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    <title>おおやにき</title>
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    <subtitle>jus postulandi actionem pro aliis</subtitle>
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    <title>数字</title>
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    <published>2010-03-10T13:32:57Z</published>
    <updated>2010-03-10T14:26:35Z</updated>

    <summary>うんまあ私は個人的にこの人のことを研究者だとは思っていないので(過去のエントリも...</summary>
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        <![CDATA[<p>うんまあ私は個人的にこの人のことを研究者だとは思っていないので(<a href="http://www.axis-cafe.net/weblog/t-ohya/archives/000424.html">過去のエントリ</a>も参照)別にそう不思議には感じないんだけど、数字だけは並べておこうかね何かの参考に(挨拶)。何かというと「韓国に追い越されるかも...日本で危機感増大：東大・姜尚中教授、「新韓日関係」テーマにソウルで講演」(<a href="http://www.chosunonline.com/news/20100310000038">朝鮮日報</a>)について。</p>]]>
        <![CDATA[<p>ひとつめ。<strong>「日本の家電メーカーすべてを合わせた売り上げよりも、サムスン電子の売り上げの方が高く」</strong>(以下略)。あ〜もちろん「家電メーカー」の定義によるわけですが、とりあえずサムスン電子の売上高が連結で136兆2900億ウォン、約11兆円。日本の家電専業のメーカーから見繕うと、最大のパナソニックが連結7兆7655億円、シャープが連結2兆8472億円、三洋電機が連結2兆2154億円と、これで超えましたかね。数字はWikipediaから拾っただけなので、たとえばサムスン電子は2009年だけど三洋は2007年とか、若干のズレがあります。三洋は売り上げ減少傾向なので本当はもう少し新しい数字を調べた方が信頼性が高くなるけど(「日本は全体的に不況で売り上げが落ち込んでいるはず！」とか言う余地がまだあるよね)、しかしこれ日立や東芝のような総合電機メーカー(重電機器の方が中心)の家電部門も、ソニーのような音響映像系メーカーの家電部分の数字も足してないんだよね。つまり、かなり純粋に家電に絞った数字でこれなので、まあ、それでええやろという話。</p>

<p>念のために全体的な数字でも比較しておくと、サムスングループ全体の売上高が連結で21兆円くらいらしい(2007年)。これには商社や保険会社の売り上げまで含まれるんだけど、まあとにかくそれと日本メーカーの売上高を比較できるように並べてみると、日立が10兆円、パナソニックが前述の通り7.8兆円、ソニーが7.7兆円で超えましたかね。これ以外に東芝が6.7兆円、富士通が4.7兆円、日本電気4.6兆円、三菱電機3.9兆円、キヤノン3.2兆円くらいまでが3兆円ごえで、さらに上掲シャープ2.8兆円・三洋電機2.2兆円といったあたりを加算していくと、まあ<strong>比較するのも阿呆らしい</strong>と、まあそういうことでしょう。</p>

<p>もちろん日本メーカー単体と比べるとサムスンは規模が大きいとか、そうなった背景としての寡占化を進めた(進めざるを得なかった)韓国経済と、世界的に見れば中規模の企業が群れをなして競争を続けている日本市場の違いなんかについて考えてみることは有益ですが(どちらが優れているかというのには難しい問題もあると思うけど、というか特定寡占企業以外の選択肢が事実上ない社会ってのも住んでて楽しいのかなと、日本人としては思う)、<strong>まあとりあえずそういう話ではなかったよね</strong>。</p>

<p>ふたつめ。<strong>「韓国製自動車に対する評価も急速によくなっている」</strong>と言われてもたとえば人々の内心における評価が直接見えるわけではないので、とりあえず客観的なデータで代替してみましょうかね。<a href="http://www.jaia-jp.org/j/stat/change/"><strong>新車の登録台数</strong></a>。さしあたり評価の低い車を買いたがる人が大量にいるとは考えにくいので、人々の評価の代替的な指標としては使えるでしょう。これ以外に中古車市場における評価とかも考えられるけど、調べにくいので今回はパス。上記のデータは日本自動車輸入組合というところがまとめてネット上で見られるようにしてくれています。便利な世の中だ。</p>

<p>さて、車名別の推移(1995以降)を年ごとに見てみるとわかるのだが、韓国車を代表するヒュンダイでさえ最高は2004年の2524台で、そこから2008年の501台まで単調に減少、2009年は991台まで回復したもののこの傾向が続くかどうかはわからないし、以前の水準には遠く及ばないわけで「急速によくなっている」と評価するのは無理でしょう。ちなみに2010年の1月は17台、2月は12台だそうで、まあやっぱり改善はしとらんな、これは。</p>

<p>デウは2000年に813台を記録したものの2003年は85台まで急落、ここ3年間は一桁にとどまる。キアは1998年の30台が最高でここ5年間で7台のみ。ええと、他に韓国車のメーカーってどこがあったっけ。まあいずれにしても、<strong>どこを見ても評価が上がったりはしていない</strong>と言っていいんじゃないかな。ちなみにこれらの数字が絶対的な水準としてどの程度かというと、ヒュンダイの台数は<strong>一貫してアルファロメオやジープ以下</strong>(フェラーリよりは多い)。キアや最近のデウに至っては<strong>マイバッハより少ない</strong>(1台で4千万円以上する超高級車)。<strong>ないも同然だろそんなの</strong>。大手どころだとBMW・ベンツ・フォルクスワーゲンといったあたりはそれぞれ年間3万〜5万台は売ってるわけでね。</p>

<p>もちろん「よくなっている」かどうかは相対的な問題なので<u>それでも知っている人の評価は良くなっている</u>という可能性はありますが、そんな<strong>大多数の国民は見たこともないようなものの評価の上げ下げで国民のムード語ってもらってもねえ</strong>。</p>

<p>まあそういうわけで、私のなかではこの話は<strong>ああ評価を再確認したな</strong>で終わり。もちろん朝鮮日報の報道や翻訳に問題がある可能性は留保しておきます(でも以上のすべてがその部分の問題に起因すると、思う？)。なお姜尚中氏に「（日本）国籍を取得し、東京都知事選挙に出てみろ」と言った方に私も賛成するところがあり、<strong>そうすれば東大は失職だろ？</strong> 早く誰かが煽るといいんじゃないですかね。当選しても、まあ、もう東大の責任ではないわけだからさ。</p>]]>
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    <title>労組ぐるみ</title>
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    <published>2010-03-02T03:36:05Z</published>
    <updated>2010-03-04T03:36:59Z</updated>

    <summary>なんか民主党議員が北海道教職員組合から選挙資金を提供されていた件で産経新聞が「北...</summary>
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        <name>おおや</name>
        
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        <![CDATA[<p>なんか民主党議員が北海道教職員組合から選挙資金を提供されていた件で産経新聞が「北教組事件で問われる民主の体質　「労組ぐるみ選挙」が常態化」(<a href="http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/100302/stt1003022332020-n1.htm">MSN産経ニュース</a>)とか書いているわけだが<strong>いや別にそこは構わないんじゃないかな</strong>。</p>]]>
        <![CDATA[<p>というのは、労働組合というのも構成員の利益増進を第一義的な任務とする利益集団であって、その利益獲得のために貢献してくれる政治家を(得票・資金・精神的その他の面において)応援しようとすること自体は当然というか、むしろ民主政の活性化という観点からも望ましいことのはずである。民主党が「労組ぐるみ」なら自民党は「財界ぐるみ」じゃねえかという批判だってあり得るわけでね(最近はそうでもないと言われるかもしれないけど)。</p>

<p>ポイントはおそらく、「財界」や医師会と同様に利益集団である労働組合について、しかしその構成母体である「労働者」の数が多いために「公益」(私の場合これは社会の構成員の利益の総計ですが)との距離が近く見える、時によっては同一視されるという点にある。この点、「財界」などは人数も少ないし普通の人から見て構成員との距離が遠いから違うような気がする、と。しかしそれは誤解であって、いくら近くても労働者の集団利益と公益には距離がありますよ、というのは近年の非正規雇用労働者の問題で「労組は派遣労働者を守ってくれない」などと批判されていることでもわかるわけである。<strong>しかしそれ当たり前だよねえ</strong>という話であって、私の払った組合費で運営されている労働組合なんだから<u>まず私の利益のことを考えてくれ</u>となるのが自然。じゃあたとえば派遣労働者は誰が守ってくれるんだという話になればそれは自分たちで団体を作りなさいよというのが、まあ原則論である。なお第一義的にはそうであってもそれに差し支えない範囲で公益の追求も行なっていますと言う人がいるかもしれず、それはその通りであるが<strong>「私の経営理念は公益の増進です」とか堂々と本に書いたりする経営者ってのもいるよねえ</strong>という話であって労働側だけが特別だという話にはならない。まあ少なくとも我々(というのはちょいと特殊な大学の法学部界隈というくらいのことだが)に見える範囲で言うとさまざまな企業さんには大変お世話になっており、それは直接的な資金提供から学生のインターンシップ受け入れからさまざまな分野に及んでいるのであるが、労働組合とか見たこともねえな。もちろん日本弁護士会のような職能団体やNGOにはお世話になっているし、たまたま労組とはこれまで縁がありませんでしたというだけのことかもしれないのでその点には留意されたいが、少なくとも公益性を労働側だけが独占主張するというのは無理だなと思うわけである。</p>

<p>さて。というわけで労働組合も利益集団であるというごく自然の議論から始めれば、先にも述べたようにそれが選挙に関与するのは理の当然、批判する方が誤った前提に立っていますということになる。<strong>右も左も利益集団</strong>。もちろんその代表する利益と公益の距離の差には違いがあり、だから別の言い方をすれば「良い利益集団」と「悪い利益集団」があります、とは言ってもいいわけだが、こういう風に統一的に考えた方がまっとうな議論になる。</p>

<p>だから、今回の北教組問題のポイントは民主党の選挙が労組ぐるみかどうかという点にあるのではなく、その教職員組合の<strong>構成員の大半が政治活動の禁止されている公務員でしょ？</strong> という点にあるわけですよ。トヨタ労組が古本伸一郎議員を応援するのはご自由ご勝手、でも公務員が特定議員の選挙活動を支援しちゃいけないと、そういう話にしないと焦点がぼけると思うわけです。(3月4日公開)<br />
</p>]]>
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    <title>Alabama Shooting</title>
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    <published>2010-02-16T02:52:25Z</published>
    <updated>2010-02-16T04:16:38Z</updated>

    <summary>12日にアラバマ州ハンツビルの大学で発生した同僚射殺事件に関する国内報道がもろも...</summary>
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        <name>おおや</name>
        
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        <![CDATA[<p>12日にアラバマ州ハンツビルの大学で発生した同僚射殺事件に関する国内報道がもろもろなので簡単にまとめてみる。</p>]]>
        <![CDATA[<ul>
<li> 事件が起きたのはUniversity of Alabama in Huntsville (アラバマ大学ハンツヴィル校)。<a href="http://www.asahi.com/international/update/0213/TKY201002130135.html">朝日新聞</a>は「同州立大学ハンツビル校」と書いており、同大学は州立なので誤りとは言えないが「Alabama State University (アラバマ州立大学)」は別にあるので不適切。アメリカでは、University of California (研究大学)とCalifornia State University (教育大学)のように、同じ州立だが名称が違って併存しているケースがあるので注意が必要。アラバマの場合、どうもAlabama State Univ.の方はもともと黒人を対象として作られた大学だという話らしい。
<li> 容疑者として逮捕され、訴追されたのはDr. Amy Bishop。職位はAssistant Professorなので(同大学ウェブサイトによる)、「同校の生物学教授」(<a href="http://sankei.jp.msn.com/world/america/100213/amr1002131824006-n1.htm">産経新聞</a>)・「教授を務める女性」「生物学教授」(朝日新聞・前出)はいずれも不適切。というかこれを「教授」と訳してしまうと終身在職権(テニュア tenure)の審査でトラブルになったという記述の意味がわからなくなる(一般的に(正)教授はテニュアを持っている)。
<li> ではどう訳すべきかというのは、もちろん日本の制度と一対一対応しているわけではないので難しいところもあるが、職位を上から並べていくと (Distinguished Professor) → (full) Professor → Associate Professor → Assistant Professor → Instructor →Lecturerという感じ。このうちDistinguished Professorは明確な職位の区分というよりはそういう称号を許されていたり「○○記念講座教授」(冠講座教授)というポストに就いている人のことで、一般的には処遇も優れていれば格も高いと考えられているが、統計などでは(full) Professorの一部に入る(と思う)。(full) Professorが狭義の「教授」(正教授)で、続くAssociate Professorを「准教授」と訳すとすれば、その下の名称として直訳にも近い「助教授」を使うかなというところ。日本の大学では、准教授(旧助教授)をAssociate Professor、専任講師をAssistant Professorと訳しているケースが多いのではないかと思われ、この対応を重視すれば「(専任)講師」と訳す案もある。
<li> いずれにせよ「准教授」ではないので「生物科学部准教授」と表記している<a href="http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20100215-OYT1T00157.htm">読売新聞</a>も残念という感じ(朝日・産経よりがんばったことは認める)。不適切な理由は、さきほどの職位の系列にある最大の段差はAssoc. Prof.とAssis. Prof.のあいだにあるものだからで、それがつまりテニュアの有無だから。もちろん例外もあるのだが、潮木守一『職業としての大学教授』(中公叢書2009)によれば「教授の9割、副教授[Assoc. Prof.のこと]では74パーセントが終身職である。それに対して助教授[Assis. Prof.]で終身職にあるものはわずか8パーセントでしかない」(補足は引用者)。また「助教授で終身職にいる8パーセントのものとは、多くが短期大学の教員である(......)。それに対して4年制大学の助教授には終身職のものはほとんどいない」。容疑者はこの段差の下におり・上に登りたかった人なので、下側にいることが明確になる訳語を使うべきであったと思う。まあだから、「助教授」が正解でしょうね。
<li> ではなぜアメリカ報道などでも「a biology professor... was charged with murder」(<a href="http://www.nytimes.com/2010/02/13/us/13alabama.html?scp=2&sq=&st=nyt">New York Times</a>)というような表現が使われているかというと、professorが小文字で始まっていることからもわかる通り、これは「教授」という称号／職位ではなく可算名詞だから。つまり「教員団の一員」である広義の「教授」のこと。「大学教員」という職業区分に近い。Lieutenant General (中将)だろうがMajor General (少将)だろうが、あるいはBrigadier (准将)で明確にGeneralという言葉が付いていなくても、「army generals」(陸軍の将軍たち)でしょう、ということ。同様に、「the dead were all biology professors」(同上)と書かれているが、被害者の職位は正教授(学科長)・准教授(Assoc. Prof.)、助教授(Assis. Prof.)とまちまち。まあでも全部、名詞としてはprofessorsで数えるんだよ、ということです。
<li> でまあ犯行の動機としてはテニュアの審査が拒絶されたからという話が出ている。正確にはすでに「不合格」の決定が一度出ていて、異議申立てしたんだけどやはりダメでしたということだったらしい。Assis. Prof.というのは一般的に「テニュア・トラック」という、このテニュアへの申請をするためのポストなので、一定期間在職して合格しないと辞めなくてはならない。アラバマ大学の場合は6年間で合格しないとクビというルールだったようで、容疑者は2003年に移ってきているから今年度いっぱいで合格しないと失格になる。その間際でした、ということ。だから「研究者にかかる心理的重圧が議論を呼んでいる」(読売新聞・前掲)という話になり、それはそうなのだが、もう少しややこしいこともある。
<li> まずテニュアとは何かといえば「終身在職権」であり、アメリカでは定年制が廃止されているのでそれは文字通り<strong>辞めたくなるまでいていい権利</strong>である。上述の通り、Assoc. Prof.以上の教員はほぼテニュアを持っているので、「米国の大学では、特にすぐれた業績をあげた教授に「テニュア」と呼ばれる終身在職権が与えられる」云々という前掲朝日新聞の解説はほぼ誤り。「給与や講座維持などの面で一般教授より優遇されることも多い」(同)というのもDistinguished Professorの話で、テニュアの問題ではない。
<li> しかしそこで保証されているのは「在職」だけで、日本と違って年功での昇級や待遇改善はないから、テニュア獲得後何もしなければそのままその時点の待遇が一生続くということになる。待遇を改善するためには、業績をあげて他の大学から良い条件で引き抜かれるか、それを材料に残留交渉をして条件を引き上げるかということになる。要するに、テニュアが取れるかどうかというのはもちろん非常に大きなステップで重圧がかかることも当然だが、それをくぐり抜ければ競争が終わるわけではなく、一生圧力にさらされるのが基本。それに耐えられない人間はそもそもアメリカの大学教員に向かないんだよね、ということである。<strong>日本の大学もちっとは見習えばいいのに</strong>と個人的には思っているわけだが、その話は措く。
<li> ただまあ、我々のような文系教員と違って生物科学のような実験科学者だと<u>新しいポストは見つかっても研究室を一から作り直さないといけない</u>わけで、まあ簡単に移動したくはないよなという点は理解できるわけではある。なにやらその、テニュアの申請が最初に教授会で拒絶され、異議申立てしたら認められたんだけど大学本部に再度覆されて拒絶された(これが最終決定)とか、別件で以前に学長のリコール運動やったとか(失敗)、いろいろ経緯があったらしいところも憤懣の原因になったのかもしらん。
<li> とか思っていたら、1986年に<strong>容疑者が持っていたショットガンから発射された銃弾に当たって彼女の兄が死んでおり</strong>、関係者の証言もあって「事故」として処理されたが隠蔽工作があったんじゃないかとか再調査される動きになっているとか、1993年に当時容疑者が勤務していたボストン小児病院(Children's Hospital Boston)の同僚のところにパイプ爆弾が送りつけられた(不発)事件で<strong>彼女と夫の双方が連邦アルコールたばこ火器局の捜査を受けていた</strong>とか香ばしい話が続々と出てきているわけで。なんかこう、アメリカの大学がどうこういう一般的な問題に還元できるのか、特殊なパーソナリティの問題なのかという話にはなってきている模様。
<li> まあもちろん、過去にショットガンの暴発事故で人を死なせている(ことになっている)人間が拳銃を持って大学に入れるアメリカ社会の病理が云々、という話はあるわけですけどね。どっとはらい。
</ul>]]>
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    <title>政治的行為</title>
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    <published>2010-02-14T02:21:25Z</published>
    <updated>2010-02-14T03:42:38Z</updated>

    <summary>えらいことご無沙汰でした。別に何があったというわけではなく、累積原稿債務の整理を...</summary>
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        <name>おおや</name>
        
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        <![CDATA[<p>えらいことご無沙汰でした。別に何があったというわけではなく、累積原稿債務の整理を優先していただけなのですが、この間も行政負担がいっこうに減らない(というか入口がさらに増えた)こともあっていっこうに芳しくなく、じゃあ<strong>どっちにしろ同じじゃねえか</strong>と思ったこともあってまた出てきました。というかこういうのもちょっと間が空くとおっくうでいけませんな。この間に公開された仕事などについては、追って補完します。さて。</p>

<p>陸上自衛隊の連隊長さんが「同盟関係は『信頼してくれ』などという言葉で維持されるものではない」云々と会合で挨拶したことに対して北沢防衛相が「外交における政府の意思決定をないがしろにする行為」とご立腹だという件(「陸自連隊長発言「首相を揶揄、許し難い」　北沢防衛相」<a href="http://www.asahi.com/politics/update/0213/TKY201002130232.html">asahi.com</a>)。こういうのは、いつも書いていることだが、法的な次元と政治的な問題に分けて考えるのがよろしい。</p>]]>
        <![CDATA[<p>まず法的な次元の問題として、これが公務員に対して禁じられた「政治的行為」にあたるかという問題。一般公務員の場合には、<a href="http://www.axis-cafe.net/weblog/t-ohya/archives/000626.html">前にも言及したことのある</a>国家公務員法102条1項、およびそこから委任された<a href="http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S24/S24F04514007.html">人事院規則14-7</a>の5項・6項の問題だが、自衛隊員の場合は自衛隊法61条1項、およびそこから委任された<a href="http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S29/S29SE179.html">自衛隊法施行令</a>(以下「施行令」)86条・87条の問題となる。とはいえ、両者を比較してもらえればわかる通り条文規定の内容はほぼ同一であり、特別職国家公務員である自衛隊員には国家公務員法が基本的に適用されないから別立てで規定を用意したものに過ぎない。従って、自衛隊固有の職務に基づく制約に注意しつつも、基本的には人事院規則に関する議論が通用すると言って差し支えない。</p>

<p>それはつまり、<strong>公務員にも政治的自由はあり、ただ職務の性質から一定の制限を受ける</strong>という考え方である。基本的人権に対する制約であることから、この制限は抑制的に考えられなくてはならないことについても、すでに述べた。このために人事院規則(および施行令)は「政治的目的」と「政治的行為」という二段構えの規定を置き、制約される行為の範囲を<strong>政治的な目的を持った政治的な行為</strong>へと基本的に限定しているわけである。</p>

<p>さて、それでは今回の連隊長発言について。まず行為性については、施行令87条1項11号が「集会その他多数の人に接し得る場所で又は拡声器、ラジオその他の手段を利用して、公に政治的目的を有する意見を述べること。」を挙げているので、外形的部分について該当することは疑いない。従って、これが<u>法の禁じる行為にあたっているかどうか</u>(まだ政治的適切性を云々する段階ではないことに注意)は、その内容が「政治的目的」を持っているかどうかにかかっていることになる。</p>

<p>「政治的目的」性については施行令86条が定めるが、うち4・5号以外は明らかに問題にならないことがわかるだろう。可能性があるのは4号「特定の内閣を支持し、又はこれに反対すること。」および5号「政治の方向に影響を与える意図で特定の政策を主張し、又はこれに反対すること。」だろうが、連隊長発言が鳩山内閣やその政策決定に言及したものではなく、ある特定の<strong>態度ないし考え方</strong>を批判したものに留まることを考えると、この特定性に難がある、ということになろう。つまり一般的に政策というのはまださまざまに選択肢がある状態からそのうちのどれを選ぶべきかという前向きの問題である。すでに行なわれた決定に基づけば一定の義務ないし責務がある(だから履行すべきだ)という後ろ向きの主張には、未来に対して影響を与える意図が第一義的には想定できない以上、政策の問題ではないと考えられるからである。例を挙げれば、「消費税率を上げるべきだ」というのは今後の決定をどうするかという問題であり、従って政策提言だが、「贈与を受けたら贈与税を払うべきだ」というのはすでに導入されている贈与税制度の適用に関する主張であり、政策に関する発言とは言えない。それは、たとえば贈与を受けたかどうかという事実関係に争いがあり、従って納税義務があるかどうかについては社会的な論争の対象になっているというような事態があったとしてもなお、そうなのである。それはあくまで、すでに選択された社会的意思決定の執行に関する議論であり、政策に関する問題ではない。</p>

<p>さてこう考えたときに当の連隊長発言がどうかといえば、例として挙げた納税義務に関する問題ほど真っ白ではないものの、政策性が感じられるとは言いがたいということになろう。つまり、「同盟関係を維持するなら・しかるべき行動を取るべきだ」という主張は、それ自体としては、<strong>同盟関係を維持するかどうかという将来の選択に関する問題には中立的</strong>だからである。もちろん、<u>一般的にこのような主張をする人の多くは維持するべきだという主張を持っているので</u>(医師や弁護士のような専門家であれば、まったく中立に選択肢それぞれが必要とするものについて述べるという事態も想定できるが、その場合の発言相手は選択に迷っているクライアントであって、開かれた範囲ではない)、そのような<u>政策的意図の表出という要素がまったくないとは言い難い</u>だろう。しかし、繰り返して言えば公務員に対する政治的行為の制限はあくまで限定的に適用されるべきなのであって、私自身はこれを「政治的」と扱うことは望ましくないと考える。</p>

<p>まあそもそも、大臣が「許し難い」と「厳しく批判」している割に処分は文書注意であって、つまり法の定める<strong>懲戒処分ではない</strong>。<strong>こんなもん法的には処分できません</strong>という話が透けて見えるよな、とは思うわけである。</p>

<p><CENTER>＊＊＊</CENTER></p>

<p>さて、しかし<u>法的には</u>その程度の話であるとして、<u>政治的には</u>どうなのか。「違法」ではないとしても「適切」なのかという問題はあるだろう。これはまあ法的な問題と違ってそれぞれの人の立場によって意見が違ってくると思うが、私としては<strong>そもそも日米同盟が揺るぎないという現状認識があれば「そうですね」で終わる発言じゃねえのか</strong>という点を指摘しておきたい。</p>

<p>確かに首相の「信頼してくれ」という言葉はあったわけだが別に"Trust me."という表現が過去に例のないものだというわけでもなかろうし、仮に現場レベルの関係に熱が入っていないとしてもそれはそれとして日米関係にトラブルはありませんという状況であれば、せいぜい「まあ現場の人としては言いたいこともあろうけどねえ(苦笑)」という程度の話だろう。あるいは、問題があると認識していたとしても原因がまったく別だと思っていれば(相手国元首のパーソナリティの問題とかな)、やはり「同盟関係は『信頼してくれ』などという言葉で維持されるものではない」という発言を「揶揄」とは受け止めないのではないか。これに「許し難い」とかいきり立つこと自体、北沢防衛相が<strong>日米同盟はうまくいっていないし、少なくともその一因は「信頼してくれ」と言うだけでほったらかした鳩山総理にある</strong>と思っていることの証拠みたいなものだ、と思うわけである。いや、私はそう思っても無理ねえなと思うけどさ。</p>

<p>しかしその、少なくとも字面としてこの発言はそう画期的なことを言っているわけでもないわけで、それが「揶揄」に響いてしまうというのはどちらに責任がある問題なのか。つうか<strong>税務署の中の人が「間違いが露見したらあとから修正申告すればいいやという態度ではなくて、贈与を受けたらきちんと確定申告してください」と言ったら総理大臣に対する揶揄になりかねない現状</strong>というのもあるわけだが、これは税務署の人が悪いのか総理の方が悪いのかということを考えるべきだとは思うわけである。</p>

<p>まあ当の連隊長の人に対しても<strong>「いらんこと言いなや」</strong>という気分はあるのだが(第一に、上述した通りこの発言が真っ白だとは言えないよねえと思うところもあり、第二にいま無駄にそういうこと言っても仕方ないじゃんと思うところもあり)、そもそも問題がどちらにあるのかということを考えずに責任を全部部下に転嫁していくという態度はどこかしら『ヒトラー最期の12日間』に似てきたな、とは思うわけである。別にベルリンに追い詰められて生命の危機に瀕しているわけでもないし、現に権力を握っていて「次の選挙」まで(少なくとも民主的に)追い出されることはないんだから、ちっとは泰然としていればいいのにねえと思うところではある。</p>]]>
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    <title>ジュリスト寄稿</title>
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    <published>2010-02-02T04:16:54Z</published>
    <updated>2010-02-16T04:38:37Z</updated>

    <summary>実用法律雑誌『ジュリスト』に原稿が載りましたよまるで法律家みたいですねというのは...</summary>
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        <name>おおや</name>
        
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        <![CDATA[<p>実用法律雑誌『ジュリスト』に原稿が載りましたよ<strong>まるで法律家みたいですね</strong>というのは以前なら<strong>「ぼく哲学者だからさあ」</strong>という韜晦のつもりだったのですが最近は昨年の業績を評価して寄与した要因を分析していたり新しいプロジェクトを説明するための概念図を書いていたり会議で報告するプレゼンテーションを作っていたりして<strong>企画課のリーマンだよねえ俺</strong>という趣旨です(挨拶)。明後日からは営業に同行して出張だぞと。</p>

<p>というわけで、大屋雄裕「透明化と事前統制／事後評価」(特集：日本法の基層--分野横断的考察と分析)『ジュリスト』No. 1394 (2010.2.15)、有斐閣、2010、pp. 37-42. 内容は、<a href="http://www.axis-cafe.net/weblog/t-ohya/archives/000638.html">昨年7月に開かれた「日本法の透明化」シンポジウム</a>でしたコメントです。文中で「......という意見もある」云々というのは、特集冒頭にまとめられている同特定領域研究の検討から出てきた意見を指しているので、対応させてお読みください。いや、その部分がどういう形で公表されるのかわからなかったものでぼかした書き方になってまして、わかりにくかったら申し訳ない。</p>

<p>方向性としては、内閣法制局審査に典型的に現れているように<strong>事前統制に重点を置いた法システム</strong>というものを日本の特徴としてむしろ積極的に評価しましょうというスタンスで、最近留学生向けに作っている授業やその教材(日本の法システム)とも一貫した姿勢になっています。この観点からすると<strong>最近民主党政権が行なっている一連の制度改変はまったくそれを覆そうとするものになっている</strong>わけで(その評価は別の問題、というのは『ジュリスト』論文にも書きましたが)、せっかく書いたけどすぐに「2009年以降の状況」を説明するための別の章を作らないといかんのだなあの教材、と落ち込んでいるわたくし。(2010/02/16公開)</p>]]>
        
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    <title>法整備支援連絡会</title>
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    <published>2010-01-22T14:05:17Z</published>
    <updated>2010-02-23T16:47:02Z</updated>

    <summary>大阪の検察庁に呼び出されました(誇張)。いや法務省の法務総合研究所というところが...</summary>
    <author>
        <name>おおや</name>
        
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.axis-cafe.net/weblog/t-ohya/">
        <![CDATA[<p>大阪の検察庁に呼び出されました(誇張)。いや法務省の法務総合研究所というところが主催されている表記の会合に参加したところ会場が大阪高等・地方検察庁と同じ建物に入っている同研究所国際協力部だったというだけのことなのですが、しかし法総研のなかのひとというのはたいがい裁判官か検察官であり、かつ建物の警備体制が検察仕様なので(「用事のある階以外には決して行かないように」と釘を刺された上で会場のあるフロアと直結している階段を使う)、普段そういうお役所と縁のない私のごとき小心翼々たる人物としてはどきどきものなのですよ。はあどきどき。</p>

<p>会議出てるえらい人も多くて、以前の同じ会議の懇親会で某先生から突然☆野Ａ１先生に紹介されたままどっか行かれるという目に遭ったことがトラウマになっております。<strong>なにを喋れというのか</strong>。今回からなんか食堂の業者さんが変わって夜の会合ができなくなったから懇親会なしという話になり、<strong>胸を撫で下ろすわたくし</strong>。いやこれで<strong>特別取調室とかの前も通らなくて済むしな</strong>。<br />
</p>]]>
        <![CDATA[<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="RIMG0011.jpg" src="http://www.axis-cafe.net/weblog/t-ohya/archives/images/RIMG0011.jpg" width="320" height="240" class="mt-image-left" style="float: left; margin: 0 20px 20px 0;" /></span>会議自体はですな、わたくし下っぱなので質問を一度した以外は黙って聞いていたのですが、韓国法制研究院というまあ日本だと内閣法制局にあたる組織のえらい人から「支援はじめました」というお話をいただき、「急速な経済発展と民主化を達成した我が国の経験を伝えたい」とか言われたのでしかし隣に日本を置いておくという処方箋は普遍化不能だしなあと思ったり(いや民主化に関しては韓国の人々の努力をまったく無視できないし、なんかすぐにカンボジアの大学に新しい建物一つ建てちゃうぜという話も聞こえてきて<strong>やると決めたらすぐやるぜ</strong>という体制についてはうらやましいと率直に思うわけだが)、ネパールの最高裁判事のひとから支援対象国の立場のお話しを伺ってこれネパールからの研修受け入れるのも大変だなと思ったり(いやどちらが悪いかという問題は棚上げして言うけど相当に英語が我々のものと違うのでもう神経集中してないと聞き取れない)、まあそんなでした。あ〜質問は我が国の支援実施体制に関する問題で、裁判官・検察官が「役人的」である、というのはキャリアパスの一環として二・三年支援に関わって次のポストへと移動してしまうので経験を深めたり継承するのが難しいという指摘が席上あったのですが、じゃあ弁護士さんはどうなんでしょうという話。個々の弁護士さんにとって法整備支援が<strong>金になる話</strong>に結びついているのか、そうでなくそれぞれの善意と資金力頼みでやっているとすると<strong>金の切れ目が縁の切れ目</strong>という話にもなりかねないし、これから弁護士さんが増えて余裕がなくなっていくとすると先細りになってしまうのではないかと。日弁連のえらい先生からは、でも今のところ善意に頼っていて、アメリカではコンサルビジネスなどに結びついているところもあるけど、日本はまだそこまで言っていないというご返事をいただきました。いや<u>金だけもらったって途上国に駐在して働くとかまっぴら御免</u>と思う人は山のようにいるのでやっぱり善意は大切なんだけど、善意に人生を賭けても後悔しないで済むだけの待遇を用意してあげるのが、そういう活動が必要だと思うなら、重要なことだと思うのですよ。で、それはお金を握っている人たちに考えてほしいなあ、と言ったつもり。</p>

<center>＊＊＊</center>

<p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="RIMG0013.jpg" src="http://www.axis-cafe.net/weblog/t-ohya/archives/images/RIMG0013.jpg" width="320" height="240" class="mt-image-right" style="float: right; margin: 0 0 20px 20px;" /></span>せっかくなので、帰りは福島駅から一駅だけ阪神電車に乗って帰ってきました。で、新大阪で551蓬莱の豚まんを買うついでに500系のぞみ東海道新幹線引退記念のバウムクーヘンを買ってみる。ええっとね、これ芯が長辺方向で円柱状に入ってまして<strong>えんぴつかよ</strong>という感じの愉快な形状ですが、あのまあ率直に言って縁起物でしておいしくないよ。コンビニのバウムクーヘンの方がうまいとか言われてましたが、これで500円だから仕方ないかな。事務にお土産で買っていったのですが、こんど埋め合わせしないといかんかなあという気になりました。(2010/02/22公開)</p>]]>
    </content>
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    <title>漢方薬と事業仕分け(補足)</title>
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    <published>2009-12-04T06:18:47Z</published>
    <updated>2009-12-05T06:19:30Z</updated>

    <summary>少し前に書いたことについて、周辺の議論を見ていて多少補足した方がいいだろうと思っ...</summary>
    <author>
        <name>おおや</name>
        
    </author>
    
        <category term="時事" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.axis-cafe.net/weblog/t-ohya/">
        <![CDATA[<p><A HREF="http://www.axis-cafe.net/weblog/t-ohya/archives/000671.html">少し前に書いたこと</A>について、周辺の議論を見ていて多少補足した方がいいだろうと思ったことが三点ほどあるので、書く。いずれも私自身としては賛成半分反対半分といった気分なので難しいところであり、ただこの「難しい」という気分を理解してもらいたいと思うところはある。<br />
</p>]]>
        <![CDATA[<p>第一点は、<STRONG>混合診療の是非</STRONG>について。すでに書いた通り、漢方薬を保険適用から外した場合の問題点というのは現在の混合診療禁止原則に依存しているので、そこを外せば少なくともこの問題は解決される。その方向を考えよう、というのは一つの方向性であるだろう。</p>

<p>他方、この点に危惧を覚える人がいることもよくわかるわけであって、この問題を起点に混合診療の範囲がなし崩しに拡大され、先進的・先端的＝おおむね<STRONG>金のかかる医療</STRONG>が保険適用から外されてしまうのではないか、貧乏人は最善の治療を受けられなくなってしまうのではないかということがあろう。ただこの点、もちろんそうなのだが、一方で医療資源の投入を社会からの投資と見た場合(もちろんこういう見方をしてよろしいかということは議論されるべきことだが)<STRONG>どう考えても採算が合いません</STRONG>という医療もあるわけであって、七十過ぎの末期がん患者の余命をそれなりの期間延ばすために大学の予算から一日あたり<STRONG>私の年間基盤研究費を超える額</STRONG>が投入されているのを目にしたりすると、正直ある種の感慨なしとしないのである(<STRONG>おまえんとこの研究費が少なすぎるんじゃ</STRONG>というご批判もあろうし、正直<STRONG>それは事実なのだが</STRONG>、まあこの点にはいろいろな経緯があるのである)。</p>

<p>また、現在は保険適用外の治療をすることに非常に高いハードルが――少なくとも一般の医療機関であれば――あるわけだが、それが消えてしまうとたとえば代替医療のようなものが医療現場に非常に入ってきやすくなるのではないかという危惧もあるだろう。もちろん代替医療といってもピンキリなので、<U>高価でなく・害がなく・近代医学を妨害しないもの</U>であればプラシーボ効果程度でも期待してもう少し活用しても良いのではないかとも思われるが、一方で<STRONG>この三条件を満たす代替医療をあまり見かけない</STRONG>というのも本当のところであり、きちんとコントロールしないとまずいといわれればそうかなとも思う。</p>

<p>この点、しかし<U>ではコントロールされた混合診療であれば良いのではないか</U>という考えもある。つまり、現在でも「先進医療」(<A HREF="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%88%E9%80%B2%E5%8C%BB%E7%99%82">Wikipedia</A>)のように例外的に混合診療が認められる場合というのがあり、たとえばこの場合は保険診療から外れた「特別料金部分」についてのみ患者全額負担、それ以外の診察・入院・投薬などの費用は保険適用ということができるわけである。漢方薬についてもこのように、限定的な混合診療として患者自費負担にできるのであれば、問題はある程度解消されるだろう(直接的には経済的負担の上昇に限定される)。</p>

<p>もちろん、この「先進医療」は将来の保険適用を目指して安全性・有効性の評価を進めているような先端的医療について<U>特定の医療と実施医療機関の組み合わせで認められる制度</U>であり、あくまで例外を処理するための制度ととらえた方が良い。つまり、現在の漢方薬のように非常に多くの医療機関で定型的に行なわれているような医療を扱うための制度ではないので、仮に漢方薬についても類似の措置を考えるなら別の枠組を整備する必要があるだろう。その整備を行ない、維持するための経費を考えたときに(つまりたとえば医療情報処理とか保険請求のシステムも相当作り直す必要が出てくるわけであるから)現状とどちらが効率がよいのかは、また別の問題である。</p>

<p>第二点は<STRONG>漢方薬の有効性</STRONG>についてであって、通常の近代医学における薬剤と同様の二重盲検法によるエビデンスが不足していると批判されているのを見かける。これについては第一に、かなりの程度その通りだが一部の薬剤についてはきちんとエビデンスが集積されていることが注意させるべきだろう。だがこれはもちろん、<STRONG>じゃあそういうのに限って保険適用を認めればいいんじゃないか</STRONG>という主張を退けるものではない。</p>

<p>第二は<STRONG>いやでも二重盲検試験をやってない治験、それなりにありますけど</STRONG>という点であり、それは結局<U>患者さんを実験材料にできないための制約</U>だと、そういうことである。つまり、たとえば抗がん剤の二重盲検法による治験をシンプルに考えると<U>その抗がん剤を使う群と無治療群を比較して効果を見る</U>ということになるわけであるが、当然ながら後者ではがんが大きくなってお亡くなりになる可能性が非常に高いわけである。本当に無治療だと副作用も出ないのでブラインドにならないとかいう問題は無視して、さすがにそれは非人道的で許されまいと、多くの人がそう考えるのではないかと思う。</p>

<p>そこで次に、<U>従来の標準的治療と新しい抗がん剤による治療を比較して効果を見る</U>という可能性を考えるわけだが、ここで従来のものが点滴で新しい薬が経口(飲み薬)だったりするとやはりブラインドのしようがない。いやもちろん従来治療群にはプラシボの経口薬を飲んでもらい、新治療群にはプラシボの点滴を受けてもらえば患者さんに対するブラインドは確保できるわけであるが、<STRONG>なんの意味もないのに入院点滴を続けてもらうことになるのはひどくねえか</STRONG>という話が出てくる。結局、純粋に科学的な成果を出すことを考えたらもちろん二重盲検法によるチェックが理想的なのであるが、<STRONG>患者さんの幸福と権利に配慮するとできません</STRONG>、科学的にはやや疑念がありますがブラインドを諦めたり明確な対比のできないデザインにして「それなりのエビデンス」を積むことにしますという例は想定することができ、というか実際にそれなりの数ある。二重盲検法というのはだから、金科玉条ではないよなというのが私の言いたいことである。もちろん、<U>それでもそれなりに科学性の高い治験デザインを考えることはできるよね</U>とか、<U>その水準のことも漢方薬はやっていません</U>という批判を退けよう、ということではない。繰り返すが、そこんとこは具体的な状況に応じていろいろ難しいこともあるという点だけをわかってもらいたいと思っている。</p>

<p>第三点は<STRONG>治験をやらないのは悪いことか</STRONG>という問題であり、いやもちろんやった方がいいに決まっているのだが<STRONG>治験もタダではない</STRONG>。というか<STRONG>すごいカネがかかる</STRONG>。治験対象の薬剤、プラシボは当然のこと、検査費用や検査材料の費用、記録を付けるならその帳面、投与に使う注射器から希釈に使う蒸留水から用意しないと医療機関は治験依頼を引き受けてくれない。さらに、協力してくれる患者さんには入院する場合にはその費用、通院でも「来院費用の弁償」として一回7千円見当を支払わなくてはならない。もちろん健康被害が生じたら補償金を覚悟する必要もある。さらに、医療機関に対しても治験費用として相当の報酬を払う必要がある。正直に言えば審査委員会で扱うのにだってそれなりの額の審査料を頂戴しているわけである(<STRONG>なお私個人には一銭も支払われないが</STRONG>)。そういうものを全部負担してようやく一個の治験が可能になるのであり、開発経費の総額は(近代医療における新薬の場合だが)<STRONG>100億円以上</STRONG>とも言われている。</p>

<p>で。典型的な新薬の場合、その費用は(開発に成功すれば)市販後の薬価から回収することになるだろう。前に高い抗がん剤が1本20万円という話を書いた。もちろん材料が高いとか合成に経費がかかるという背景もあるわけだが、それに加えてこのような多額の開発経費が反映されているからというところもあるわけである。逆に言うと、だから治験費用を負担しなくていいジェネリック医薬品は安く売れるということにもなる。</p>

<p>さてそれで漢方薬の場合だが、まあ伝統的に使われてきて安全性などについてはそれなりに既存の情報もあろうし典型的な新薬の場合ほど多額の経費はかからないとして、しかしおそらくは処方ごとに<STRONG>少なくとも数億か十数億円のケタ</STRONG>では経費がかかるだろうと思うわけである。それをツムラなりどこかなりが払えるかというのもあるだろうけれども、それ以上に<STRONG>その経費を反映させて漢方薬が値上がりするというのを社会が受け入れるんですか？</STRONG> という点が問題になるだろう。もしその覚悟がないなら<STRONG>私企業に負担を強制する正当性根拠もないだろう</STRONG>と、そういう話。</p>

<p>この点、実は想起される前例がある。長年にわたって血管内で使用され、学界的にも標準的治療の一部とされていた医用材料が、ある日突然<U>血管内使用禁忌</U>に指定されてしまったという事例。問題は、確かに稀に副作用を起こす可能性があったところ、なにせ昔から使われてきたので治験が行なわれておらず、危険性より必要性の方が高いという科学的エビデンスが示しにくいという点にあった。じゃあ今から治験やればいいじゃないかと言われるだろうがなにせ昔から使われているので<STRONG>もはや一回分の価格が数十円</STRONG>だそうで、そんなもののために治験組めませんと営利企業である製薬会社に言われてしまえばどうしようもない。じゃあ価格への反映を認めればよいかというと<U>より新しくて治験が済んでいて製薬会社の売りたい材料</U>がもうあり、価格を上げたらそれとの競争に負けてしまう。じゃあ新しい方の材料使えばいいかというとそっちは保険適用のある病名が限定されていて......というあたりで詰んだわけである。このとき、しかし<STRONG>この製薬会社悪いかと言われると悪くないよねえ</STRONG>、営利企業なんだから自分の利益を考えて行動するのは当然であって、悪いのはシステムとか何とかそういうものだよね、とも思うわけである。</p>

<p>念のために言うと<STRONG>じゃあ医師主導治験でやればいいじゃないか</STRONG>と言う人がいるかもしれないが経費は同じようにかかるのであって、数億円だかをどこかが支援してくれないととてもできるもんじゃねえぞという話にはなる。漢方薬問題というのは結局、<U>認可後の独占利潤をニンジンにして製薬会社に医薬品の安全性検証をやらせてきたシステムは、既存薬剤に対しては適切なインセンティブ構造を設定できない</U>というより大きな問題の現われなのである。<br />
</p>]]>
    </content>
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    <title>人権の衝突</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.axis-cafe.net/weblog/t-ohya/archives/000672.html" />
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    <published>2009-12-02T14:12:16Z</published>
    <updated>2009-12-02T18:13:08Z</updated>

    <summary>なにやら沖縄返還の際に密約は存在したと外務省の元局長の人が証言したそうで(「沖縄...</summary>
    <author>
        <name>おおや</name>
        
    </author>
    
        <category term="時事" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.axis-cafe.net/weblog/t-ohya/">
        <![CDATA[<p>なにやら沖縄返還の際に密約は存在したと外務省の元局長の人が証言したそうで(「沖縄密約「文書に署名した」　元外務省局長、法廷で証言」<A HREF="http://www.asahi.com/politics/update/1202/TKY200912010530.html">asahi.com</A>)、テレビが西山太吉氏をえらいことフィーチャーしていたのだが<STRONG>密約の有無にかかわらず西山氏は「当初から秘密文書を入手するための手段として利用する意図で女性の公務員と肉体関係を持」つというジャーナリズム倫理上最低最悪に近いことをした人物</STRONG>であって(最高裁判決)、いや「密約が存在したんじゃないか」という当時の判断とか「こいつを落とせば情報が手に入るんじゃないか」という嗅覚については正しかったものとして評価することができるだろうけれども<STRONG>表に出して表現の自由だの語らせていい人間じゃねえだろう</STRONG>。もうみんな忘れたと思ってんのかな。それとも<STRONG>本人もマスコミの人も本気で覚えてないんだったりして</STRONG>。<br />
</p>]]>
        <![CDATA[<p>話は変わるが、<A HREF="http://www.axis-cafe.net/weblog/t-ohya/archives/000482.html">前にも書いたビラまき裁判</A>については、最高裁でも控訴審判決が維持されて有罪になったとのこと(「葛飾ビラ配り事件、罰金５万円確定へ　最高裁が上告棄却」<A HREF="http://www.asahi.com/national/update/1130/TKY200911300144.html">asahi.com</A>)。個人的には<STRONG>まあそうやね</STRONG>という感想なのだが、若干フォローしておく。</p>

<p>まず判決は最高裁第二小法廷で、裁判官4人の全員一致。4人なのは、現長官の竹崎氏が第二小法廷の所属ということになっているからで、長官は小法廷での審議には加わらない慣例なのである(忙しいからということだと思う)。なお4裁判官の出身母体は裁判官、検察官、弁護士、外交官。まあ正直、弁護士出身の方は反対意見や補足意見をお書きになることが多いという印象はあるわけだが、本件に関してはそういったものも一切なかったことには一応注意しておこう。まあだから、<A HREF="http://www.axis-cafe.net/weblog/t-ohya/archives/000344.html">当初から指摘している</A>通り、<STRONG>そもそも法律的な論点で争えるようなケースじゃねえよなこれ</STRONG>、ということで良かったのだろうと思われる。繰り返すが、無罪になった第一審ですら被告側の法的な主張はすべて退けられている。第一審・控訴審の結論を分けたのは<U>入口ホールの貼紙が立入禁止の意思表示として十分か</U>という事実認定の問題であり、かつ最高裁が事実認定をやり直さないことを考えれば結果は見えとったよな、ということになろう。</p>

<p>ただその、最高裁判決でも多少問題やなと思うのは、本件では管理組合の理事会が「チラシ,ビラ,パンフレット類の配布のための立入りに関し,葛飾区の公報に限って集合ポストへの投かんを認める一方,その余については集合ポストへの投かんを含めて禁止する旨決定していた」そうで、この決定の有効性を完全に認めると表現の自由を過度に制約することになるのではないかという点である。表現の自由と私的な生活空間の平穏としてのプライバシは双方ともに重要な価値なのであって、ただ個々での問題はその両者がしばしば衝突する場合に、<STRONG>どちらを・どのような基準に基づいて・どの程度優先すべきか</STRONG>ということであったはずだ。そのときに、個別ポストへの投函(住居前通路への立ち入り)を認めるとセキュリティ上の問題が無視できなくなるというのは<STRONG>特に犯罪被害者としても声を大にして言いたい</STRONG>ことであるが、一方で集合ポストへの投函も禁止し、たとえば街頭での配布に限定するというようなことにするとそれはそれでマイノリティの運動が抑圧される危険が高くなるのではないかという危惧も持つ。</p>

<p>となると、その中間を探るための基準としてはLRA(less restrictive alternative)が良いのではないかというのが私見であって、つまり<STRONG>人権への制約は、より制約の少ない選択肢が他に存在しない場合にのみ許される</STRONG>というもの。各住居にまんべんなくビラを配りたいという表現の手法を保護する限りにおいて、プライバシの侵害がもっとも少ないのは集合ポストへの投函である。一般的に集合ポストは住人のプライバシに大きくかかわる場所には設置されないので受忍すべき限度内にあると言いやすいし、他方ビラを配る側としても各戸あて配布という目的は達成できるのでそれ以上他者の権利を侵害する手法を選ぶべきではないと、そういうことである(念のために言うと、本来の憲法学での用法は国家が個人の人権を制約する場面についてで人権間の衝突の問題ではないし、LRAは(芦部説では)経済的自由に適用されるべき基準であることに注意)。この点、本件最高裁判決も「たとえ思想を外部に発表するための手段であっても,その手段が他人の権利を不当に害するようなものは許されない」としているところ、単に「害する」ではなく「不当に害する」としている点から<STRONG>正当に害する限りにおいてはやむを得ない</STRONG>としているものと読むことはできよう。</p>

<p>この観点からは、上記理事会決定も集合ポストへの投函を禁じている部分については不当であり、その限りにおいて保護されないとすべきだったということになろう。残念なことに本件判決はその点については沈黙しているし、「管理組合の管理権を侵害する」ことが問題なのか、「私生活の平穏を害する」ことが問題なのかについても両論併記であいまいな形になっている。この点はより明確になった方が良かったのにな、とは思うところなのである。</p>

<p><small>なお付言すると、立川事件の時だったか、上記のように<U>各住居にビラを配るという目的は戸別ポストへの配布でも集合ポストへの配布でも同様に達成できる</U>という前提に立った私の議論に対して、<U>仮に誰かが集合ポストを監視しており、共産党のビラだったら即座に捨てるような行動を取らない限りチェックされてしまうような状況だったらどうか</U>という趣旨のコメントが、はてなブックマークだったかで付けられた記憶がある。仮にそのような状況があれば、確かに表現の自由を実現する上で戸別配布と集合ポスト配布のあいだで違いが生じることになるから、LRAに基づいても戸別配布を保護する＝通路への立ち入りを住居侵入罪に問うべきではない、と私も主張することになろう。<STRONG>いや自衛隊もそんなに暇じゃねえだろう</STRONG>と、個人的には思うのだが。</small></p>

<p>ところで、少なくとも上記のような理解に立つ限り、一連の判決は<U>別にビラを配る権利を否定するものではなく、その行使の方法を他の権利を侵害しない形に制限しただけ</U>のものである。従って、被告人が記者会見において「今後もビラを配り、受け取る権利を守っていきたい」(「「今後もビラを配り受け取る権利守る」　上告棄却の被告」<A HREF="http://www.asahi.com/national/update/1130/TKY200911300263.html">asahi.com</A>)と述べているのは<STRONG>まったく言われたことを理解してない</STRONG>ことを示しているだけであるし、それは「今回の判決に従えば、ビラを配るために集合住宅に入ることは多くの場合、犯罪と認定されるだろう。」とする朝日新聞記者の解説にしても同様である。結局、自分たちの権利や自由と衝突する他者の権利や自由が存在することを理解せず、とにかく<STRONG>自分の望む通りにできることが自由だと勘違いしている</STRONG>点において、西山事件と同じ構図が連綿と続いているということなのかなと思ったわけである。<br />
</p>]]>
    </content>
</entry>

<entry>
    <title>漢方薬と事業仕分け</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.axis-cafe.net/weblog/t-ohya/archives/000671.html" />
    <id>tag:www.axis-cafe.net,2009:/weblog/t-ohya//1.671</id>

    <published>2009-11-28T14:57:40Z</published>
    <updated>2009-11-28T17:06:39Z</updated>

    <summary>例の「事業仕分け」で漢方薬が保険適用から除外される方針になったという話が出て(「...</summary>
    <author>
        <name>おおや</name>
        
    </author>
    
        <category term="時事" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.axis-cafe.net/weblog/t-ohya/">
        <![CDATA[<p>例の「事業仕分け」で漢方薬が保険適用から除外される方針になったという話が出て(「医療用漢方薬が保険適用外　価格が3倍以上治療に支障？」<A HREF="http://www.j-cast.com/2009/11/27054955.html">J-CASTニュース</A>)、日本東洋医学会を中心に4万人の反対署名提出とか、騒ぎになっているようである(「漢方薬保険外に４万人以上の反対署名　厚労省に提出へ」<A HREF="http://sankei.jp.msn.com/economy/business/091129/biz0911290002000-n1.htm">MSN産経ニュース</A>)。なんかしかし横から見ていて議論が的を外しているような気がするので、少し書く。ただし、</p>

<p><UL><br />
 <LI> 本当にそういう方針になったかどうかについては知らない。あくまで、「本当にそうだったとしたら問題は何か」の話をする。<br />
 <LI> 漢方薬が効くとか効かないとか証拠がどうのとかは知らない。お医者さんでもないのでそのあたりはよくわからない(個人的にはほとんど西洋医学にしか頼らない)。あくまで、私が少しはわかる医療システムの話をする。<br />
</UL></p>

<p>さて。<br />
</p>]]>
        <![CDATA[<p>まず問題範囲の限定。これは公的医療保険に関する議論なので、<U>この結果がどうなろうと現在ドラッグストアなどですでに市販されている漢方薬に直接的な関係があるわけではない</U>。より強い効果を持つ現在の処方薬が市販されることによって競争が生じ、現在の市販薬程度の薬剤の価格が下がるかもしれない(あるいは同程度の価格でより効果のある薬剤が買えるようになるかもしれない)。あるいは、ツムラが倒産してそもそも製品自体が存在しなくなってしまうかもしれない。いずれにせよそれらはかなり間接的な影響なので、予測も難しい。とりあえず、「私は風邪を引いたら葛根湯が飲みたいんだ」という人には、直接には影響しない話だということを押さえておく必要があろう。</p>

<p>また、医療保険なので当然ながら<U>自由診療の世界にも関係がない</U>。保険証を持ってそのへんの病院や診療所で受診して3割(まあたいていな)払う保険診療に関する問題だ、ということになる。で、そこにおいて保険適用が外されるというのはどういうことかというと、J-CASTニュースがそういう書き方をしてしまっているが、<STRONG>価格が3倍以上になるということではない</STRONG>。「医師からの処方箋もいらず自由」ということでもない。<STRONG>そもそも保険診療と無関係になるということである</STRONG>。</p>

<p>この点、実はMSN産経ニュースでは一応ちゃんと書かれているが、<STRONG>混合診療の禁止</STRONG>に関する問題である。受診・診察・治療・投薬というひとつながりの医療行為において、健康保険が適用される部分とされない部分が混在することは許されていない。たとえば診察料や一部の薬剤を保険請求して患者さんに3割負担してもらい、保険適用の認められていない薬剤の分だけは10割もらうということはできない。一部でも保険でカバーされない部分があれば、一連の医療行為すべてについて保険請求が認められず、自由診療扱いにしなくてはならないのである。従って、仮に(制度変更のあと)お医者さんに漢方薬を処方してもらいたいとすれば、薬代だけでなく治療費まで含めて全額自己負担ということになる。</p>

<p>さらに。では治療費・薬代まとめて約3倍かというと<STRONG>それはわからない</STRONG>というのが次の話。なぜなら、「保険診療が3割負担」というのはあくまで<STRONG>保険診療の場合の基準額の3割</STRONG>ということであって、その基準が自由診療にも適用されるという保障はまったくない(なにしろ自由なのである)。私は一度、健康保険証を忘れたまま医療機関に診てもらったことがある。後日保険証を持ってくれば差額は返してくれるとのことだったが、とりあえず自由診療基準で請求された額は<STRONG>普段の約7倍</STRONG>であった。その病院では、保険診療の場合1点10円で計算するところ、自由診療であれば20円請求しているとのことであり、まあこれがどの程度一般的な例かはわからないが少なくとも十分あり得ることだと、そういうことになる。ところで漢方薬を処方されている患者さんのなかには末期癌の人などもいるわけであるが、そういう人が使う抗がん剤というのはたいていえらいこと高いお薬であって、<STRONG>保険薬価でも1本20万円</STRONG>とかいう数字である(まあこれは最高水準らしいのだが)。こんなもん自由診療で払えと言われたらどうなるか、というのが<STRONG>実質的に処方できなくなる</STRONG>ということの意味。なお「高額療養費」制度も健康保険の一環なので、自由診療には適用されないことに注意。</p>

<p>さて。とはいえ実際の医療現場で保険適用の認められていないお薬がまったく使われていないかというと、<STRONG>少なくともそれなりに使っている</STRONG>。というのは、保険診療で使えるかどうかというのは薬剤単位ではなく<U>薬剤ごとに病名との組み合わせで認められている</U>のだが、たとえば特定のタイプの癌に対して認められた新しい薬で、似たタイプの癌にも効くという証拠は十分にあるのだがまだ適応が認められていないとか、ごく稀な病気でそもそも治療薬が一切承認されていないとか、そういうケースがあるからである。というか、たとえば大学病院にはそういう<U>普通に認められた薬で普通の治療をしたのではうまくいかない人</U>が紹介されてくるわけで、正直それなりにある。で、保険で使える薬がないからといって治療を断念してさようならというわけにはなかなかいかないので(という態度なので<STRONG>治療費を払う気のないモンスター・ペイシェントとかが大学病院に集まってきてえらいことになるわけだが</STRONG>、その話は措く)、やむを得ず保険適応外のお薬を使うことを検討すると、そういうことになる。</p>

<p>その場合の対応だが、少なくとも名大附属病院の場合、次のようになる。第一に、保険適応外の薬剤を使うことについて、院内の臨床受託研究審査委員会の許可を受けなくてはならない。これは、保険診療で認められるという形で一応の使用の根拠が確立しているお薬以外のものを使うのであるから、他の選択肢がないかとか、きちんとした治療実績や安全性が確立されているかとか、患者さんの権利を守るという観点からそういったことを審査すべきだという趣旨であり、<STRONG>まあそこに私が動員されているからこんなことも知ってるわけだが</STRONG>、月一回の委員会で厳密に審査されるのでそう気軽にやれるというものでない。どのくらい厳密かというにここ最近は毎回3〜4時間かかって<STRONG>審査してる方の私が目まいで倒れそうになるくらいの勢い</STRONG>であり、<STRONG>なんで自分の健康を犠牲にして人の健康に配慮しなくてはならんのか</STRONG>と思わなくもないのだが、病院で働いている医療関係者の方々のご苦労を思えばそんな贅沢も言っておられんのである。しかししんどい。</p>

<p>話を戻す。第二に、しかし院内で委員会の許可を受けたところでさきほどの<STRONG>混合診療の禁止</STRONG>原則があり、使った適応外のお薬の費用だけを患者さんからもらうということはできない。他方、すべて自由診療というのも現実的な負担の面で極めて難しいのでどうするかというと、正直に言うが、<STRONG>大学が負担していた</STRONG>。原資としては病院の運営費だったりお医者さん(大学の教員でもある)の基盤研究費だったり獲得してきた研究助成だったりしたわけだが、要するに患者さんからお金をもらわずに大学病院の持ち出しでやる分には自由診療ではないので、保険診療と一緒にしても混合診療にならないという理屈である。これもだから正直に書くとこの持ち出し額が肥大して病院経営・大学経営の観点から問題になってきており、いやもう本当に日本の医療というのは(さきほどのモンスター・ペイシェント問題などもそうなのだが)<STRONG>真面目に頑張るほど損をするようにできている</STRONG>のだなと、嘆息するわけである。</p>

<p>さて漢方薬の話だが、そういうわけで保険適用の認められていないお薬を病院などで使うことには手続の面・経費の面双方でかなりの問題があり、あくまで例外であればある程度は処理可能だが、広い範囲で行なうことは不可能に近いと思われる。というわけで、現行制度を前提とする限り<STRONG>やはり医療機関から処方することは実質的に不可能になる</STRONG>ということになろう。</p>

<p>というわけで病院が処方できない、「医師からの処方箋がいらない」のではなく<STRONG>「医師が処方箋を出せない」</STRONG>ことになる。従って、我々がドラッグストアに行き、症状に合わせて自己判断で風邪薬を選ぶように、<STRONG>自分で選んで買うことしかできない</STRONG>ことになろう。その場合の問題は、もちろん<U>どのくらい適切に症状を判断することが可能か</U>ということになるだろうが、もう一つ、<STRONG>誰が使用情報を把握しているのか</STRONG>も問題になろう。</p>

<p>というのは、漢方薬も薬であり、特に処方されるクラスの薬剤になると副作用や他の薬剤との飲み合わせによる効果が出てくる可能性が十分にある。たとえば小柴胡湯というのは風邪にも用いられるわりと一般的な漢方薬のようだがインターフェロンとの併用で間質性肺炎という重大な副作用を起こす可能性があることが知られており、治験関係の書類などでも「併用禁止薬」として名前を見たりするわけである。現在はお医者さんが処方するのだから他の薬との相互作用を意識する(だろう)し、たとえば別々の診療科から処方されたような場合でも薬剤師さんが気付く可能性がある。各自が自己の判断で購入するということにした場合、このような弊害に関するチェックをどこで誰がするのか、それがなくなった場合に大きな健康被害が発生する危険がないかということが気にかかるわけである。</p>

<p><CENTER>＊＊＊</CENTER></p>

<p>補足しておくが、最後の問題は現在でもたとえば小柴胡湯製剤が市販薬として買えるので、起きないというわけではない。現在の処方薬水準のものが購入できるようになると問題の質・量が悪化するだろうなあとは思うが、逆に言うと<STRONG>結局はどの程度の製剤が市販に切り替えられる(保険適用から除外される)のかに依存する話</STRONG>だとも言える。</p>

<p>もう一つ、実質的に処方できなくなるというのも<STRONG>現在の混合診療禁止原則に依存した問題</STRONG>なので、そこも変えるのであれば問題はなくなるかもしれない(その代わり他のところで問題が出てくるかもしれない)。いずれにせよ具体的な制度設計がまとまらないと実際の影響は予測できないのだが(だからこそいまのうちに影響を抑えるように動くべきだという人もいるだろうが)、しかし問題の射程としてはこういう話なのだということを理解して議論した方が良かろうと思うので、ちょっとだけ知っていることを書いた。<br />
</p>]]>
    </content>
</entry>

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    <title>異世界通信</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.axis-cafe.net/weblog/t-ohya/archives/000670.html" />
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    <published>2009-11-26T14:55:59Z</published>
    <updated>2009-11-28T16:57:15Z</updated>

    <summary>私の『法解釈の言語哲学』という本はお互いに同じことをしているつもりで振る舞いも一...</summary>
    <author>
        <name>おおや</name>
        
    </author>
    
        <category term="時事" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.axis-cafe.net/weblog/t-ohya/">
        <![CDATA[<p>私の『法解釈の言語哲学』という本は<U>お互いに同じことをしているつもりで振る舞いも一致しているので安心していたらある日突然実は全然違うルールに沿って行動していたことが発覚するかもしれませんよ</U>という、まあ<STRONG>我ながら神経症的な</STRONG>問題を扱ったものなのだが(*)、こういう文章を見るとやっぱり日常的にも異世界言語を喋ってる人と接触してるんじゃないかなあという気がしてくるわけです(挨拶)。「サンデー時評：「ヒトラー呼ばわり」をめぐって」(<A HREF="http://mainichi.jp/select/seiji/iwami/news/20091125org00m010021000c.html">毎日jp</A>・<A HREF="http://s01.megalodon.jp/2009-1127-0241-40/mainichi.jp/select/seiji/iwami/news/20091125org00m010021000c.html">ウェブ魚拓</A>)。なんか「鳩山由紀夫首相は失言、放言がほとんどない」んだって。ふ〜ん、ほ〜お。<br />
</p>]]>
        <![CDATA[<p>まあもちろん問題は「失言、放言」の定義に依存するわけであって、<STRONG>漢字の読み間違いや事実に関する不正確な発言</STRONG>(カップラーメンの値段とかな)<STRONG>だけが「失言、放言」である</STRONG>と定義されれば、うんまあ確かにあまり鳩山氏の発言にはその種のものはないのかもしれない。普天間基地問題をめぐる発言の変遷とか、政治資金問題をめぐる過去の発言と現在の対応の齟齬とか、相手がやれば「強行採決」で自分がやったときは「野党の審議拒否」かとか、まあいずれも上の定義の「失言、放言」には入らないような気はする。</p>

<p>ところでこれは別に単なる皮肉ではなくて、つまり<STRONG>読み間違いや事実に関する誤りというのはその時点のみで判定されるもの</STRONG>である。ある特定の時点の・一つの発言が言語的な規範とか事実(として社会が認定しているもの)に合致しているかどうかが問われているわけだ。</p>

<p>これに対して、鳩山氏に関してつらつら挙げた例というのはそうではなく、<STRONG>通時的な首尾一貫性(integrity)の問題</STRONG>である。異なる二時点(あるいはそれ以上)における発言・行動を対比したところ、それらが整合性を持っていないというのがこれらの例の特徴である。</p>

<p>さて、しかし後者のようなものを「問題」だと措定するためには、以下三つの前提が必要となる。第一に、時間の流れとそのなかを貫通して存在すると想定される「主体」の観念があること。第二に、従ってその「主体」の言動は過去・現在・未来を通じて一定の整合性を有していなければならないと信じられていること。第三に、その上で過去と現在の(あるいは過去の異時点間の)言動を比較するための<STRONG>記憶ないし記録</STRONG>を持っていること。ここで、その「記録」の技術が拡大・進化してきたことによって、そのような技術を使える人にとっては後者の「問題」を指摘する可能性が増大したことも指摘しておくとよいだろう(具体的には「鳩山VS鳩山」動画とかな。参照、「【ネット番記者】ブレる政治家の火種」<A HREF="http://sankei.jp.msn.com/economy/it/091126/its0911260750007-n1.htm">MSN産経ニュース</A>)。</p>

<p>仮にいま、「過去」とか「未来」の感覚、あるいはそれらを一貫して「自我」を持った「主体」がいるという感覚を持っていない人がいたとすれば(このような人を、ウィトゲンシュタインのひそみにならって「時間盲」と呼んでもいいかもしれない)、そのような人は前者のタイプの問題を指摘することはできるだろうが、後者を問題として認識することはできないだろう。それはたとえばネズミが、そのときどきの(必ずしも肉体的なものに限られない)快苦には適切に反応しながら、おそらく過去の想起や将来への予期といったものとは無縁に生活しているだろうのと同じことである(**)。そしてもちろんネズミだって日々を幸福に送ることは(条件さえ適切に整っていれば)できるのであり、<STRONG>だから我々人間も人格のごときものに拘泥するのは止めてしまえばいいのではないか</STRONG>という議論も出てくるわけであるが、そのことはひとまず措く。</p>

<p>まあ要するにポイントは、<STRONG>鳩山氏の言動が「問題」にならない条件は何か</STRONG>ということであり、つまり<STRONG>先ほど挙げた三条件を欠いた人</STRONG>というのが相当な数いるのか増えているのか、まあそういうことなのだろうなと思うわけである。記憶能力のない人とか、幸せそうだよね。</p>

<p><CENTER>＊＊＊</CENTER></p>

<p>ところでその、上に挙げた記事には「官僚たちが(......)答弁能力を買っていたのは、岸信介、福田康夫、宮沢喜一の三人だった。三人とも、上手というよりはソツがない。高級官僚出身で頭脳明晰、言葉じりをつかまえられることがなかった。」という一節があるのだが、これについては従って<STRONG>岩見隆夫の「失言、放言」であるということでよろしいか</STRONG>。高級官僚出身だったのはお父さんの福田赳夫氏(大蔵省)で、福田康夫氏は丸善石油ですな。毎日新聞についてはかつて「<STRONG>英語ではなく日本語の・ウェブサイトでなく紙面に関してもまともな品質管理が出来ていないことを露呈した</STRONG>」(<A HREF="http://www.axis-cafe.net/weblog/t-ohya/archives/000582.html">「新聞の評価」</A>)と評したこともあるが、日本語のウェブサイト・週刊誌のいずれについても品質管理が出来ていないことがさらに判明したと、そういう評価でよいのではないかと思う。(11/28公開)</p>

<p><DIV class="note">(*) ちなみに、この種の<U>理性では決定しきれないので我々はコンヴェンションに沿って行動しているのです</U>説というのはたいがい<STRONG>わ〜いコンヴェンションえら〜い、理性とか死ねよ</STRONG>的な議論に結びつくのですが、私の場合<STRONG>いつ壊れるかわかんないものに依存してるんだから理性でもなんでも使って自覚的にコンペンション強化しなきゃしなきゃ</STRONG>論に展開しており、このあたりがおそらくある種の特色なのですが<STRONG>やっぱり神経症的だよなあ</STRONG>と思わんこともない、我ながら。<BR>(**) と私は思う。ただネズミの行動をずっと観察したことはないので、「彼らにも自我はある」と言われて反論する気はない。個人的な偏見として言えばネコやイヌは予期的な人格をある程度は持っていると思うが、前者にとっての首尾一貫性というのは<STRONG>人間に守らせるもの</STRONG>であって自分が気にするものではないのではないかという気もする。</DIV><br />
</p>]]>
    </content>
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    <title>草原へ(3・完)</title>
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    <published>2009-11-23T07:37:26Z</published>
    <updated>2009-11-24T07:44:16Z</updated>

    <summary>さてグダグダの第三点は対象との距離とでもいうべき話になろうか。チョイバルサンとい...</summary>
    <author>
        <name>おおや</name>
        
    </author>
    
        <category term="読書" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.axis-cafe.net/weblog/t-ohya/">
        <![CDATA[<p>さてグダグダの第三点は対象との距離とでもいうべき話になろうか。<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%AB%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%82%AE%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%81%E3%83%A7%E3%82%A4%E3%83%90%E3%83%AB%E3%82%B5%E3%83%B3">チョイバルサン</a>という人物の評価をめぐる問題である。</p>]]>
        <![CDATA[<p>まず客観的なことから言えば、彼はモンゴル独立を実現した革命家の一人であり、モンゴル人民党の結成期からの中心人物であった。革命中から軍の指導者でもあり、1937年には全軍総司令官に就任している。一方、政治指導者としても国家小会議議長、人民委員会主席、内相などとしてキャリアを進め、1939年から52年に死去するまで首相兼外相を務めた。この間にモンゴルの近代化は(たとえばキリル文字の導入による識字率向上などを含めて)大きく進み、またノモンハン事件・第二次世界大戦への参戦と勝利を通じてモンゴルの独立と国際的承認への基礎が築かれたというのも事実であり、この面を高く評価する論者も多い。他方、彼とともに革命を担った政治家たち----ダンバドルジ、ゲンデン、アマルといった人々、さらにそれに伴って3万人ともそれ以上とも言われる国民が粛清されていったなかでただ一人生き残り、長期の独裁的政権を運営していたことも間違いなく、たとえその粛清自体はソ連の強い圧力に由来するものだとしても彼がそれを容認し、あるいは積極的に助長したことを批判する意見も強い。まさに毀誉褒貶の激しい人物だと、そういうことになろうか。</p>

<p>ところで著者はこのチョイバルサンについて肯定的な評価を試みるわけだが、その根拠は以下のようなものである。</p>

<div class="quote">私自身は、チョイバルサンによって引き起こされたという数々の惨劇を知っているにもかかわらず、チョイバルサンに悪い印象をもっていない。むしろ、心のどこかに、かれを弁護したい気持ちがあるのはなぜだろうか。それはモンゴル人たちから、かれについての心温まるような数々の評判を聞いているからである。／とりわけ心を打つのは、かれが何人もの孤児を引き取って育てたという話である。[208-9]</div>

<p><strong>いやそんなもんヒトラーだって秘書とか料理人とかには優しくて紳士的だったっつう話なわけでなんの証拠にもなれせんがや</strong>(たとえば映画『ヒトラー：最期の12日間』およびその原作：ヨアヒム・フェスト『ヒトラー 最期の12日間』(鈴木直訳、岩波書店、2005)を参照)。もちろんそういう「心温まる」側面と、ベルリン攻防戦のさなかに総統地下壕から脱出して酔いつぶれていたヘルマン・フェーゲライン(エヴァ・ブラウンの義弟)の処刑を命じた冷酷な側面というのが彼のなかで同居しているわけで、それがトラウドル・ユンゲ(先の映画の情報源になったヒトラーの元秘書)による<strong>「怪物」</strong>という表現にもつながっているわけですよ。</p>

<p>しかも「もちろんかれ自身が手塩にかけて育てたのではなく、育児係をあてがったのである」[214]って、その、あたしにはよくわかりませんがたとえば旧ソ連の周辺的な共和国では孤児に徹底したロシア風の教育をして次世代の指導者層に育て上げていくという事例が見られるようで(たとえばトルクメニスタンのニヤゾフ元大統領)、つまり現地のローカルな共同体や伝統から切り離された部分を統治のために活用していくということなのだと思いますが、それと同じことなんじゃないでしょうかね。モンゴルの場合には「孤児院」のように大がかりなシステムではなく指導者の個人的な取り組みという位置付けで十分な規模だったというだけで。</p>

<p>仮にそういう読み筋が可能だったとすると、以下のようにソ連と距離を置こうとするチョイバルサンの内心なるものの根拠も一層あやしくなってくるのではないかと思う。つまり、</p>

<div class="quote">しかしチョイバルサンには、外からはうかがい知ることのできない深謀遠慮があったと考えてみよう。かれは45年の日本の敗退後は、モンゴル諸族の悲願の待ちに待った実現として、内外モンゴルの合体という夢があったかもしれない。少なくともそのような夢を実現しようと思うならばこの機を逃したら、二度とあり得ないことである。そのために多くの同志や仲間を目をつぶって死に追いやり、そうした代償を払って内モンゴルとの合体に夢をかけていたのかもしれない。[206]</div>

<p>と言われても第一にそう推測する根拠は極めて乏しいと言わざるを得ないし、第二に<strong>いやでも結局失敗したんですよね</strong>という話でもある。著者は、少なくともノモンハン事件当時においては旧満洲国の対モンゴル人政策の方がモンゴル人民共和国のそれよりも良かったということを指摘しているのだが(<strong>後者がひどすぎるとも言う</strong>)、しかしだからといって旧満洲国と日本に希望を抱いた人たちは間違っていた、そのことは歴史の帰結から明白だと言うわけである。しかし、だとすれば、仮に内心にはモンゴル民族統一と独立への夢を抱いていたかもしれないにせよその実現に失敗したチョイバルサンも失敗者であろうし、その失敗が産み出した犠牲については断罪されなくてはならないはずである。もちろん彼がモンゴルのソ連への併合を阻止することに成功したという可能性は十分にあり、それが現代モンゴルにおける彼への評価が今なお必ずしも否定的でない理由なのだが、しかしそのために3万人以上の犠牲が引き合うものだったか、という問題は問われなくてはなるまい(個人的にはやむを得なかったという結論になることも十分あり得るとは思うわけだが)。</p>

<p>結局のところ、たとえば日本の軍人でありながら凌陞に同情的だったり関係者の助命に奔走したりした、「関東軍の専横からモンゴル諸族を可能なかぎり庇護したいという気持ちにあふれていた」[115]人というのもいるわけだが、そういう「草原の人たちのメンタリティーに共感を抱いていた日本人」のことを著者は「その心情は個人の利害を超えている。それは『国益』すらも超えた、あえて言えば、『趣味』の域に達してさえいる」[116]と肯定的に評価するわけだ。だがそれは逆に言えば「国益」(その定義と内容が問題であるにせよ)を実現すべき立場にある軍人としては失格ということでもあるし、<strong>「趣味」のために正義を</strong>(再びその内容と名宛人が問題になるにせよ)<strong>歪めてよろしいか</strong>、ということが問題になるだろう。</p>

<p>で、これは結局著者自身の問題でもあって、モンゴルへの熱情とか心情は理解できるのだが、それが「趣味」の域に達することによって研究の科学性とか客観性とかに影響を及ぼしているのではないかということが注意されてよい。それが対象との距離の問題ということになろうかと思うわけである。</p>

<center>＊＊＊</center>

<p>ただまあその、いろいろ書いたけどすでに述べたとおり題材的には極めて面白い本であるし、著者の情熱というのも人を不愉快にさせる類のものでは決してないので、このあたりのグダグダ加減を承知した上で付き合うというのなら良い本ではないかなあとは思う。まああとあれだ、<strong>70歳過ぎたらもう何書いてもいいんじゃねえか</strong>と思わなくもないしな。<br />
</p>]]>
    </content>
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    <title>草原へ(2)</title>
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    <id>tag:www.axis-cafe.net,2009:/weblog/t-ohya//1.668</id>

    <published>2009-11-22T07:32:12Z</published>
    <updated>2009-11-24T07:34:51Z</updated>

    <summary>先に出てきた凌陞(リンション)というのは興安北省の省長という地位にあった人で、「...</summary>
    <author>
        <name>おおや</name>
        
    </author>
    
        <category term="読書" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.axis-cafe.net/weblog/t-ohya/">
        <![CDATA[<p>先に出てきた凌陞(リンション)というのは興安北省の省長という地位にあった人で、「満洲国建国の元勲貴福の長男」「ダグール族統合の頂点に立つ人」という位置付けである[111]。もともと日本・関東軍はモンゴル人民共和国と満洲国の「国境を越えたモンゴル人同士の交流」が進む可能性に「ずっと疑いの目を注ぎ続けて」おり、「それへの最初の対処が、ホロンボイル統治の最高の地位にあった、凌陞の突然の逮捕と処刑となってあらわれた」[109]ということになっている。<br />
</p>]]>
        <![CDATA[<p>ところでその凌陞の罪状というのは、関東軍発表によれば「日満軍の状況及び兵力、装備、活動を[モンゴル側に]通報し、爾後機を得るごとに日満軍の国境警備の企図をソ蒙軍に知らしめ、彼らに先制的体制を与え、日満軍に多数の犠牲者を出さしめた」[111-2、補足引用者]ということなのだが、田中先生曰く、</p>

<div class="quote">凌陞のこの「通敵」行為は、決して関東軍のでっち上げではなく、事実の摘発だったと思われる。それは最近モンゴルで発表された研究から見ても裏づけられる。[112]</div>

<p>(д　)　゜゜</p>

<p>え〜っと、嫌疑を裏付ける事実が確かに存在したのだとすればそれは「一応は正当な」(<i>prima facie</i> just)処罰であって、ソ連のモンゴル支配と同列に並べてはいけないもののような気がするわけですが、どうか。</p>

<p>後者について。たとえばモンゴルの首相であった「ゲンデンは激しい拷問を加えられた末、自分が日本にやとわれてスパイになったと自白し、その組織に加わった人物として、あらかじめ準備されていた115人(......)の名をあげたリストに同意した。この名簿は前もってソ連内務人民委員部(NKVD)(......)が準備したものであった。ゲンデンの証言はロシア語で30枚に達したというが、ゲンデンはロシア語にあまり堪能ではなかった」[124]。</p>

<p>あるいはやはり首相であったダンバドルジの場合は以下の通り。</p>

<div class="quote">かれの盟友で、党中央委員会副委員長を解任されてモスクワに送られていたジャダンバが、1934年6月24日にダンバドルジをモスクワの入院先に見舞ったとき、かれには別に変わったところはなかった。しかし、翌25日には、ダンバドルジの遺体と対面しなければならなかった。そして、ジャダンバの語るところによれば、ダンバドルジはその日注射を受けた後、口と鼻から血を吹き出して急死したという。[99]</div>

<p>このように当時のモンゴル政府の中心的人物は(後述するチョイバルサンを除いて)、療養→死去、怪死、架空のスパイ容疑での銃殺などといったスターリン時代に広く用いられた手段によってほぼ完全に葬り去られたし、より下位の政府・軍関係者を含めるとノモンハン事件の犠牲者の数十倍にのぼる人数が粛清されたと見積もられているわけである。</p>

<p>でまあここでの特徴は、その嫌疑もでっち上げなら取り調べから裁判、さらには制裁の執行に至る過程の<strong>どこをとっても手続的正義が考慮されていない</strong>ということであって、一応当時のソ連にも刑法とか裁判とか制度的には存在していたのだが、そのような彼ら自身がその存在をアピールしていた制度すら遵守されなかったというのがスターリン時代の実相だったわけだ。そしてこのような権力の行使は、当時のソ連政府の正統性をまるごと否定するような立場(たとえば白系ロシア人政権)からだけではなく、それが存在しており、少なくともある領域を実効的に支配しているので一応は正当なものとして認め得るということを受け入れる立場の人間、さらにはより積極的にソ連政府の掲げる統治ルールたる法体系の正統性を信じる立場からも、批判せざるを得ないものだということになろう。</p>

<p>これに対して日本による凌陞処刑事件は、少なくともこの事件に限れば、一定の嫌疑事実を踏まえて一応は適法な手続を経て行なわれたものであって、この妥当性を批判できる立場は当時の満洲国や関東軍による実質的支配の正統性をまるごと受け入れない立場に限られる。もちろんそういう立場を取る人は相当数いるわけだが(典型的には現中国政府とかな)、概念的範囲としてそれはスターリン批判を可能にする立脚点より狭いわけであるし、体制の本来的な正統性とかをまるまる問題にすると「神々の争い」が発生して始末に負えなくなるのでとりあえず現存する体制の一応の正統性(<i>prima facie</i> legitimacy)は承認しましょう(だからたとえば北朝鮮についても領土支配に関するかぎり政府と同等の存在として取り扱いますよ)という現在の国際法体制においてまあスタンダードかなと思うような立場からは、両者の評価が180度変わってくることになるわけである。</p>

<p>でまあ、グダグダやなと思ったのは第一にそのあたりの区別がきちんとできてなくて要するに殺されたんだからひどいというだけの話になっているからであるし、第二に日本の満洲支配においてソ連と同じように手続的正義を完全に無視する形で「粛清」された人がいなかったとも思えないので、そういう例をちゃんと挙げればいいのになあとそう思ったことであった。さらに続く。<br />
</p>]]>
    </content>
</entry>

<entry>
    <title>草原へ(1)</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.axis-cafe.net/weblog/t-ohya/archives/000667.html" />
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    <published>2009-11-21T07:07:23Z</published>
    <updated>2009-11-24T07:36:16Z</updated>

    <summary>なんか勢いが付いて田中克彦『ノモンハン戦争：モンゴルと満洲国』(岩波新書新赤版、...</summary>
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        <name>おおや</name>
        
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        <![CDATA[<p>なんか勢いが付いて田中克彦『ノモンハン戦争：モンゴルと満洲国』(岩波新書新赤版、岩波書店、2009)を読んでいた。加藤陽子『満州事変から日中戦争へ (シリーズ日本近現代史(5))』(岩波新書新赤版、岩波書店、2007)からの流れなんだけど、まあウチの支援対象国でも北の方の話をちょっとまとめて勉強しようかなあと思ったので。でまあその、結論的に言うと、<strong>題材は面白いし読む価値は十分にあると思うけどグダグダです</strong>と、そういうことになろうか。<br />
</p>]]>
        <![CDATA[<p>グダグダの一つ目というのは、端的に文章の問題。たとえばモンゴル・満洲国間の国境問題を討議するために開催されたマンチューリ会議のモンゴル側代表団長・サンボーがソ連の指示に忠実であったにもかかわらず更迭され、後任となったダリザブとともに翌々年には「日本のスパイ」との嫌疑で銃殺されたことを述べたあと、文章は次のように続く。</p>

<div class="quote">このことから、ソ連がいかに「独立」モンゴル人民共和国の自主性を奪い、自らの支配下に置くために凶暴な体制を敷いていたかが明らかになっている。しかし、もしそのことを問題にするならば、それに先だって日本がいかに、それに劣らぬやり方で満洲国のモンゴル民族の名ばかりの自治を支配していたかは、サンボー解任のすでに半年前に、マンチューリ会議にのぞむ満洲国側の代表団長、凌陞(リンション)を逮捕、処刑していたことを知らねばならない。[106]</div>

<p>たぶん「いかに、それに劣らぬやり方で満洲国のモンゴル民族の名ばかりの自治を支配していたかは、」を削るとまともな文章になると思うのですが、<strong>このままだと文法解析に失敗するよねえ</strong>と。この種の<u>途中で言いたいことが次から次に出てきた結果として文頭と文末の平仄が取れていない文章</u>が頻出しており、いかに題材が面白くてもたとえばウチの留学生に読ませるわけにはいかないなあと悩むところなのである。</p>

<p>まあただこういうことを書いておかなくてはいけない気分もわかるというか、「ソ連が悪かった」から「だから日本はよかった」に直結させる人たちがおそらくそれなりの数にはいるのだろうから、そういう使われ方をしないようにできるだけきちんと予防線を張るようにしようということなのだろうと思う。しかしここから第二のグダグダが始まるのだが、「ソ連が悪かった」「日本も悪かった」はいいとして、そこから「だからソ連も日本も同じくらい悪かった」(あるいは「日本の方が悪かった」)にも直結しないよねえと思うわけである。次回に続く。<br />
</p>]]>
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    <title>立憲主義とグローバライゼーション</title>
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    <published>2009-11-17T06:55:06Z</published>
    <updated>2009-11-21T07:05:34Z</updated>

    <summary>ええと、シノドスが『現代用語の基礎知識』の巻頭特集の編集を引き受けたそうで、私も...</summary>
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        <name>おおや</name>
        
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        <![CDATA[<p>ええと、シノドスが『現代用語の基礎知識』の巻頭特集の編集を引き受けたそうで、私も呼んでもらいました。大屋雄裕「国民による「立法」」(巻頭特集 2010年代の新・常識、シノドス編)『現代用語の基礎知識』自由国民社、2010、pp. 34-35.  「法律」というくくりで並ぶのが藤井誠二さんだと聞いたので厳罰化とか監視の問題は外してみる空気を読むわたくし。</p>

<p>内容は、7月の九州大学のシンポジウムの問題とも関係してくるのですが「立法の国際化」とでもいうべき傾向が強まっていることを指摘した上で、それが「国民(の代表)が法を作る」という立憲主義のいわばセントラルドグマに抵触すること、それによって「人民の自己統治」という遵法責務の基礎付けが危機にさらされていることを指摘したものです。まあでも実質1ページなので、問題のメモとして受け取ってもらえればなと。</p>

<p>ところで上記のシンポジウムはなんか30分くらい喋ってくれという話だったので気軽に引き受けたらその後<strong>「雑誌の特集にしますので原稿にして」</strong>と言われてしまい、泡を食うわたくし。いや以前の例を見るに予想しとけよおまえという話なのかもしれませんが私そんな晴れがましい場に慣れておりませんでして、ええ。結構勝手なことばかり喋ったからなあ、ちゃんと原稿になるのかしら。まあこれはまたそのうち。</p>]]>
        
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    <title>淘汰</title>
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    <published>2009-11-11T14:22:57Z</published>
    <updated>2009-11-16T17:28:13Z</updated>

    <summary>なんか家を出たら近所の工事現場が池みたいになってるんだけど大丈夫なのかあれは(挨...</summary>
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        <name>おおや</name>
        
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        <category term="時事" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
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        <![CDATA[<p>なんか家を出たら近所の工事現場が池みたいになってるんだけど大丈夫なのかあれは(挨拶)。まあ調整池の埋め込み工事なので必要性がよくわかりましたという意味では良かったのかもしれないけど。</p>

<p>さて民主党の小沢幹事長が「キリスト教もイスラム教も排他的だ」という趣旨の発言をしたという件(「「キリスト教は排他的」民主・小沢氏、仏教会会長に」<a href="http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20091110-OYT1T01243.htm">Yomiuri Online</a>)。<strong>いやもうあかんやろ完全に</strong>。<br />
</p>]]>
        <![CDATA[<p>森喜朗・元総理の「神の国」発言というのも思い起こされるわけであるが、あれは第一に「日本の国、まさに天皇を中心としている神の国であるぞ」とは言っているが別にアウグスティヌス的な「神の国」De Civitate Deiではないと言っているわけではないので、キリスト教関係者に招かれたら「日本はキリスト教における神の国も目指します」と言って言えないことはない。もちろんそれで言われた側が納得するかと聞かれれば難しいので<u>こんなこと最初から言わないに越したことはない</u>のだが、しかしあくまでもある特定宗教を賞賛した反射的効果として他宗教を相対的におとしめた可能性があるということであり、直接的に批判したわけではない(これは発言全文を見てもそう)。もちろん戦前における国家神道の問題などを想起させるので不適切さが上がるところはあるが、それでもあくまで直接的な批判に及んだものでないことは注意しておくべきだろう。これに対して今回の小沢発言は明確に直接的な批判を行なっている。しかもその対象は、国際的には多数派なので政治家としての行動の合理性という観点から問題があるだろうし(世界の半分以上を怒らせるのってどうなの？ という話)、国内的にはごくごく少数派なのでマイノリティに対する差別発言ですよねという疑念なしとしない。どちらにせよシンプルに<strong>あかんやろ</strong>という話である。</p>

<p>第二に、森元総理発言は「神道政治連盟国会議員懇談会結成三十周年記念祝賀会」というのにおける挨拶であり、第一義的にはその出席者に向けられたものである。当然ながらそれは神道と政治の関わりというものにポジティブな見解を持っている人が中心であるはずで、その人たちは先の発言に必ずしも抵抗感を持たないミウチの存在だと言うことができる。もちろん今時そのようなミウチとソトの区別が簡単に維持できるわけもなく、現にマスメディアなどを通じてソトに知らされることによって批判を招いてしまったわけで、やはり言わないに越したことはない話ではあるのだが、だが一応はそのように<u>境界線の内側で行なわれた発言</u>だということを指摘しておこう。これに対し小沢幹事長は全日本仏教会会長との会談後に記者団に対して上記のような趣旨の発言をしたものであって、完全にパブリックな・発言が報道されることが当然の場面であったということになる。ミウチに対するリップサービスを試みて境界線のコントロールに失敗しましたというのが前者、そもそも最初からそのようなコントロールの必要性も意識していないのが後者。<strong>あかんやろ</strong>。</p>

<p>もちろん民主党の政治家といってもいろいろな人がいるわけで、一番期待できるのが自民党から立候補できなかった若い世代。中選挙区制の時代には、自民党からの公認は得られなくても「保守系無所属」で立候補し、<strong>「勝てば、自民党」</strong>(S. Reed)で党加入を認められ、落選した旧現職を引退に追い込むという形での世代交代ルートというのがあり、政治を志した若い世代を吸収する道になっていたわけである。ところが小選挙区制になってそのような無所属での立候補が困難になり、政党候補としての公認も公開された競争(たとえば予備選挙)ではなく現職優先ルールが強いということになると、そういう人々は現職の所属する自民党ではなく民主党に流れざるを得なかったわけで、もちろん政治家としての教育・訓練が不足している可能性はあるものの「ダメ」の烙印を押されたわけではないということになるだろう。</p>

<p>一方、最初から野党政治家として成長してきた人たちというのもおり、こちらも与党・政府の側での経験が不足していることはもちろんあり得るが、政治家一般としての、あるいはたとえばより具体的に国会運営といった領域における能力は十分に育てていることが期待できる。うんまあその「菅直人が？」とか「福島瑞穂が？」とか言いたい人はいろいろいるだろうが特に後者が場面と問題によっては相当まともな発言をしていることは特に民主党政権発足以来目立つようになってきているし、そもそも少数野党という支持してもなんの利益もなさそうな地位で組織を維持し続けるというのは結構な腕前ですよ？ というのは幸福実現党の出現によって逆説的ながら明確に示されたわけである。</p>

<p>もう一つのグループが旧自民党政治家ということになり、鳩山・小沢・岡田といった現民主党の中心的な人々がここに属することになる。でまあそのもちろん個別的にはさまざまな事情のある人もいると思うのであるが、しかし我々が念頭に置いておかなくてはならないのはこの人たち自民党内での権力獲得に失敗したから出てきたんじゃないかということと、なぜそうなったかというと能力・資質的に問題があったからじゃねえのかという可能性である。</p>

<p>もちろんここで言う「能力・資質」にはポジティブなもの(たとえば政策の構想力・実現力、説明力・理解力、統率力や人的な魅力といったもの)だけでなく、ネガティブなもの(典型的には金銭的・人間関係的なスキャンダル)が少ないことも考慮しなくてはならないし、そもそも自民党の内的な人材選抜システムが公正かつ適切に機能していたのかといえばそれなりの疑問があるわけだが、しかし総理・外相に関する問題と今回の小沢幹事長発言をさまざまに鑑みるに、<strong>やっぱりそれなりに問題があったから出て行くハメになったんじゃないかねえ</strong>という気分のほうが強くなってくるところではある。まあ直接に内部を観測できないときには帰結から推測してみるしかないわけでね。</p>

<p>この点、実は私は検察という組織についてもごくごく間接的な観測結果に基づく印象というのを持っているわけではあるが、まあこれは余計ごとなのでここでやめる。(11/17公開)<br />
</p>]]>
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