法哲学: 2004年アーカイブ

プチ引きこもりであるところの私ですが年に何回か物見高くなるので、ナマの切込隊長氏を見るために生息範囲外であるにも関わらず六本木のGLOCOMまで行ってまいりました。テーマは「ネットとジャーナリズムの将来像について」ということだったのですが、見事にすっぽかされました。ああん。悲しいので「そもそもデモクラシーってのがそんなにいいもんですかね」とか無闇に噛みつく私。まあ詳細はログが出たらリンクしますのでそちらで。

むしゃむしゃしてやった。
草なら何でも良かった。
今は反芻している。

しょぼ。

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多少疲れていて機嫌が悪かったので保険金の算定交渉を超強気で押してしまう。ごめんなさい反省してます、でもありがとう(挨拶)。

さて故あって北田・団藤・浜田対談「『言論』の場をどこにつくるか――ネット・ジャーナリズムの可能性」(『世界』2005年1月号, 岩波書店2004)を立ち読みする。しょぼい。このしょぼさの所以はなにか、としばし考えこむ。

国際シンポジウム「開発における法の役割―法と開発: その理論と展望」(主催: 名古屋大学大学院法学研究科・他)。というわけで東京法哲学研究会にも法理学研究会にも行かず、ここ2日間会場のKKRホテル名古屋に詰めておりました。いや発表してたわけでも運営側だったわけでもなく、単に出席してただけなんですけどね。先端研究拠点事業の関係で打ち合わせというか顔合わせというかをする必要もあったので。

とりあえず盛りだくさんの内容でした。2日間で7セッションあって、各セッションの報告者が4人。報告は15分という理系みたいな制限時間になるし、質疑応答の時間もあまり確保できなかったことを考えると良かったのか悪かったのか。

Winny事件初公判

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種村季弘先生ご逝去(asahi.com)。謹んでお悔やみを申し上げます。

さてWinny事件の初公判が行なわれ、被告側は公訴棄却または無罪判決を求める主張をしたとのことである。実際に聞きに行ったわけではないので報道の範囲で。詳しいのはIT Media Newsとかかな。

タイミングが

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いいのか悪いのか……(苦笑)。デイヴィッド・ライアン『9.11以後の監視』日本語訳刊行記念国際シンポジウム「〈監視社会〉と〈自由〉」(日曜社会学←デリダML)。とりあえず今月末に思い出したら笑ってください。

残念ながら私はその日、すでに別の研究会が入っているので行けないのです。というかパネリスト見ただけで内容の想像がついて萎えるというか(国家による監視(・A・)イクナイ!!)、はなからjca.apc.orgだしな、というか。

宣伝モード発動

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というわけでもうあと約一月ですので広告に走ります。上記の通り岩波書店の『思想』誌がリベラリズムの特集を組んでくださるそうで、一本執筆いたしました。8月末の発売予定と聞いております。

ええこれも私はともかく井上シューレの内外とりまとめて豪華な顔ぶれですので、是非ご一読給わりたく。ついでにご購入いただけると「リベラリズムの本も売れるんだ」と編集諸氏が勘違いして気付いてくださるような気がしますので、なにとぞ。

いい加減あいだが空いてしまっていて、もう本人しかこの話題を覚えていないのではないかという気もしつつ、意地になって続ける。前回はパンデクテン方式の説明をもとに、信義則や事情変更の原則といった「大原則」を最初から使うとバカにされるのだという話をした。ではこういう大原則は本来どういう使い方をするものかを見るためにちょうど良い判決が出たので紹介。

破産後も社長は「取締役」、放火で火災保険免責 最高裁(asahi.com)

会社が破産した後、社長が社屋に放火して全焼させた場合、破産前に会社が契約していた火災保険は支払われるかどうかが争われた訴訟で、最高裁第一小法廷(甲斐中辰夫裁判長)は10日、「保険会社は支払わなくていい」とする初めての判断を示した。約2370万円の支払いを損保側に命じた二審・大阪高裁の逆転判決を破棄し、保険金の請求権を受け継いだ金融機関の支払い請求を退けた。

商法は「悪意や重大な過失で生じた損害」について、保険会社は保険金の支払いを免責されると定め、「会社の取締役の故意や重大な過失、法令違反で生じた損害には保険金を支払わない」とする約款も一般的に定められている。今回の訴訟では、破産後も社長がこの約款上の「取締役」といえるかが争点だった。

同小法廷はまず、「故意や重大な過失で保険事故を招いた場合に保険金請求権を認めるのは、信義則や公序良俗に反する」と商法や約款の免責条項を意義付けた。

そのうえで、破産後も取締役が社員総会(株主総会)の招集など一定の場合には引き続き権限を行使できると解釈されていることを踏まえ、「破産しても取締役は当然には地位を失わない」と判断。今回のケースで、社長は放火した時点でも約款の「取締役」にあたり、保険金はもらえないと結論づけた。

「先生の立ち位置について」って何のメイルだよっ!……と思ったら教室配置の話か(挨拶)。ああびっくりした。ええと今回のWinny事件に関して出てくる意見を読んでいると、法律家・法学者が(まあ私もそのハシクレに入るわけだが)刑法の問題として故意が認められるかどうかという議論をしているのに対し、それ以外の人々が表現の自由とか通信の秘密といった憲法上の価値を持ち出しているという対比が、結構鮮明である。まあ例えば「2ちゃんねる」の司法試験板とダウンロード系の板でも見比べてごらんな。

これはまあ、ある程度は当然の現象だと言える。刑法の議論は難しくてシロウトには立ち入りにくいものである(まあだから私自身もよくわからんと書いておいたわけだが)のに対し、憲法の内容は高校の公民科でも教えているし(だから法学部に行かなかった人もある程度は覚えているだろう)、国の最高法規なのだからみんなに良く知られていて当然である。しかし気になるのは、どうもその憲法を持ち出すシロウトさんたちが、議論にはそれで勝てると決まっているのであって、我々法律家が刑法の分析などをやっているのは無意味だったり無価値だったりすると思っているらしいところである。しかし、まあとりあえず「我々の感覚」っぽいものを乱暴に言い切ってしまえば、むしろ憲法を持ち出してくるような議論の方がシロウトくさい価値の低いもので、そんな主張はした時点で物笑いのタネである。いったいこの擦れ違いはなぜ起きるか。

あ〜念のために言っておくと私自身はWinnyがどうなろうがどうでもいいです。使ってないし。著作者のインセンティブを侵害しないようなP2P技術が開発されるのが望ましいと思ってはいますが、「HIVの根本的治療薬が開発されるといいなあ」というのと同程度の利害関心しかありません(「現行著作権法と矛盾しないような」ではない点に注意)。

しかしこう、Winny騒動を見ているといかに法律(学)というものが一般に理解されていないかということを実感させられるわけです。まあもちろんこちら側(*1)のアピール不足という問題もたくさんあるわけですが、しかし社会問題についてご立派な顔で語ってみえる方々が極めて初歩的なポイントも外していたりするのを見ると、ど〜したもんかなと思うわけではあります。ちょっと具体的に見ていきましょか。(追記: それぞれは私が見聞きした意見を適当に抜粋再編したもので、原文ママではありません。)

Winny開発者逮捕

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今日は一日、よく考えたら炭水化物しか食べてない(挨拶)。さて有名P2PソフトであるWinnyの開発者、通称「47氏」が著作権法違反幇助の疑いで京都府警に逮捕されるという事件があってあちこち盛り上がっているわけですが。

しかし知的財産法の観点から言うとこの事件は面白くないんだよなと。Winnyだろうが何だろうが他人の著作物をダウンロード可能な状態に置く行為が送信可能化権の侵害になるというのは明白で、かつ法文上その幇助犯が成立し得ることも明白なので。もちろん送信可能化権の侵害に刑事罰を課すことが望ましいかという論点はあり得るけど、それは現行著作権法の解釈とは関係のない立法論・政策論的な問題であるに過ぎない。まあだから、私のように情報化社会論と名乗っている観点からすると若干の関心対象にはなるのですがね。

今回のケースを一番興味深く見ているのは、多分刑法の人です。つまり法文から著作権法侵害の幇助犯があり得ることは確実としても、47氏の行為がそれにあたると解釈できるかどうか。私ゃ刑法のことはよくわからんのですが(公法科卒なのですよ)、まあ解説すべく努力してみるとこんな感じでしょうか。

イラク人質問題が気にかかって継続的に見ているなかで、気にかかることがまた一つ出てきた。マスメディアの抱えている問題というか、情報化社会においてコミュニケーションの様式が本質的に転換していること、正確に言えば従来のものに加えてネットワークを媒介にしたコミュニケーションが併存しているという状況に対する自覚があまりにも薄い人々が目に付くということである。

発信者と受信者をつなぐ情報の流通構造を考えたとき、従来から存在した二つの様式、すなわち(1)face to faceの関係を通じて双方向的に・限定された範囲で情報が伝わる直接的コミュニケーションと、(2)メディアを通じて一方向的に・広範囲に伝わるメディア・コミュニケーションに加え、コンピュータ・ネットワークの肥大と一般化によって(3)双方向的・かつ広範囲に情報のやりとりされるネットワーク・コミュニケーションというものが生まれたのだ、というのを過去の論説で扱った(*1)。それが生み出したものを「世界規模の井戸端会議」とか、呼びたければ呼んでも良い。要は質の低い情報も高い情報も一緒くたに、実社会におけるどこの誰が発言したのかがよくわからないような状態で、皆が喋る(そして聞く)空間が生まれたということである。それを肯定的に捉えるか批判するかという議論はもちろん可能なのだが、しかしその存在をもう我々は無視できない、はずだ。

《現代法律学のアポリア》

ところで、ここには現代法律学の抱える一つの根本問題が現れている。第一に、上述の議論に示されているように法律を理解することというのは一定の熟練と知識を要する技術であり、十分な法学教育を受けた人にしかできないということ。この点はしかし、他の多くの学問と何ら変わるところはない。カントを正しく読むためには哲学の素養が、レントゲン写真を読むためには医学教育と医療経験が必要になるわけだ(*1)。

さて、「地裁支持なら高裁決定はプライバシを不当に制約していることになる」という主張については先に述べた通り失当。一方、「高裁支持の場合、地裁決定によって不当な言論弾圧が行なわれたことになる。国家介入を認めてもちっともうまくいかない」という議論も展開されている。なかなかうまい着眼点だと思うが、やはり成功しない議論である。

《事前と事後の救済について》

プライバシ権の存在を認めた上で、しかしそれを理由とする言論の事前差し止めは許されないという主張は、事後の救済で十分だという主張を内包している。権利が侵害されたかどうか、そしてその程度については言論が発表されたあとから裁判で争えばよく、そこで得ることのできるもの、具体的には損害賠償と謝罪広告という救済手段で被害者の受けた損害を回復することができると考えるわけである。週刊文春側の主張はこの立場である。

さて、つづいて法解釈上の論点に入っていこう。

《言論の自由は憲法上無制約である、か。》

こういう読み方をする人は、言論・表現の自由を定めた日本国憲法21条が「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。」となっていることを根拠にしているのではないかと思われる。例えば居住・移転の自由を定めた22条「何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。」と比較すると、「公共の福祉に反しない限り」という但書がないではないか、であるとすればその制約はかかっていないのだ、という。

週刊文春事件に関するエントリに対していただいたコメントについて考えたことです。第一印象、「ああ、この人シロウトだ」。

《事実認定と法解釈の差異》

まず第一に、法規範が何を許容し何を禁止しているかを考えることと、それに基いて個々の事例をどう判断するかは別の次元の問題であるということ。前者を通常は「法解釈」と呼び、ここではあらゆる問題は言語により抽象化された次元で論じられなくてはならない。例えば「人を殺した者は、死刑又は無期若しくは三年以上の懲役に処する。」(刑法199条)という条文について、これは故意による殺人に対する罰則を定めたものだが、「未必の故意」(結果発生を予想しつつ、そうなっても構わないという認容のもとに行為した場合)を罰する趣旨であるかどうかを考えるわけ。

「週刊文春」発売禁止命令の取り消し決定 東京高裁 (asahi.com)

とりあえず田中氏側は特別抗告の見通しらしいですが、とりあえず注目すべきことは以下の四点。

  1. 公人性について否定。
  2. 公益性について否定。
  3. プライバシと名誉毀損で差し止め基準が異なる可能性については保留。
  4. 要保護性について、二重の客観性基準を維持して否定。

いや何かと言うと宮台真司センセイのことですよ。オウム事件の頃から真面目に読む気はなくなっていたのですが、たまたま本屋で読んでいたSPA!(*1)の対談に登場しておられたので(*2)。週刊文春事件についての対談だったのですが、そこでセンセイが繰り返しているセリフは以下の通り。

「公人にプライバシーがないのは近代法の常識」

( °д°) ポカーン

文春側の異議退け、出版禁止仮処分を維持 東京地裁 (asahi.com)

決定全文は読んでいないし、当該記事も見ていないのですがその限りで言えば、まあ妥当な決定かなと。注目すべきところは以下の二点。

  • プライバシの認められる基準について、客観説に立っていること。
  • 事前救済について名誉毀損よりプライバシの方が広く認められるとしたこと。

まあここを書いているのは17日になってからですが。年度末予算消化プログラムの一環として、というのもあるわけですが、発表者の福井先生は私が(関西)法理学研究会で発表した際(2003年6月)に朝の4時まで一緒に飲んだ仲でもありますので、迎撃の意味も込めて(*1)。いやあれはつらかった。というか何が一番つらかったかといって翌日予定通りに朝から鞍馬山に出かけてしまったことなわけですが。なんとかならんか、この貧乏性は。

自由と負担

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会議室に監禁される3日間、とりあえず終わり。私は重度の凝り性なので、ずっと座りっぱなしで同じ姿勢をとり続けると本当につらいのですよ。肉体的苦役を強制されることは基本的人権の侵害なので採点作業は免除してくれと主張してみるのはどうでしょうだめですかそうですか。

さて。2004年2月28日の朝日新聞朝刊「私の視点」は、裁判員制度をテーマにしていた。興味深かったのは、その中でも弁護士の田鎖麻衣子氏の意見と、中学3年生からの投書が、まさに対極と言っても良い位置にあったことである。

最後に一つ。

社会は変わりやすいものかそうでないかというのがシンポジウムの一つの争点だった。嶋津会員や私が「変えようと思えば変わるんじゃないの?」という立場である(一緒にしたら怒られないかなあ、びくびく)のに対し、江原氏は再三にわたって、戦後ずっと努力したがほとんど変わっていない・そう簡単に変わるものではないと主張されたわけだが、ええと、変わることを皆が望まなかったから変わらなかったという可能性は念頭にないんでしょうか。

さて私の応答に関するフォローの続き。パフォーマンスをめぐる議論についてと、用語法について。

住吉報告に対する質問に対するフォロー。というかフロアの質問者に質問するというのはどうなのか。まあいいけどさ。

私の質問の趣旨を簡単に言うと、「われなべにはとじぶたが見つかることを前提してるんじゃないか、それはDeus ex Machinaじゃないのか」ってことでした。参照、大屋雄裕「統合から共生へ――試みとしてのトーキョーキューティーズ」トーキングヘッズ叢書No. 14 『トーキョーキューティーズ』(アトリエサード 1999)。

さてその他の報告について。一番面白かったのは斎藤報告。

その意味で一番問題だと思ったのは川本報告。

シンポジウムで私の質問に対して応答がされたのだが、元の質問が読まれていないのにあえて回答するという例外的な形だったので、フロアの人々には何が何だかわからなかったのではないかと思う。何を言ったかというとこういうことだ。

だいぶ遅ればせながら、11月の日本法哲学会の感想などを少し。

全体的な感想としては、フェミニズムあるいはジェンダー研究の法哲学的意味を積極的にアピールしようとしたのなら失敗だろうけど、それらを紹介するという意味では成功したのではないかと。というのは極めて質の低い報告がまざっていたり、報告者のあいだで理論的な対立が内包されていたりしたのだけれど、それらを切り捨てられない、問題点を正面から認めることもできない、対立に見ないふりをしてみんなで仲良しごっこをしているという「どうしようもなさ」が明らかにされていたから。

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