時事: 2013年アーカイブ

ただまあ、こういう陰謀論者をほっておいても構わないだろうと思う理由もあり、つまりリアリズムと陰謀論の違いについて述べた箇所で繰り返し説明したが陰謀論者の世界には本当の意味での他者がいないので、観点や価値観や考え方の違う相手を説得したり納得させたりするための議論というのをこの人たちが生み出すことはできない。あらかじめ結論を共有し・モノの感じ方において「共鳴」してしまっている人たちが寄り集まってくるということは考えられるのだが、閉じたクラスタを作って内部で反響しているだけなので基本的に無害である(アメリカの民兵集団みたいにそこに武器を足すと危険が生じると思うが、この人たち多分、そういう指向も能力も持ってない)。

なんか反響が耳障りだなあと思ったときに音の届かないあたりまで蹴飛ばしておくというのが個人的に必要なことのすべてであり、なんか若い人がうっかり共鳴してしまってクラスタから出てこれなくなったりしないようにその性質について分析しておくというのが教育者としてやっておくべきことかなと、その程度の話である。しかしその、あれだね、「IDcallとかしてもらわないと気が付かないよ」と言うたら律儀に飛ばしてくるあたり、「トラックバックかなんか送ってくれないと気付かないよ」と言われても陰でもしょもしょ動いてた生き物に比べると法華狼氏には愛嬌があるね。単に《そうするとどうなるか》がわからんだけ、という可能性もあるけど。

さてところでそのような陰謀論の見本がこちらになります。法華狼氏の「[ネット][身辺雑記]もはや人間の言葉が通じない」(12/9)。同氏(12月7日)の「[ネット][陰謀論者]陰謀論を認めさせたい人たち」で紹介されている私のtweetが、強行採決による野党の抵抗増大や支持率低下という代償にもかかわらず政府与党が法案可決を急いでいるのは何故かという問題に対して当事者が合理的に意思決定していると想定するならばこのような可能性があると述べたものであるのに対し、後者エントリのコメント欄で法華狼氏が述べていることはまさに示唆的である......「政党が常に合理性がある行動をとるという前提が間違いですよ」。

まあ要するに《自己と同等だが異なる他者》の存在を想定することのできない陰謀論者の観点からすると自分の信じる結論を共有しない人間は敵なのであり、敵は愚かであるか悪辣な陰謀の駒なのだと推論が展開し、その観点からすべてを説明することになるという典型的なケースだということができるだろう。なおその際、発言を文脈から切り離して「独自の意義」を付与したり客観的な数字を認識することを拒否する、というのも典型的な症例である。

さて前エントリで触れなかったのが、議会多数派による意思決定がいかなる個人も基本的人権を奪われてはならないとする(1)リベラリズムに反していた場合にはどうするか、という問題である。まず確認すべきなのは、この点に関する最終的な判断は憲法98条1項および81条によって裁判所に委ねられており、ということは実際に損害が発生したことを前提に提起される訴訟においてしか確定されないということである。だがもちろんそれは立法が実現したあとの・事後的段階であり、そこにおける判断を踏まえて投票の場面における意思決定を行なうことは端的に不可能である。我々は、事後に裁判所がどのように判断するかを予期し、その予期に対して賭けざるを得ないということになるだろう。

だがもちろん我々としてはできるだけ分のいい賭けを挑みたいだろう。そこで私としては、内閣法制局が行なう法令審査を信頼することが一つの相当安全な手段になると考えており、その立場から以下のようにtweetしたということになる。

認められない人たち

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多少長くなりそうなので、久しぶりにブログで書く。まず特定秘密保護法案とその採決過程に関してtwitterで書いたところ、法華狼氏(はてなID:hokke-ookami)がHatena Diaryで「[ネット][トンデモ]「少数派の意見や権利を守る」「少数派に意見表明の機会を与えたら淡々と採決すればいい」どっちだよ」という文章を書かれたので、twitter上で以下のように言及した。

すると法華狼氏は同じく「[ネット][トンデモ]おちついて返答してほしいところ」という文章を書かれ(ともに11月28日)、さらに12月2日に「[ネット][トンデモ]「デモなどで「現在の国民の意思」を表明し、政策変更か早期の選挙を実現するように圧力をかけてもよい」「「絶叫デモ」に限定すればテロと似たところはあるかも」どっちだよ」という文章を書かれた。以下は、その内容を踏まえたものである。

残りは細かい話。

最大の問題だと思うのは、天皇の国事行為に関する規定である。案5条が「天皇は、この憲法に定める国事に関する行為を行い、」として現4条1項の「国事に関する行為のみを」から「のみ」を削っているのは、案6条5項の新設と合わせ、いわゆる公的行為が認められることを明らかにしようとした趣旨であって、そう問題はない。現状を明文で承認した程度のことである(いや怒っている人たちはいるが)。

これに対し、国事行為に対して「内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ。」としている現3条と、やはり天皇が「内閣の助言と承認により」行なう国事行為を列挙した現7条本文の当該部分を削り、案6条4項において「内閣の進言を必要とし、内閣がその責任を負う」としている点には注意が必要だろう。

同様に案54条1項として「衆議院の解散は、内閣総理大臣が決定する。」という条文が新設されており、これ自体は現行憲法上も通説判例により認められている首相の解散権の存在を明示するのみであって問題ないが、ここで「決定」してしまっている衆議院解散は当然ながら国事行為の一つであり、案6条4項但書により総理から天皇への「進言」に基づいて天皇が行なうということになる。

だがいったい、この「進言」とは何か。

というわけでここまで、自民党の憲法改正案に対して加えられている批判が大概ダメであるという点を確認してきたのだが、では同案がいいものだと私が思っているかといえば、最初に書いた通りまったくそうではない。以下では、それは何故かという点を説明する。

まず第一に、これは趣味の問題ではあるが私は悪趣味だと思うのは、案19条の2(個人情報の不当取得の禁止)、案21条の2(国政上の行為に関する説明の責務)、案25条の2(環境保全の責務)、案25条の4(犯罪被害者等への配慮)、案29条2項付記(「知的財産権については、国民の知的想像力の向上に資するように配慮しなければならない」)という形で人権のカタログ(あるいは対応する政府の責務)をずらずらと拡張した部分である。

第三はこれまでよりはマシな話で、現97条の定める基本的人権の不可侵性が消えているとか、現99条の憲法尊重擁護義務の名宛人に国民が加わっていることから立憲主義の理念が損なわれているとするもの。

この点について私自身はアンヴィヴァレントであり、つまり一方で「立憲主義」を知らないというのはいかがなものかともちろん思うのだが、他方別段それは万古不易の理念でもないので、それだけを捉えて批判しても意味がないと思い、しかしひっくり返すとそんな意味のないところで騒動の種を蒔くなよとも思うわけである。

第二に、「公共の福祉」が「公益及び公の秩序」になっているとかいう話でもない。この点について、「公共の福祉」とは人権同士が衝突する場合には法令により相互に調整するという趣旨だが(いわゆる内在的制約)、「公益及び公の秩序」は国家や政権政党が設定した利益・秩序を意味するからけしからんとか怒っている人もいるようだが、本来の意味におけるアナクロニズムであって端的に誤り

以前に書いたこともあるが、要するに「公共の福祉」といっても何を意味しているのかはよくわからなかったのであって、日本国憲法制定後しばらくは論争があった。それこそ芦部信喜『憲法』(高橋和之補訂・第4版・2007)96頁以下に説明されているが、当初の通説は(国民それぞれの利益の総和とは異なる)国家独自の利益としての「公益」とか「公共の安寧秩序」という・人権の外にある一般的原理だと捉える一元的外在的制約説(美濃部達吉)であり、経済的自由権・社会権については外在的制約が認められるがその他の自由権については権利に内在する制約のみが有効であるとする二元的制約説(法学協会)がそれに対抗していた。これに対して内在的制約としての「公共の福祉」理解(人権を制約し得る根拠は他の人権のみである)に一元化する立場は1955年に宮沢俊義が唱えたもので、つまり憲法条文から自明にそう理解されるものではなかったのである。

自民党が新たに発表した憲法改正案に目を通してみました。最初に簡単に評価すると、つまりこれは退化したな

というのは別に保守的がどうこうという話ではなく、まあそういって怒っている方々もそちこちで見かけるのだが第一に元々生活保守であると自認している私が保守的な内容だといって怒りはじめるわけはなく、第二に自民党は保守的な政治勢力なのであるからその憲法改正案が保守的な内容なのは5月1日になると共産党が行進をしはじめるとか(そういえば昨年は案内がこなかったな)煙が高いところにのぼるとかいうのと同じことであって怒る方がどうかしており、第三に「保守的だ」というのが批判になるというのは革新的であることが正しいことを当然の前提としている点で「自虐的だ」というのが正当な批判たり得ると思いこんでいる人たちと同じくらいアタマワルイ。問題はだからそういう右か左かの話ではなく頭の良し悪しの次元で退化しているという点にある。

とはいえおそらく私がネガティブに評価している点はあちらこちらで見かける批判とは異なっているので、まずありがちな批判とそこに含まれる誤解については指摘しておこう。というわけでまずは「ここは別に悪くない」シリーズ。

体罰と暴力

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大阪市立桜宮高校の男子生徒が自殺した事件以来、体罰をめぐる議論がかまびすしいようである。「義家政務官「体罰ではなく暴力だ」 自殺の事実解明指示」(asahi.com)などという報道もあり、これに対して「体罰は暴力に決まっているだろう」と反発している人々も見受けられ、一方では前者が必然的に有形力の行使を伴う以上その通りなのだが、「死刑によって殺人は減る」と主張している人に対して(いやその当否はともかくな)「死刑は国家による殺人にほかならない」と言うようなもんやな、とも思う。法による統制を受けていることによって死刑が単なる殺人とは区別されている(ことになっている)のと同様に、体罰も統制されていない暴力とは違うよねという立場もあるだろう(再び、その当否はともかくとしてだ)。要するに出だしの定義問題から混乱しているので、互いにわら人形を叩いている部分がある。

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