武力と日常(4)

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議論は次の論点、すなわち「無縁」の評価に映る。ここでの直接的な対象はまず本郷氏ではなく、2巻の筆者・東島氏ということになろう。同書の表題にもある通り「自由にしてケシカラン人々」の存在を高く評価する東島氏は、彼らの存在を支える都市の自由が、当の都市民たちの自治によって失われていく過程を告発する。

すなわち、「「かけ落ち」する者にとって、あるいは飢饉の「流民」にとって、都市とは〈生きやすい〉場所のはずであった。だがそれも、戦国時代が進み、京都のように都市民たちが「町」を単位に自治を獲得し始めると、俄然〈生きにくい〉場所へと変貌していく」[2,117]。本来「都市とは、こうした身分的隷属関係を一時的ながらも解除し、関係を組み替え、言い換えれば〈人生をやり直しうるかもしれない〉空間となりえていた」[2,115]ものが、「「町」や「町々」が権力の末端機構化して」[2,117]ことによって失われていくというのである。

16世紀中期の天文年間以降に顕著となる「町」や「町々」の自治とは、結局のところ犯罪捜査や秩序維持の下請けを担うこととと引き換えに与えられるものであった、ということは確認されてよいだろう。京都における町人自治の獲得は、〈生きやすい〉場所を生成するどころか、異分子を排除することで成り立っている、そのことを忘れてはなるまい。[2,118]

しかしその、そこで挙げられている例であるニセ募金の取り締まりなどを考えると、そういうものを排除したいというのが国家権力の欲望であって「町」がそれに服従させられているのか、そもそも「町」自体がそういうものを排除したいと思っているのかという問題を検討する必要があるだろう。そもそも(この点が核心だと思うのだが)、「町」の自治であれ人々の営む日常的な経済活動であれ、一定の秩序が存在するためにはそれを乱す存在が排除される(または事前に抑止される)必要があるし、そのためには一定の資源が必要となるわけである。人々がその資源を負担することを通じて秩序を維持しているなかで、その負担から免れている人間がふらりとやってきて秩序の恩恵にあずかろうとした場合に、特に経済的な余裕がさほどない状況下で人々が彼らに対して親切であることはあまり期待できないだろうし、またそうあるべきだという根拠がさほどあるとも思えない。まして、彼らが積極的な秩序壊乱者であったり、秩序の存在に対する人々の信憑を利用して不当な利益を得ようとする場合、まあ正直追い出されるだろう、それはという感じがするわけだ。

「都市の空気は自由にする」というが、自由にもさまざまな種類があるのであって、たとえば「私には六本木ヒルズに住む自由がある」というのはそうしても国家に止められることはないというだけの趣旨であり、もちろん現実にそれを可能とする資源(金銭とか通勤時間の余裕とかな)が私にあるということでもなければ、それを国家や社会が保障してくれるということでもない。

同様に、身分関係に従属している人々を都市が自由にするとしても、そこで解放された人々を都市の側がただちに暖かく迎え入れなくてはならないという理由もないわけであって、もちろん都市で不足している技能の持ち主などであれば歓迎されるだろうし、単純労働力として「現地にあって逃走者を積極的に取り込もうとする者」[2,116]に受け入れられるということもあろうし、しかし都市の側でそういう余裕がない場合には「〈京都に行けば食える〉という幻想を抱かせるだけの労働の市場が、15世紀後期の急激なV字回復途上の京都には出来上がっていた」にもかかわらず「飢饉のあまりの猛威のもとに、その希望は叶うことなくみな死んでいった」[2,117]ということになるわけである。東島氏が束縛しないこと・そこにいることができることと歓迎されること受け入れられることを混同して「町」の自治を批判する背景には、そのような自由の概念に関する混乱があるということになる。

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