読書: 2011年アーカイブ

なおついでにもう一冊、『国マニア』同様ほとばしる愛と好き勝手を堪能できる本として、長谷川亮一『地図から消えた島々』に言及しておきたい。これは主に太平洋(南洋)に存在するとされた(そして後に否定された)島々の「発見」から探検・消滅に至る過程を紹介し、なぜ(主に物理的に)このような問題が生じたのか、その背景にどのような時代背景や欲望が隠されているのかといった問題を論じたものだが、なにせ著者は本職の日本近現代史学者であるので専門の研究能力を総動員した好き勝手を堪能することができ、大変に素晴らしい

国境をめぐって(1)

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ちなみに前のエントリで留学生から聞いた事例というのは、(バレバレだと思うがあえて多少ぼかすと)中央アジアのT国で内乱が生じた際に、隣のU国へ難民として流出した両親から出生した子供が、(1) T国で有効な出生証明がないのでT国籍を取得することができず、(2) U国は血統主義をとっているためともにU国民でない両親から生まれた子供にはU国籍が与えられないことによって無国籍状態に陥ったというものであった。最初に彼の母国(U国)で会ったとき、彼はU国の国籍法に定められた例外条項の適用を主張することによってその子供にU国籍を取得させるという試みを、NPO活動の一環としてちょうど進めていたところだった。さてその後、留学生として来日した彼と再会した際に、そういえばあの件は結局どうなったのかと私は尋ねてみた。結末は次のエントリの最後に(←イヤがられる展開)。

そのことは、同書で紹介されている(著者自身の)エピソードにも露呈している。たとえば著者は、日本への帰化を考えた際に一度「冷たく」それを拒絶されているというのだが、その際に法務局の係官が指摘したのは著者が帰化が認められるための法律上の条件(最近5年間の国内居住)を満たしていないというものである。しかしそれは、(たとえばかつて日本的な名前に改めることが当然のこととして要求された、というように)どこにも書かれていない事実上の条件だというわけではなく、局長通達や先例など外部の人間には調べにくいようなものでもなく、政令や省令ですらなく、「国籍法」という制定法に明文で書いてあることなのだ。それに従って係官が判断したことに対して「胸のなかで怒りが煮えたぎり、今にも立ち上がってその場から離れそうになった」[197]と言われても悪いのは国家なのだろうか、その国家がどう動作するものかを調べようともしなかった著者の方なのだろうか。

可哀想と気の毒(1)

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というわけでこの間に読んでいた本のうち多少書きたいことがあるものについて。まず陳天璽『無国籍』だが、偶然ながら母国で無国籍者の救済活動に取り組んでいたという国際法専攻の留学生(とても優秀)と縁があり、そのときに聞いた実例が頭の中に引っかかっていたので、書店で見かけてすぐ買った。著者自身、中華民国籍の両親から日本で出生し、その後の日中国交回復(逆に言えば中華民国との断交)によって無国籍になった人で、その立場からの経験やそこを起点とする研究の過程などが紹介されている。

さて最後に、著者自身に関する主張の問題点について。サンデルは、クリントン大統領がモニカ・ルインスキーとのあいだで起こしたスキャンダルについて、それは基本的に私的な事柄であるにとどまるし、クリントンは道徳的な正しさについて論じ、志向するという(サンデルの立場からは)より高く評価できる政治を公的には行なっていたのであるから、そちらを重視すべきだとして擁護している。これに関連して著者は、以下のように述べる。

クリントンのスキャンダルについての擁護も興味深く、その論理は、私自身が鳩山政権のときに、鳩山首相の「政治とカネ」の問題について擁護論を展開したことと論理的に類似している。これは、「鳩山首相が実母から資金をもらった」という話だから、「脱税かどうか」は問題であるが、贈収賄のように公共的な資金を私的目的のために使ったということではない。だから、"この問題は政治的腐敗ではなく、基本的には私的問題であって、政権の交代を迫るような深刻な公共的問題ではない"と私は主張したのである(『友愛革命は可能か』) 。[336]

さて本論は前の記事で終わったのであと二点ほど補足を。一つは著者によるフォローがあった方がよかったのではないかという話で、もう一つは著者に固有の問題である。

第一は契約の強制力の根拠という問題。まず、「ロールズの仮設的契約の道徳的な力を理解するために、サンデルは実際の契約の道徳的限界についての考察を行う」[70]として、彼の見解を紹介している。ポイントは、しばしば契約が守るべきであるとされる=強制可能である根拠は双方の同意=契約を結ぶという意思に置かれており、それが「自律性(autonomy)」という理念に基礎づけられるが、実はそうではないというところにある。

感覚の話をすると、論旨の内容は前述のとおりまあそういう立場はあるよねえという感じで読んだのだが、実は非常にいらだちを覚える点が途中でしばしば現れた。それはつまり、サンデルの鍵概念であるencumbered selfをどう訳すかという問題。これはサンデルがリベラリズムにおける自我はunencumbered selfだと批判したのと対になっている言葉なのだが、リベラリズムの方を「負荷なき自己」と訳す点についてはまったく問題ない(私は「負荷なき自我」と訳すかな、と思うが別に自我でも自己でもselfの訳語としておかしいわけではない)。しかしね、「家族やコミュニティや国家など、さまざまな具体的状況を負っている」[86] encumbered selfの方を「負荷ありし自己」と訳すのはどうなのさ

仕事の必要もあったので小林正弥『サンデルの政治哲学:〈正義〉とは何か』(平凡社新書、2010)を通読する。まあ全体としてはこの機会に(ブームの一部になっているものもそうでないものも含めて)サンデルの思想を他の論者との対抗関係なども踏まえて整理・要約しましょう、さらにそれと近似性のある・著者が主導してきた日本の「公共哲学」について宣伝しましょうという感じの本で、いや別に宣伝が悪いというものでもないし(正直相当に鼻にはつくが)、サンデル派(著者ご自身が対抗相手については「ロールズ派」「リベラル派」と呼ばれるのでこういう位置付けをしても怒られないと思うのだが)からの要約としてはこうなるであろうなあという話が要領よくまとめられていると思った。ただその、まあモノの書き方としてはややいい加減なところが目に留まることも多く、まあ急いでまとめたのかなあという感じではある。以下、ページ数は注記のない限りすべて同書。

読書家。

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iPadの方がMacBook Air (11 inch)より優れている点。会議中の内職に使っていてもバレにくい(挨拶)。さて案の定誘惑に負けてiPadを買い、データベースから落とした論文を入れて便利便利とか喜んでいたわけですがGARAPAGOSとかソニーの電子ブックとかも出てきてう〜んどうしようかなあ棚にしまってある論文もスキャンしないといけないしなあと思っていたところにこんな文章を見て目を疑う。年頭の週刊アスキーに載っていた、神足裕司「キンドルとiPadの話再び」。

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