では...</summary>
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        <name>おおや</name>
        
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        <![CDATA[<p><DIV class="quote">総理が演説した。「崖っぷちにいるのは民主党ではない、日本と国民だ」。<BR>「総理、では民主党はどこにいるのですか？」<BR>「民主党は常に国民の一歩先にいる」</DIV></p>

<p><strong>これは創作です</strong>(挨拶)。なお参照、「消費増税否決なら解散も　野田首相、野党を牽制」(<a href="http://www.asahi.com/politics/update/0117/TKY201201160675.html?ref=reca">asahi.com</a>)。<br />
</p>]]>
        <![CDATA[<p>ところで岡田副総理は副総理で野党が消費増税等に関する事前協議に応じないことに「議論すらさせてもらえないのは、何のために国会があるのか」とご立腹だそうですが<strong>多分議論するために国会があるんじゃないかと思うんだけど</strong>。なお参照、「一体改革応じぬ野党批判＝選挙制度抜本改革も検討－岡田副総理」(<a href="http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2012011600834">時事ドットコム</a>)。</p>

<p>まあもちろん本音の話としては理解できないではなく、つまり日本の国会システムでは審議日程が一番の稀少資源なので開会時にはすべての議案が内容とともに出揃っていて優先順位に従って粛々と処理していくということにしないと片っ端から時間切れ廃案になってしまうという事情があり、ついてはあらかじめ内容について異論が出ないように目処を付けておきたいということであろう。しかし<strong>あんたらそういうの「談合政治」とか言って批判してたんじゃなかったっけ</strong>。</p>

<p>もちろん他にも解決方法はあり、野党に頼らなくても社会的に異論の出にくいような素案を作れるように省庁の審議会で十分に検討しておくとか、議案提出したあとの審議日程調整をプロである官僚に任せるとかいう可能性もあるのだが、<strong>「政治主導」とかいうスローガンで両方とも潰してきたのはやはり当の民主党</strong>なので、まあ全体的には<strong>要するに自業自得</strong>ということでよろしいかと思われる。</p>

<p>当然ながら彼らをして政権の座に就かせるという選択をした「日本と国民」としてもその成果をまさに堪能しつつあるということになるわけであって、高みから指さして笑っていられる状況ではない。冒頭に書いたようなツッコミは定番エスニックジョークに依拠するものであるので、野田総理がそういうツッコミを受けるだろうことを予期しつつ冒頭のような発言をしたとすればそれは相当に趣深い話であるなあと、そう思ったことであった。<br />
</p>]]>
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    <title>公刊資料</title>
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    <published>2012-01-06T05:01:49Z</published>
    <updated>2012-01-07T05:11:20Z</updated>

    <summary>なんかテレビをぼんやり流していたら日本書紀に出てくる中大兄皇子と藤原鎌足の蹴鞠で...</summary>
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        <name>おおや</name>
        
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        <![CDATA[<p>なんかテレビをぼんやり流していたら日本書紀に出てくる中大兄皇子と藤原鎌足の蹴鞠での出会いのシーンは三国史記に出てくる新羅のエピソードにそっくりなので創作なんだよとかいう話をしており<strong>いやでも日本書紀の完成は720年で三国史記は1145年だよなあ</strong>(挨拶)。まあ確かにそっくりだしこのシーンが創作くさいのもその通りだが三国史記から日本書紀がパクったというのは<strong>物理的に無理</strong>で、もちろん可能性としては三国史記の元になった資料から日本書紀が引き写したかもしれないが中国の別資料から朝鮮半島経由で継承したとか独立にそれぞれ利用したとか逆に日本書紀を三国史記が参照したというものもあり、そもそも三国史記の原資料はほとんど逸失しているはずなのでどうそのあたりの可能性を検証したのかというのも気になるところ、いやまあネタ元になった先生の研究としてはある程度検証しているのだろうが<u>なんぼテレビで時間的制約があるとはいえもうちょっと丁寧に説明したほうがよかったんではないかね</u>。</p>

<p>ところで年頭早々からこんなネタかと思いつつ「防衛大教授、中国軍の著作で無断引き写し　大学が調査」(<a href="http://www.asahi.com/national/update/0105/TKY201201040559.html">asahi.com</a>)という件。共著書の、元海将・防衛大学校教授の担当部分「2章で、防衛白書(2010年版)や防衛研究所が昨年初めて発行した「中国安全保障レポート」、昨年4月にあった「戦略研究学会」での個人の発表資料からの引き写しが数カ所ずつ計30行程度あった。参考文献のリストにはこれらの資料を明示していなかった。」という話で、これ自体は<strong>アウトやろ</strong>の一言でよろしい。つうか田母神事件といい<strong>自衛隊の内部教育はどうなっとるんだ</strong>と、まあそういう話か。</p>]]>
        <![CDATA[<p>一方でこの記事を書いた側もどうなのかと思われるところはあり、まあ見出しから<strong>「防衛大学校は『大学』じゃねえ」</strong>とか思うわけだがそう重要なポイントでもなかろうと思うのでスルーするところ、前掲引用部に続いてこのような記述が。</p>

<p><DIV class="quote">防衛大は昨年11月末、外部からの指摘を受けて、数人の教授からなる調査委員会を設置し、本人から事情を聴いた。防衛白書などの公刊資料からの引き写しが著作権法上の問題になることは少ないが、学術文書などでは出典を明示するのが一般的とされる。</DIV></p>

<p>(1) 公刊資料からの引き写しが<strong>著作権問題にならないわけがねえだろう</strong>というか、公刊(著作権法上の用語は発行ないし公表)されていない著作物を公表したら著作者人格権としての公表権侵害の問題が上乗せになるだけで複製権侵害の問題がなくなるわけではないというか。発行ないし公表が著作権の発生要件とされていないことに注意。</p>

<p>(2) 政府刊行物だということが言いたかったのかもしれないが(防衛白書が例に挙がっているのでね)、同法13条において「権利の目的とならない著作物」とされているのは法令・判決やこれに準じる告示・訓令・通達類、準司法手続きによる裁決、その翻訳物・編集物で政府機関の作成するものなどに限定されており、<strong>政府の作成・公表したものであってもこれ以外については著作権が発生している</strong>。同法10条2項で「事実の伝達にすぎない雑報及び時事の報道」が著作物から除外されているので白書の統計部分などについてはこれに該当する可能性があるが、書いた通り「事実の伝達」だから(権利があるからといって変えるわけにいかない)という理由で、公刊資料だからでも政府刊行物だからでもない。</p>

<p>(3) そもそも他人の著作物から一部分であれ引き写す行為は原則として同法21条に定める複製権を侵害するところ、同32条1項により「公正な慣行に合致するものであり、かつ、報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲内で行なわれる」場合には引用として例外的に認められることになっている。「出典を明示するのが一般的」じゃなくて、<strong>そうしないとアウトなんだ</strong>という構造が踏まえられていないわけ。</p>

<p>(4) なお防衛白書については同条2項の「国(......)が一般に周知させることを目的として作成し、その著作の名義の下に公表する広報資料、調査統計資料、報告書その他これらに類する著作物」に該当すると思われ、その場合には「説明の材料として新聞紙、雑誌その他の刊行物に転載することができる」。しかし学術文書等がただちにここでいう「刊行物」にあたるかは疑問であり(同法の他の用例は継続的な定期刊行物を念頭に置いているように読める)、その場合でも「説明の材料として」の用法に限られているので明瞭区分性などが要求されるのではないか。</p>

<p>要するに、もちろん問題の事例は(報道されている事実関係を前提にする限り)完全にアウトなのだが、<strong>それを報道している側も著作権法の基本構造に無知なまま記事を書いていますよ</strong>と、そういう割とどうしようもない話なのであった。しかしこれ編集委員の署名記事なんだが、大丈夫か朝日新聞。<br />
</p>]]>
    </content>
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    <title>新年。</title>
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    <id>tag:www.axis-cafe.net,2012:/weblog/t-ohya//1.839</id>

    <published>2012-01-04T04:58:27Z</published>
    <updated>2012-01-07T04:59:09Z</updated>

    <summary>ええ明けましたようでおめでとうございました。私は相変わらず年末年始とぎうぎう((...</summary>
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        <name>おおや</name>
        
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.axis-cafe.net/weblog/t-ohya/">
        <![CDATA[<p>ええ明けましたようでおめでとうございました。私は相変わらず年末年始とぎうぎう((C)くるねこ大和)で過ごしておりまして、というか何だ1/1締切と1/5締切って。前者は「功利主義と法：統治手段の相互関係」でしてまあそのご存知の方には明々白々でしょうが順調に行けば今年の10月に出ます。後者はまだ全然書けてないなあ。とにかく駆け足で新年のご挨拶。なお旧年中のウズベキスタン出張記と多少のフォローも公開しました。</p>]]>
        
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    <title>タシケント出張記・あとからひとこと</title>
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    <published>2011-12-26T04:52:32Z</published>
    <updated>2012-01-07T04:58:00Z</updated>

    <summary>ウズベキスタン行きの冒頭に書いた優先順位の件について、多少思うことを書く。 この...</summary>
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.axis-cafe.net/weblog/t-ohya/">
        <![CDATA[<p>ウズベキスタン行きの冒頭に書いた優先順位の件について、多少思うことを書く。</p>

<p>この話、要するに文系の研究者に多い<strong>大学と研究者自身のインセンティブ構造の違い</strong>という問題ではあり、つまり大学としてはこの事業に参加することによってさまざまな直接間接の利益(安定した留学生の確保とか、研修予算の獲得とか)が'可能になっているのだが、当該大学に所属する研究者にわかりやすい形でその配分があるわけではない。ないわけでもなく、つまり留学生の減少によって定員充足率が下がれば予算がカットされて環境が悪化するというような影響関係はあるのだが、第一にそれは謝金や寄付金が個人に入りますというようなわかりやすい関係ではなく、第二に効率が悪い。<br />
</p>]]>
        <![CDATA[<p>どういうことかというと、間接的な利益があるにせよ事業をやれば一定の負担も教員個人にかかるわけで、たとえば留学生に対して英語での講義をしたり研究指導をしたりする必要が出てくる。一方、それだけの時間と労力があれば優秀な研究者であるほどそれを自分に直接利益の入る仕事(原稿を書くとか学外で非常勤を引き受けるとか)に割り当てることができ、それによって利益を得ることができる。<u>前者による間接的な利益と後者による直接的な利益ではおおむね後者のほうが効率がよく、前者のマイナスが生じても後者からの投入で補填することができる</u>。さらに言えば、前者については大学なり学部なりに入る利益である以上それを取ってくるのがたとえば私自身である必要はなく、誰かが取ってきて誰かが苦労して環境整備のための予算が一定水準以上に維持されれば十分だということになろう。これを裏返すと<strong>そういうインセンティブ構造なのに全体の環境維持のための事業負担を引き受ける個人はあほうである</strong>(少なくとも功利的でない)ということになり、なんだか悲しくなってきたのでここで止める。</p>

<p>しかし問題は、似たようなズレが<strong>大学を単位としてもある</strong>ということであり、つまり大学としても(1) 何もしなくてもお金をくれるような話が一番ありがたく(当然ながら滅多にないが)、(2) 大学自身のミッションに沿ったことをやっていればお金をくれるような話は十分にうれしいものであり、(3) そうでもないが苦労すればお金をくれるという話はあまり優先度が高くない。ところで某国立Ｎ大学のミッションというのは当事者たちの信じているところによれば研究を中心としており、教育にはそれに付随する形で(たとえば後継者養成の必要性という観点から)コミットしているにすぎないという意識の教員も多い。LSとかどうなんだと言われれば、だから<strong>社会的要請に応えるためにイヤイヤやっている</strong>と、そういうことになる。</p>

<p>ところでこのような視点から留学生教育を見ると、<strong>特に途上国からの受け入れについては</strong>(例外はもちろんあるものの)<strong>限りなく(3)に近い</strong>。法学分野の場合、研究を共同でやる習慣もなければ分担できるような単純作業もないので<strong>院生の指導は純粋に負担</strong>であり、教員個人の研究にとってプラスになることはほぼないという事情もある。それでも先立つものがなければ何もできないし、そこにミッションを見出す教員も一定数いたので続けてきた事業なのだが、それがいつまでも続く話ではないかもしれないと、そういう状況もある。</p>

<p>つまり情報自体はすでに公表されているのだが、<strong>名古屋大学法学部は</strong>「平成23年度大学の世界展開力強化事業」、いわゆる<strong>日中韓「キャンパス・アジア」事業に採択され</strong>(タイプA-I (日中韓)・10事業の一つ、法学系では唯一(他に公共政策系2事業))、<strong>法学研究科は「博士課程教育リーディングプログラム」オンリーワン型に採択された</strong>わけである(全20事業、オンリーワン型6事業の一つ、全タイプ中ほぼ唯一の社会科学系)。正直この情報を聞いたときに青ざめるところはあり、だって事務系とか運営系の人手は雇ってもらえるけど教育自体はいまいるスタッフで分担するしかないわけですよ。しかもこれかなり英語を使わないといけない話なのに法学部には「○○法はドイツですから英語で講義はできません」とかしれっと言う人が相当割合でいるわけでね。</p>

<p>限りある資源の割り当てに関する優先順位ということを真剣に考えないといけない状況が迫っているのかなあと、まあそういう話。<br />
</p>]]>
    </content>
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    <title>タシケント出張記(3・完)</title>
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    <published>2011-12-21T04:36:53Z</published>
    <updated>2012-01-07T04:48:18Z</updated>

    <summary>なおウズベキスタン国民の大半は、信仰がどの程度厚いかどうかはともかくとしてイスラ...</summary>
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        <name>おおや</name>
        
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        <category term="移動記" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.axis-cafe.net/weblog/t-ohya/">
        <![CDATA[<p>なおウズベキスタン国民の大半は、信仰がどの程度厚いかどうかはともかくとしてイスラム教徒であり、従ってクリスマスは祝わないはずである。ロシア系などキリスト教徒もいるが、ユリウス暦を用いる正教会の系統なのでクリスマスは(我々の暦では)1月7日だそうである。以前年末に訪問した際、ホテルやレストラン、さらには大学でもそこかしこにクリスマスツリーを見かけたのでこれはなんぞやと現地の学生などに聞いてみたところ「我々はクリスマスを祝わないので<strong>これはクルバンのお祝いである</strong>」(イスラム教の謝肉祭)とか、「あのホテルはロシア系だからである」とか聞かされてほおそうか<strong>しかしなにやら疑わしいのう</strong>と思って帰国してきたところ前述の通りロシア系なら年末にはクリスマスのお祝いをしないはずであるという点についてご教示いただいたのであった。さらにクルバンの時期はイスラム教の太陰暦に基づいて設定されるので今年は年末に来ないはずであり、さて<strong>ではどういうことになっているかなあ</strong>と思って行ってきたわけである。その結果。</p>]]>
        <![CDATA[<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="RIMG0020.png" src="http://www.axis-cafe.net/weblog/t-ohya/archives/images/RIMG0020.png" width="320" height="240" class="mt-image-left" style="float: left; margin: 0 20px 20px 0;" /></span>どうももう別に隠す気もなくなったらしく<strong>全面展開でした</strong>。いやまあその別に<strong>祝えるものは全部祝えばいいんじゃねえか</strong>的境地に達したのであればご同慶の至りであって何も悪いことはないと思うわけだが浮かれてるねえ。<BR clear="ALL"></p>

<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="RIMG0011.png" src="http://www.axis-cafe.net/weblog/t-ohya/archives/images/RIMG0011.png" width="240" height="320" class="mt-image-right" style="float: right; margin: 0 0 20px 20px;" /></span>右にあるように国立ナヴォイ劇場(日本人抑留者が建設したもので、60年代のタシケント大地震にも耐えたというので現地では有名)の正面でもクリスマスツリーの飾りつけに熱心に取り組んでおり、ふと劇場入口を見ればイベントの告知とおぼしき看板になにやら怪しげなキャラクターが描かれておりあれかなあウズベキスタンも多少は「普通の国」になりつつあるのかなあ。<BR clear="ALL"></p>

<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="RIMG0010.png" src="http://www.axis-cafe.net/weblog/t-ohya/archives/images/RIMG0010.png" width="320" height="240" class="mt-image-center" style="text-align: center; display: block; margin: 0 auto 20px;" /></span><br />
</p>]]>
    </content>
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    <title>タシケント出張記(2)</title>
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    <published>2011-12-20T04:22:59Z</published>
    <updated>2012-01-07T04:49:58Z</updated>

    <summary>久しぶりのタシケントなのだが記憶と色々と変わっているところがあって驚く。なにより...</summary>
    <author>
        <name>おおや</name>
        
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.axis-cafe.net/weblog/t-ohya/">
        <![CDATA[<p>久しぶりのタシケントなのだが記憶と色々と変わっているところがあって驚く。なにより街全体の雰囲気が多少なりと明るくなったというか欧米化したというか、(キリル文字でなく)ラテン文字の看板も増えカフェやレストランも増え派手な印象になっている。まあ<strong>レベル的には数年前のウランバートルという感じ</strong>だし、洒落たイタリアンレストランに入ってもメニューに載っているワインの<strong>ほとんどが品切れ</strong>とか社会主義残滓的な雰囲気も残っているのだが。</p>]]>
        <![CDATA[<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="RIMG0018.png" src="http://www.axis-cafe.net/weblog/t-ohya/archives/images/RIMG0018.png" width="320" height="240" class="mt-image-right" style="float: right; margin: 0 0 20px 20px;" /></span>バスもどうやら一斉に入れ替えたらしく、ベンツの新しいものになっている。市街の再開発が進められているようで、路面電車(トラム)は基本的に街の周辺に限定するということで中心部では廃止、そのぶん道路が広くなっていた。まあどうも時間帯によっては渋滞が生じるくらいには交通が増えてきたようなので、ある程度やむを得ない話なのかもしれない。<BR clear="ALL"></p>

<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="RIMG0014.png" src="http://www.axis-cafe.net/weblog/t-ohya/archives/images/RIMG0014.png" width="240" height="320" class="mt-image-left" style="float: left; margin: 0 20px 20px 0;" /></span>もっとも良くなっている話ばかりではなく、一つ目は趣味の分かれるところかと思うが新市街中心部の<strong>アミール・ティムール広場が丸刈りになっている</strong>。以前は背の高い木が生い茂っていて雰囲気のいい公園だったのだが、どうも広場周辺の見通しを確保するという狙いらしい。いやまあ確かに広場周囲の建物が見えるようにはなったがホテルウズベキスタンとか<strong>別にそうみばのいいものでもなく</strong>、冬だからなんとなく寒々しい程度で済んでいるが夏にこのなかカンカン照りになっちゃうというのはどうかなあ。中心部から路上のチャイハナを追い出したという昔の話といい、どうも我々とは感覚のずれる所があるよなと(上から2枚は現在の広場周辺、下2枚はかつての広場)。<BR clear="ALL"></p>

<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="RIMG0012.png" src="http://www.axis-cafe.net/weblog/t-ohya/archives/images/RIMG0012.png" width="320" height="240" class="mt-image-center" style="text-align: center; display: block; margin: 0 auto 20px;" /></span><BR clear="ALL"></p>

<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="P1000396.png" src="http://www.axis-cafe.net/weblog/t-ohya/archives/images/P1000396.png" width="320" height="240" class="mt-image-center" style="text-align: center; display: block; margin: 0 auto 20px;" /></span><BR clear="ALL"></p>

<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="P1000397.png" src="http://www.axis-cafe.net/weblog/t-ohya/archives/images/P1000397.png" width="320" height="240" class="mt-image-center" style="text-align: center; display: block; margin: 0 auto 20px;" /></span><BR clear="ALL"></p>

<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="P1000739.png" src="http://www.axis-cafe.net/weblog/t-ohya/archives/images/P1000739.png" width="320" height="240" class="mt-image-right" style="float: right; margin: 0 0 20px 20px;" /></span>もう一つは外国人滞在者の心の支えだった(いや私だけかもしれんが)ミールというショッピングセンター(含むスーパーとファーストフード店)が閉鎖されていたことで、いやなんかトルコ系資本だったところ取締があっただか経理の不備があっただかで強制的に倒産手続に入ってしまったらしい。帰国した留学生に聞いてみたがミール以外に中心部にスーパーはないそうで、いやこれは不便になって困ったなあ。ホテルから歩いて5分程度・バザールの向かいに小さなスーパーがあるのでそちらに行きましたが、まあ雑貨屋程度のもので英語も通じないし(写真は在りし日のミールバーガー入口)。<BR clear="ALL"></p>

<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="RIMG0015.png" src="http://www.axis-cafe.net/weblog/t-ohya/archives/images/RIMG0015.png" width="320" height="240" class="mt-image-left" style="float: left; margin: 0 20px 20px 0;" /></span>あとは西側文化が入ってきたのはいいとして<strong>まともな入り方をしているのか</strong>という点であり、写真は隣のホテル1Fにあった謎のレストランの写真である。もともとアメリカ系資本のホテルチェーンだったのがロシア系になり地元系になりした、まあ要するにさびれたホテルで、一度夕食を取りに入ったときには非常に荒廃した印象のある・薄暗いところでもう一度来ようという気にはならなかったので中に入って正規ライセンスされているのかどうかを確認したりはしていない。<strong>してないけどねえ</strong>。つづく。<BR clear="ALL"></p>

<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="RIMG0016.png" src="http://www.axis-cafe.net/weblog/t-ohya/archives/images/RIMG0016.png" width="320" height="240" class="mt-image-center" style="text-align: center; display: block; margin: 0 auto 20px;" /></span><BR clear="ALL"></p>]]>
    </content>
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    <title>タシケント出張記(1)</title>
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    <published>2011-12-19T04:17:02Z</published>
    <updated>2012-01-07T04:22:25Z</updated>

    <summary>師走になると毎年そうなのだが研究会関係の開催ラッシュで週末ごとに東京と往復4週連...</summary>
    <author>
        <name>おおや</name>
        
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.axis-cafe.net/weblog/t-ohya/">
        <![CDATA[<p>師走になると毎年そうなのだが研究会関係の開催ラッシュで週末ごとに東京と往復4週連続という予定になっていたところ<strong>校務でのウズベキスタン出張を突っ込まれた件について</strong>(挨拶)。しかも帰国が24日夜という鬼畜日程です。<strong>リア充爆発しろ</strong>。</p>]]>
        <![CDATA[<p>しかしこの案件、現地滞在がほぼ4日間なのだが合同で行っている各大学が交代で拘束される一日(逆に言えばその時間帯以外は拘束されていない)を除くと<strong>ほぼフルタイムで公式日程が入っている状態</strong>で、行きは昼の飛行機でほぼ終日移動、帰りは現地時間22:30発の夜行便(そして名古屋組は仁川での乗り継ぎが悪く6時間待たされるので帰宅は夜になる)。まあ体力的にはきついがビジネスクラスを用意してくれるので仕方がないかなあと思っていたところどうも今年度から予算削減があったらしく大卒後何十年だか経っていないとエコノミーしか出せないと言われて満席状態の飛行機に押し込められ往復してきました。</p>

<p>まあ別に体力的に持たないわけではないのですがしかしエコノミーだとやはり書類仕事はできないわけで、結局往復でほとんど二日間が「移動に集中する日」になってしまい、もっともそのあいだに珍しく映画を何本か見られたりするので個人的にはそれもまた良しと思うわけですが、順調に仕事が遅れて各方面にご迷惑をかけることを考えると<strong>私もうこの仕事引き受けられないなあ</strong>という気がだんだんしてくる。案件自体には意義を感じているのだけれど、正直ここまで扱いが悪くなると他の案件に支障を生じさせるほどの優先順位は占められないよね、というか。</p>

<p>しかも事業の性質故か実施機関による現地政府への申請が通っていて入国・税関審査が「VIPコース」になっており、いやウズベキスタンというのはまずパスポートコントロールに我れ先に駆け付けて列も作らず窓口に群がっている人々に混ざって入国審査を受け、しかるのちに預けた荷物を受け取ってからやたら高圧的で時間がかかるのだが何を調べているのかよくわからない税関審査をくぐりぬけて合計1時間半が標準というものなのでそれがパスできるのはありがたいなあと思っていたところ、専用通路でほとんど人もおらず入国審査はものの数分で終了、荷物を受け取ったあとの税関検査もX線に通しただけの数分という優遇ぶりだったのだがそのあいだ荷物が出てくるまで人がほとんどおらず一応は暖房が入っているものの石造りで冷え切っている待合室で待つ必要があり、そこでなにか手違いがあったのか<strong>2時間かかるという罠</strong>。暖房機に室温が表示されているので確認したところ12度という有様ですっかり体が冷え切り、さらに結局普通のコースより時間がかかっていたわけで<strong>何がVIPなのかよくわからない</strong>。</p>

<p>くたびれはてて空港を出たところ数日前から寒波が来たそうで気温は氷点下で雪が降り始め<strong>なにこれ私なにか悪いことしたっけ</strong>。珍しく積雪に街が覆われ、このあとおおむね我々の滞在中寒波が続いて日中気温が氷点下10度近くという状況が続きました。我ながら相変わらず引きのよい人生を送っております。つづく。</p>]]>
    </content>
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    <title>おおさか</title>
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    <published>2011-11-29T14:55:00Z</published>
    <updated>2011-11-29T16:57:17Z</updated>

    <summary>テレビを見ていたら8時ちょうどに速報が入ったのでああと思い出したが、どうも一部の...</summary>
    <author>
        <name>おおや</name>
        
    </author>
    
        <category term="時事" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.axis-cafe.net/weblog/t-ohya/">
        <![CDATA[<p>テレビを見ていたら8時ちょうどに速報が入ったのでああと思い出したが、どうも一部の人々にとって阿鼻叫喚という結果に終わったらしいところ個人的には驚くほどどうでもいい感が漂っている(挨拶)。</p>]]>
        <![CDATA[<p>何でかなあと思うに、いやもちろん私は手続的正義を重視するリベラルなので橋下氏のようなポピュリストというかアジテータというかは嫌いなのであるが、<strong>じゃあ彼に対抗する側がそれを守ってきた人々であったかといえば全然そうではないので</strong>、むしろ手続的中立性は実質的に多数派支配を容認・助長するとかいって(いやそれ自体は多分に事実ではあるのだが)その排撃を唱えてきた方々も多いわけである。それに対して私は、いやそれでも手続的正義は重要であってそれを尊重することが弱者ないし少数者にとっても帰結主義的に正しいのだと主張してきたわけだが、その相手の人たちが、手続的中立性を軽視ないし無視するポピュリスティックな多数派に直面した途端に手の平を返して泣き言を言い出したとしても、まあ同情はできないよね。いやしかしこういう時だからこそ巨大な敵に対抗するために人民戦線だという人もいるのだろうが、<strong>ベトミンと同じ目に遭うのはイヤだなあ</strong>。</p>

<p>個人的には、しかし急速に成長した党派というものには無理があるものだということにあとは注目すべきなのかなと考えている。というのは(一定のレベル以上に)有能かつ清潔な政治家候補の人的資源は有限、あるいはかなり稀少であるところ、彼らをリクルートする経路はほぼ既成政党に独占されているからである。当選するまでの、あるいは落選した場合のフォローに使う資金や地位、対象者の能力や清潔さについて検証する技術などもここに含まれるのだが、新党派を設立して打って出るということになったときに集まってくるのは<strong>そのような既成のルートに乗ってこない、あるいはそこから弾かれた人が中心</strong>だということにならざるを得ない。で、その中には端的に無能であるという比較的無害なタイプから、スネに傷があるというタイプまでが含まれることになろう。</p>

<p>橋下氏個人の周囲についても週刊誌等で相当の報道があったようであり、まあ真偽は知らないが、しかし家族が云々というのは本人が選べるものでもないことが多々あり、正直攻め手としての筋は良くない。<u>逆境に打ち勝った私</u>というアピールに使われてしまうかもしれない。だが党派を形成し手を組んでやってきた人間の品質となれば話は別であって、基本的には選択の余地のある問題であり、帰結に関しても責任を免れないということになろう。まあ要するに、急成長した新規勢力が「高転びに、あおのけに」覆るとすれば身内の問題だよねと、そういうことである。</p>

<p>まあそもそも私の人生における「おおさか」としてはボンクラーズ1/3の方が明らかにウェイトが高いので、本気でどうでもいいと思っているのも事実ではある。いや空港問題で混乱すればむしろセントレアに勝機が***Deleted for the Security Reasons***<br />
</p>]]>
    </content>
</entry>

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    <title>国境をめぐって(2・完)</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.axis-cafe.net/weblog/t-ohya/archives/000833.html" />
    <id>tag:www.axis-cafe.net,2011:/weblog/t-ohya//1.833</id>

    <published>2011-11-25T16:37:37Z</published>
    <updated>2011-11-25T16:40:06Z</updated>

    <summary>なおついでにもう一冊、『国マニア』同様ほとばしる愛と好き勝手を堪能できる本として...</summary>
    <author>
        <name>おおや</name>
        
    </author>
    
        <category term="読書" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.axis-cafe.net/weblog/t-ohya/">
        <![CDATA[<p>なおついでにもう一冊、『国マニア』同様<strong>ほとばしる愛と好き勝手</strong>を堪能できる本として、長谷川亮一『地図から消えた島々』に言及しておきたい。これは主に太平洋(南洋)に存在するとされた(そして後に否定された)島々の「発見」から探検・消滅に至る過程を紹介し、なぜ(主に物理的に)このような問題が生じたのか、その背景にどのような時代背景や欲望が隠されているのかといった問題を論じたものだが、なにせ著者は本職の日本近現代史学者であるので<strong>専門の研究能力を総動員した好き勝手を堪能することができ、大変に素晴らしい</strong>。<br />
</p>]]>
        <![CDATA[<p>ただ、これも吉田氏の例と同様なのだがウェブページで公開された<a href="http://homepage3.nifty.com/boumurou/island/">「幻想諸島航海記」</a>の方がその趣味人度合において勝ると、私は思う。これもやはり書籍にするにあたって丸まった部分があるのと、ウェブでは「島」に焦点を当てて「発見」から消滅に至る一連の経過がまとめられているのに対し、書籍では南洋探検に関わった「人」とその欲望を中心として編年的に記述をまとめ直した結果として<strong>見つかったはずのものが消えた幻の島々</strong>という物語りが見えにくくなったのかなと思っている。この点、もちろん単に読んで楽しめばよい読者の立場である私と、歴史文化ライブラリーという歴史学業界では一定のステイタスのあるだろう(その割に時々トンデモが混ざるぞ、という文句を懲りもせずに蒸し返すが)媒体に歴史学者として書くことになった立場の著者の優先順位の違い、というのもあろうから批判するつもりはない。まあしかし読んで楽しむならウェブページの方が出来がいいと私は思うので、そちらを読んだ上でこういう情熱で人を楽しませてくれる著者を支えるために本を買えばいいのではないかと、そういう趣旨である。</p>

<p><CENTER>＊＊＊</CENTER></p>

<p>さてところで冒頭の事例の結末であるが、彼のさまざまな努力にもかかわらず、その子供がU国籍を取得することはできなかったそうである。法律上の要件を満たしていることは証明できそうだったのだが、U国政府の官僚主義の前に現実には進展しなかったということらしい。で結局どうしたかというと、T国の隣にあるU国の隣の隣にある<strong>R国の大使館に相談したらあっさり国籍をくれたそうである</strong>。旧S連邦を引き継ぐものという意識なのかどうか当時の領域に一定の関連があったことが証明できればかなり簡単に国籍が認められるそうで、まあ留学生の彼も苦笑しながら話してくれたのだが、ともあれめでたいはめでたい。ところで全然関係はないんですけど何のイベントか知りませんがプーチンとかいう人が歯医者さんの格好して道具持ってる写真をたまたま見ましてあれですかね<strong>やっぱり「患者」さんはそのあと口ひげをはやして傷跡を隠さないといけないように</strong>***DELETED for the Security Reasons***</p>

<ul>
	<li>長谷川亮一『地図から消えた島々：幻の日本領と南洋探検家たち』(歴史文化ライブラリー、吉川弘文館、2011)</li>
</ul>
]]>
    </content>
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    <title>国境をめぐって(1)</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.axis-cafe.net/weblog/t-ohya/archives/000832.html" />
    <id>tag:www.axis-cafe.net,2011:/weblog/t-ohya//1.832</id>

    <published>2011-11-25T14:31:38Z</published>
    <updated>2011-11-25T16:37:17Z</updated>

    <summary>ちなみに前のエントリで留学生から聞いた事例というのは、(バレバレだと思うがあえて...</summary>
    <author>
        <name>おおや</name>
        
    </author>
    
        <category term="読書" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.axis-cafe.net/weblog/t-ohya/">
        <![CDATA[<p>ちなみに前のエントリで留学生から聞いた事例というのは、(バレバレだと思うがあえて多少ぼかすと)中央アジアのT国で内乱が生じた際に、隣のU国へ難民として流出した両親から出生した子供が、(1) T国で有効な出生証明がないのでT国籍を取得することができず、(2) U国は血統主義をとっているためともにU国民でない両親から生まれた子供にはU国籍が与えられないことによって無国籍状態に陥ったというものであった。最初に彼の母国(U国)で会ったとき、彼はU国の国籍法に定められた例外条項の適用を主張することによってその子供にU国籍を取得させるという試みを、NPO活動の一環としてちょうど進めていたところだった。さてその後、留学生として来日した彼と再会した際に、そういえばあの件は結局どうなったのかと私は尋ねてみた。結末は次のエントリの最後に(←イヤがられる展開)。</p>]]>
        <![CDATA[<p>まあ基本的にはのんきな日本人として国境の感覚とは縁の薄い生活を送っている私なのではあるが、上記のようにちょこちょこと関係するできごとに出くわすことがあり、まあそれだけが理由ではないが地図とか国境とか変わった国家とかの話が好きで関連する本をよく読む。で、ちくま文庫から『ワケありな国境』というそれっぽいタイトルの本が出たので早速買って読んでみた。結論としては、<strong>ただの駄本である</strong>。</p>

<p>「駄本」とまで言う理由は二つある。一つは、記述が全体に低レベルでどこかで聞いたような話が非常に多いのだが、さらにレベルの高低含めて誤りがかなり見受けられること。<strong>どうにもならん</strong>と思ったのは、たとえば「現在すでに実行されているEUの主な施策は次のとおりである。」[121]という文章のあとに列挙されているのが、<br />
<ul><br />
	<li>(1) ユーロという共通通貨の採用。</li><br />
	<li>(2) 加盟国内の旅行・移住の自由化。「第三国からの旅行者も、EUのどこか一国で入国審査をパスすれば、後はチェックなしでEU内の移動ができる」[122]。</li><br />
	<li>(3) 市場の自由化。関税なしの商品流通。</li><br />
	<li>(4) 労働の自由化。「EU加盟国の国民は、EUのどこででも働けるようになった」[122]。</li><br />
	<li>(5) 国民と同程度の福祉享受。「EU加盟国の国民は、自国以外の加盟国でも最低限の基本的人権を保障されるように」なった[122]。</li><br />
</ul><br />
という話で、いやもちろん(1)に関して「一国が経済危機に見舞われたとき、通貨危機が起きる可能性も少なくなった」[121]とか書かれて<strong>いま読むと爆笑</strong>という問題とか(まあこれは原著が2008年なので情状酌量の余地あり)、(4)に関して労働力が自由に流通して素晴らしいとか言われてもポーランドから歯医者や床屋が消えた話とか(つまりもっと労働条件のよい先進国に行ってしまったのだが)ちょっと調べれば問題点もばらばら出てくるのになあという事実認識の問題とか、あるいは(5)について<strong>じゃあそれまでは他国民は最低限の基本的人権も保障されてなかったんかい</strong>というような文章表現のレベルの問題ではなく、つまり<strong>(2)とかどこで何を見たのという話だよねえ</strong>。</p>

<p>これはもともとEU(ないしその前身たる欧州経済共同体(EEC))の枠外で制定されたシェンゲン協定の話で、その後1997年に欧州連合法に組み入れられても(a) イギリス・アイルランドが渡航自由化に不参加、(b) ノルウェー・アイスランド・スイスはEU非加盟だがシェンゲン協定加盟、(c) ブルガリア・キプロス・ルーマニアはEU加盟国だがシェンゲン協定未施行というガタガタした状態にあるところが「ワケあり」だと思うのだが、それはすっかりすっ飛んでしまっている。あるいはデンマーク・ノルウェーは範囲内だがフェロー諸島やスヴァールバル諸島(ヤンマイエン島を除く)が入っていないというあたりがまさに「ワケありな国境」の所在を示していると思うところ、そういう話もまったく出てこない、というかまあ<strong>賭けろと言われたらこの著者がフェロー諸島が何かを知らない方に賭けるけどな</strong>。</p>

<p>他にもマルタ騎士団について「国境のない国」[102]と言い切ってしまっている点(国連における位置付けは「実体ないし国際機関」であり国家とはされていないし、日本も国家として承認していない)、「モンゴル共和国」という表記[235](正しくは「モンゴル国」)など、細かい事実の問題も散見される。要するに、<strong>記述の信頼性が低い</strong>という意味において駄本である。</p>

<p>第二は、そもそも「ワケあり」の選定基準というか<strong>こだわりのようなものが見て取れない</strong>という点。まずもってカバーしているネタがチベットとかジブラルタルとかシナイ半島とか有名どころの、それも大縮尺の地図でも見れば載っているようなものに限られており、私がある程度わかる話ということでヨーロッパを見ても前述のフェロー諸島もスヴァールバル諸島もオーランド諸島もチャネル諸島も言及すらされていない。内容的にも統一感がなく、要するに中東戦争の経緯のおさらいみたいな項目とか、国境線が長いので取締りができませんという程度のことが長々と書いてある項目とかが並んでいる。</p>

<p>こういう書き方をすると客観性が感じられないとは言われるかもしれないが、しかしまあ簡単に言えば<strong>要するに愛がないのである</strong>。なんでかしらんが特定の問題がどうしても気にかかるのでいろいろ調べ、あるいは地図を舐めるように見てアヤしい点を探り出し、あるいは先行文献を漁り、興味深い点をリストアップして関係文書を調べ必要があれば現地にまで行って実情を調べてくるぜというような<strong>無闇矢鱈な行動力や情熱</strong>が感じられず、まあなんだかそういう依頼が来たのか企画の売り込みに成功したかなのでとにかく目の前の箱に文字を打ち込んだりマウスをグリグリしたりで出てくるものでテキトーに一冊書いちゃうぜという感じ。この違いは、同じちくま文庫で出ている吉田一郎『国マニア』などと比較すれば歴然としている。国境とか国家のアヤしいところを扱っていても、選んだポイントの意外性や調べ物の徹底度合いを見れば、明らかに後者が優れている。</p>

<p>しかもその言うたらなんだが『国マニア』は吉田氏の書き物としてはイマイチとまで言わんが<strong>イマ0.3くらいのもの</strong>であって、ウェブで公開されている<a href="http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/2917/">「世界飛び地領土研究会」</a>は着眼点のユニークさといい調べ物の度合いといい実際に見に行っちゃう行動力といい正直もっと素晴らしいわけである。本としてまとめた際にその好き勝手さ加減が多少丸められてしまっても、まあこれならちくま文庫として恥じないのではないかと勝手に一読者として思っていたところ、<strong>同じレーベルで『ワケありな国境』のような駄本を出されるとがっかり</strong>と言うか、まあこのあたりのテーマの本がチラチラと出るところを見ると編集部に私と同様の趣味を持つ方がおられるのではなかろうかと思うのだがもう少しきちんと出す本を選ぶようにしないと看板に傷がつくのではないかと、そう思った次第である。</p>

<ul>
	<li>武田知弘『ワケありな国境』(ちくま文庫、2011)</li>
	<li>吉田一郎『国マニア』(ちくま文庫、2010)</li>
	<li></li>
</ul>
]]>
    </content>
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    <title>可哀想と気の毒(2・完)</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.axis-cafe.net/weblog/t-ohya/archives/000831.html" />
    <id>tag:www.axis-cafe.net,2011:/weblog/t-ohya//1.831</id>

    <published>2011-11-22T02:27:37Z</published>
    <updated>2011-11-22T02:30:51Z</updated>

    <summary>そのことは、同書で紹介されている(著者自身の)エピソードにも露呈している。たとえ...</summary>
    <author>
        <name>おおや</name>
        
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.axis-cafe.net/weblog/t-ohya/">
        <![CDATA[<p>そのことは、同書で紹介されている(著者自身の)エピソードにも露呈している。たとえば著者は、日本への帰化を考えた際に一度「冷たく」それを拒絶されているというのだが、その際に法務局の係官が指摘したのは著者が<strong>帰化が認められるための法律上の条件</strong>(最近5年間の国内居住)<strong>を満たしていない</strong>というものである。しかしそれは、(たとえばかつて日本的な名前に改めることが当然のこととして要求された、というように)どこにも書かれていない事実上の条件だというわけではなく、局長通達や先例など外部の人間には調べにくいようなものでもなく、政令や省令ですらなく、<strong>「国籍法」という制定法に明文で書いてあること</strong>なのだ。それに従って係官が判断したことに対して「胸のなかで怒りが煮えたぎり、今にも立ち上がってその場から離れそうになった」[197]と言われても悪いのは国家なのだろうか、その国家がどう動作するものかを調べようともしなかった著者の方なのだろうか。</p>]]>
        <![CDATA[<p>あるいは宣伝にも用いられている印象的なエピソード、つまり<strong>台湾にも日本にも入国できない状態に置かれたこと</strong>の原因がなんであったかというと、<strong>日本への再入国許可の期限切れに気付かずに出国したこと</strong>である。正直この部分を読むとまじめに日本に滞在している外国人の人たちはこの本を投げ捨てるだろうなと思ったし、ビザや入国許可と縁の切れない生活をしている私自身としても呆れ返った。要するに著者は、(実際に意識的な選択を行なったのは著者の両親なのでその点は著者自身には気の毒だよねと一点加算するにせよ)意識的に「無国籍」という状態を選択しておきながら<strong>その自分が日本国民と同様に扱われないのは可哀想だ</strong>と主張しているだけなのである。</p>

<p>結局この点、つまり同じように「可哀想」な状態にあってもそれがどれほど「気の毒」かという面ではさまざまに異なる事例があるし、それに対し国家が為しうること・為すべきことは後者によって規定されてくるという問題が著者の視野からはすっぽりと抜け落ちているし、それが(少なくともこの本における)著者の無国籍問題の扱い方を規定してしまっている。要するに著者は無国籍の人は可哀想だということを繰り返し描写するのだが、だから国家がどうすべきかという主張を支える議論にそれが発展することはなく、国家の側にすれば<strong>「知らんがな」</strong>と言いたくなるようなレベルの言説にとどまっているのである。映像作品による表現という手段を著者が目指した・目指していることについても、そのような問題点との関係を指摘すべきかもしれない。要するにそれは主として感情表現・感情動員の手段であり、理性的な討議や正当化のためのものではないからである。</p>

<p>最初に述べたように、この本で紹介されている実体験や、無国籍が発生するパターンと実例などの情報は非常に興味深いし、広く知られるべき価値のあるものだと思う。だが同時に、国家への甘えの構造に浸りきった著者の視点からそれが記述されることによって、無国籍が結局は甘えの問題なのではないかという偏見に根拠を与えてしまい、本人に責任がなく救済されるべき(1)のようなパターンをその見方へと巻き込んでしまうことを、私はかなり恐れている。その意味で、功罪ともに大きい著作だということになろうか。</p>

<p><CENTER>＊＊＊</CENTER></p>

<p>ちなみにこの本のもう一つの読みどころは、えらく短く、やる気がなく、<strong>しかし著者の悪口はしっかり書いてある</strong>楊逸氏の解説である。しかも両氏はいとこ同士に当たるそうで、それでこれというのはよほどプライヴェートで何かやらかしたのか、あるいは良かれ悪しかれ国家というものを背負っている側から見て著者の主張する「問題」というのがどれだけ共感できないものかということを示しているようにも思われる。</p>

<ul>
	<li>陳天璽『無国籍』(新潮文庫、2011)</li>
</ul>
]]>
    </content>
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    <title>可哀想と気の毒(1)</title>
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    <published>2011-11-21T02:20:18Z</published>
    <updated>2011-11-22T02:31:58Z</updated>

    <summary>というわけでこの間に読んでいた本のうち多少書きたいことがあるものについて。まず陳...</summary>
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        <name>おおや</name>
        
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.axis-cafe.net/weblog/t-ohya/">
        <![CDATA[<p>というわけでこの間に読んでいた本のうち多少書きたいことがあるものについて。まず陳天璽『無国籍』だが、偶然ながら母国で無国籍者の救済活動に取り組んでいたという国際法専攻の留学生(とても優秀)と縁があり、そのときに聞いた実例が頭の中に引っかかっていたので、書店で見かけてすぐ買った。著者自身、中華民国籍の両親から日本で出生し、その後の日中国交回復(逆に言えば中華民国との断交)によって無国籍になった人で、その立場からの経験やそこを起点とする研究の過程などが紹介されている。</p>]]>
        <![CDATA[<p>まず最初に言っておくと、たしかにあまり意識されていない無国籍者の問題に焦点を当て、著者自身の事例も含めてさまざまな実例を紹介している点でこの本は有益だし、非常に興味深い。叙述には非常に感情的ないし感傷的な部分も見受けられるが学術論文ではないので、率直に感情的なものを含めて実態を描写するという点ではむしろ有益かもしれない。</p>

<p>だが、ということで以下いくつか指摘したい。そもそも無国籍というのは所属する国籍を持たないという一定の状態であり、それ自体によってさまざまな不便が生じたり(典型的には海外渡航の場合)、受益の対象から除外されてしまったりする(たとえば奨学金の対象にならない)。要するにそれはいろいろと不都合な状態であり、それ自体として<strong>「可哀想」</strong>である。</p>

<p>しかし著者自身が述べているように、その状態に至った背景にはさまざまなものがある。仮にいま、<br />
<ol><br />
	<li>国家の側の事情で国籍を喪失し、かつそれに対応する機会が与えられなかったもの</li><br />
	<li>国家の側の事情で国籍を喪失し、対応する機会はあったがそれを選択しなかったもの</li><br />
	<li>本人の側の事情で国籍を失ったか得られなかったもの</li><br />
</ol><br />
を区別してみよう。たとえば政治犯が死んだことにされてしまった事例などは(1)だろうし、300日規定に抵触するとか母親の不法滞在が発覚することを恐れるなどの理由で出生届を出さなかったために国籍が得られないような事例は(3)であろう。著者の場合は(2)であり、つまり日本が認める「中国」を中華民国から中華人民共和国に変更したために国籍を失ったという点では国家の事情であるが、その際に台湾に戻るとか中華人民共和国籍に変更するとか日本国籍を取得するなどの道があったなかで無国籍を(著者の親が)選択したという事情が描かれている。</p>

<p>ところでこれが何故重要かというと、つまりどのような理由によるのであれ無国籍という状態によるデメリットは大して変わりないのだが、<strong>それに対して我々が、あるいは国家の側がどれだけ同情し気の毒に思い配慮しなくてはならないかは背景によって異なってくるのではないか</strong>ということである。たとえば(1)のような事例は本人に落ち度がないパターンであってどうにかケアすべきだと言いたいが、偽造パスポートで入国した結果退去強制処分になったのだが本来の身分を証明する書類がないので元々の所属国から受け入れを拒否されて無国籍になりましたなどという(3)の典型のような例に同情する余地などないのではないか、国家が認めていない不法行為を行なった結果として生じた「可哀想」な状態については、国家ではなく本人がその選択の帰結を引き受けるべきなのではないかと思われるからである。</p>

<p><DIV class="note">※もちろんこの点で<strong>「本人の側の事情」</strong>と書いたように、典型的には両親の選択の結果として子供が無国籍になってしまう事例が含まれることが問題となる。本人の選択が本人に帰結する場合は自己責任と言うにせよ、本人の自覚的選択が・それを選択したわけではない子供に影響する場合に、それをどこまで「自己責任」で処理することができるか。「親の因果が子に報い」ることをどこまで肯定すべきかは、確かに問題である。ただし、現在のところたとえば非嫡出子の法定相続分に関する問題、あるいは国籍取得の問題などにおいて基本的にはこの論理が踏襲されているし、生まれた子供には確かに責任がないとしても<strong>なんでそれを国家が救済しなければならないか</strong>という問題もあるので、ここでは「本人の側」とのみ述べておきたい。</DIV></p>

<p>このあたりの発想が、実は著者にもっとも欠けている点である。著者は再三、生まれ育った国(日本)が自分を受け入れてくれない、愛してくれないというような趣旨のことを嘆いている。しかしケネディの演説ではないが、では著者は日本に対して何をしたというのか。「私は何人[なにじん]か」という問いが同書末尾でキーワード的に繰り返されるが、実はそれに対する答えは著者自身がそれ以前の部分で再三述べている。たとえば「(......)私は中国人で、あなたは日本人でしょ」[102]、「I'm Chinese」[103]、「I'm Chinese, but born in Japan」[111]、「(......)同じ中国人として、仲良くやるべきですよね」[121]、あるいは「皆、私と同じ中国人」[326]。</p>

<p>たまたま日本に生まれ育ったが、日本人であるというアイデンティティを持っているわけでもなく、それどころかそこから解き放たれて国際的に活動することを志すような個人について、どうして日本という国家が恩恵を保証しなくてはならないのか。その一方、著者は公金が運営に大量投入されている日本の国立大学で学び、その大学院に進学し、公的予算で運営されている日本学術振興会から特別研究員としての手当(私が大学院にいた頃、PDで月額35万円だったか)を受けてハーバード大学に留学している。<strong>これだけの待遇をされていてなお、日本の国家は私を愛さないと著者が主張することは正当なのだろうか。</strong>むしろ、自分がそれに値することをまったくしていないとしても国家は私の望むことを何であれ提供すべきだと主張しているだけではないのだろうか。だとすればそれは、甘えの論理に他ならないのではないだろうか。</p>

<p><DIV class="note">※ここで私は、著者が同書の中で語っているプライヴェートなエピソードが、たとえ著者自身の観点からはどれだけ悲劇的であるとしても、度を過ぎた甘えの結末と呼びたくなるようなものであることを指摘すべきかもしれない。</DIV></p>

<p>国家とは何かというのはそれ自体当然ながら大問題だが、しかしそれは国民の作る共同体であるか、なにか独立の法人であるか、どちらかに帰着するだろう。前者であるとすればその「国民」の範囲に入っていない人間に国家が同等の配慮を与えるべき理由はないだろうし、後者だとしても国家に対して一定の義務を負ってこなかった人間にその代償としての保護を保障する必要はないだろう。国家を他者として見つめ、法的な契約関係を通じた権利義務について――もちろんそこから《この私》が最大の利益を引き出すことができるように――真剣に考えるという姿勢が、<strong>著者からはまったくといってよいほど感じられない</strong>のである。この項つづく。</p>]]>
    </content>
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    <title>日本法哲学会学術大会</title>
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    <published>2011-11-14T02:18:11Z</published>
    <updated>2011-11-22T02:19:58Z</updated>

    <summary>というわけで日本法哲学会を終えて戻ってきました。今年の学会の統一テーマは「功利主...</summary>
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        <name>おおや</name>
        
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        <category term="法哲学" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
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        <![CDATA[<p>というわけで日本法哲学会を終えて戻ってきました。今年の学会の統一テーマは<strong>「功利主義ルネッサンス：統治の哲学として」</strong>というもので、まあ企画委員を務めていたこともあり主報告の一本を担当することになりました。大屋雄裕「功利主義と法：統治手段の相互関係」。内容は、功利主義が法哲学である必然性はあるのか、別の言い方をすれば功利主義にとって法による統治は必然的でないのではないかという疑問を契機に、第一にこれに肯定的に答える安藤馨の統治功利主義が持つ問題点を指摘し、第二に法が他者の人格性の尊重という自己抑制を内包した統治手段であることを主張したもので、まあ<strong>要するに安藤氏に対する個人攻撃</strong>です。「相互関係」を謳ったのですがおおむねそこにたどりつく前の段階としての法の分析で力尽きたのは遺憾とするところ。<br />
</p>]]>
        <![CDATA[<p>当日ご覧になった方はお分かりでしょうが、午後は安藤・大屋報告に対して井上達夫のコメントというえらいこと<strong>師弟関係に閉じたイベント</strong>になってまして、しかしなんか身内の慣れ合いとか内輪ぼめよりは確実に<strong>骨肉の争い</strong>という雰囲気になるあたりが井上門下らしいというかなんというか。まあしかし、お互いの出方がわかっているという意味ではプロレスに近いものがあるかもしれん。</p>

<p>師匠のレジュメにおける安藤批判1ページ半に対し大屋批判5行というので安心していたところ、しかし案の定根元的規約主義との関係からそもそも私の基本的立場が誤っているという従来からの批判に言及されるに及びまして<strong>ああやはりこのメンツで楽に済むわけないよなあ</strong>と思うこと多少。つうか私両方からはさみうちになる運命なのでやっぱり首からぶら下がってぐるんぐるんすることになるのかなあ。</p>

<p>まあその、見にきていただいた方にお楽しみいただければそれで満足ですよ。ああしんどかった。<br />
</p>]]>
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