法哲学: 2006年Archive Index
まあそういう名前の研究会が東大法学部にあるのですよ。12月は門下の後輩2人の修士論文報告だというので久しぶりに出席してきました。名古屋に移って以来ご無沙汰だったので、たぶん6年ぶりくらい。
師匠が代表者であるところの科研費プロジェクトの研究会で報告してきました。「開発法学の誕生と変容」というタイトルで、1960年代の「法と開発」運動Law and Development movementから現在の法整備支援に至る展開を扱ったのですが、まあ私はこの分野に関してはほぼ完全に実務家であって理論的関心からコミットしてきたわけではないので、歴史面について他の人の参考になる程度にサーベイするのと、現状について知っていることはお話しするという程度の内容でありました。
さて一日目午後から二日目にかけては統一テーマでの報告とシンポジウムであるわけですが、私は月曜の仕事の都合で二日目昼で失礼して名古屋に戻りましたので報告までの感想のみ。前述の通り統一テーマは「法哲学と法学教育:ロースクール時代の中で」だったわけですが、
今年度の日本法哲学会学術大会が11月25・26日に開催されたので行ってきました。会場は青山学院大学、統一テーマは「法哲学と法学教育:ロースクール時代の中で」であります。
今日の朝日新聞。「昔は静かな場所だった。まつられている人とは関係ない人が騒いで、雰囲気が悪くなった」……マスコミとか?(挨拶) まあその、今日は移動日だったので夕刊以外には目を通していないしこの問題にはさしたる関心もない。というか最近仕事が忙しいせいもあって新聞をあまり読まなくなっている。もちろんインターネットのサイトでニュースには目を通しているが、それ以外にどの程度必要かなあと時々自問している。紙面にあってサイトにない(あるいは乏しい)のは(1)各ニュースの価値付けと(2)分析だろうが、(1)は自分の中にあればいいような話でもあり(2)はそもそも信頼に値するものではなく。まあ元気なときにはヲチするのもいいが疲れているときに相手するべきものでもないよな、という評価が定着しつつある。それが日本のマスメディアやそもそも民主政と言論についてどうか、というような話はまた元気なときに考える。
さて、というわけで別の話。夕刊文化面に「境界線で」という連載記事の第4回「パクリとオリジナル」が掲載されており、前にどこかで言ったが実家は読売に転向してしまったので以前の回を読んでいない。読んでいないが少なくとも今回は出来の悪い記事だなあと思った。その主たる理由は概念整理がきちんとできていない点にあろうと思う。
微妙に出張の谷間。なにやら日銀総裁の問題が盛り上がっているのだが個人的にはよくわからない。とりあえず法的責任と(中央銀行への信認がどうこうという)結果責任と道義的・政治的責任を区別しないで議論する法律家というのはいかがなものかなあとか見物を決め込んでいたところ何やら近くで炸裂したらしい。おや。
朝日新聞の社説(「君が代判決 教育に刑罰は似合わぬ」)がゆかいだったらしく早速あちらこちらでいじられているわけですが、根本はまあここだよなと。
元教師のような行為を二度と許さないというのなら、相手とじっくり話し合って解決の道を探ることもできるはずだ。
じゃあおまえは宅間守が小学校に侵入してきたのに対して「じっくり話し合って解決の道を探る」のか。
2日間で6コマ授業すると酒飲んで寝る以外の欲求を持てなくなるわけですが(挨拶)。しかも月曜は演習3コマで4時間半のはずなのに結局合計7時間くらいやってたもんな。え〜、リクエストにお応えしまして若干論じます。
政治アナリストの花岡信昭氏による「これでいいのか? ブログ世界の理不尽な未成熟さ」というコラムが話題になっているようである(「Matimulog」経由「酔うぞの遠めがね」経由。)。このコラムの論旨自体に問題が多いのはすでに多くの方が指摘されているとおりであって、例えば(1)「ブログ世界」と一括に語ってしまっていいのか、(2)マスメディアの側の問題点・限界について無自覚ではないかといった批判があり、正当なものだと思う。しかしそれで捨ててしまってはちょっともったいない部分があるように感じたので、以下に若干述べる。
多分意図的なものではないと思うのであげつらう趣旨ではない。「Nature誌、「Wikipediaの記事は取り下げない」」(ITmedia News)という記事が「「Wikipediaとブリタニカ百科事典の精度は互角」という記事にBritannicaが反論したことを受け、Nature誌が記事の正統性を主張した。」と報道しているのだが、ここでの「正統性」の使い方がーー法学や哲学の観点からするとーー間違っているという話。
とかいう学内の研究会に呼ばれたので行って話をしてくる。以前に書いて未刊行の論文の内容を説明するという話で、やはりその論文集に書く憲法のA先生と二人で報告だったのだがなんか質疑になるとどんどん二人で内輪の話になってしまい(eg. 左翼リバタリアンはリバタリアニズムなのか、センをリベラルの文脈に置いて評価して良いか、小選挙区制と少数者保護の問題をどう解決するか)、これに研究会の幹事(だと思う)である政治思想のTさんを加えてもどうにも内輪の話めいた方向に話が進むので(eg. I.M.ヤングの論調の変化をどう評価するか、小選挙区制が一党制に帰結することは予測できなかったのか)、いや私は楽しかったのだが他の参加者の方々(とはいえ2人しかおられなかったわけだが)どうだったのかなあ。
大屋雄裕「リバタリアニズムにおける『自由』?」(森村進(編)『リバタリアニズム読本』(勁草書房 2005)合評会コメント) 東京法哲学研究会。というわけで、コメンテータ3人のうちの1人として報告してまいりました。この本自体については3者の見方がほぼ一致していて、良い本である。那須さん(摂南大学)の表現を借りれば「2冊目に読む本として」、ということになるでしょう。リバタリアニズムの広がりや内部の意見の差異を感じ取るには良いけど、これだけだと中心的主張は見えないかもしれない(私見)。1冊目としては例えば森村進『自由はどこまで可能か:リバタリアニズム入門』(講談社現代新書 2001)なんかがいいんじゃないかと、このあたりも概ねコンセンサスなんじゃないかな。
さて、では私がどういうコメントをしたかというと概ね3点(以下、当事者である私の主観が混入している可能性についてはご留意いただきたい)。
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