武力と日常(2)

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前回・前々回に述べたような仕儀で本郷和人先生の武力理解について私の意見を弁明すべき状況に立ち至ったので、ずっと前に書きかけてほおってあったエントリを発掘する。以下の二冊に対して言及したもの。

  • 本郷和人『武力による政治の誕生(選書日本中世史1)』選書メチエ、講談社、2010。
  • 東島誠『自由にしてケシカラン人々の世紀(選書日本中世史2)』選書メチエ、講談社、2010。(いただきもの。ありがとうございます。)

「本郷派」と私が冗談で言っている(というのは3人が東大本郷勤務でお二人が本郷姓だからだが)方々によるシリーズの、冒頭2冊を読んだ時点での意見である。思い起こせばこのシリーズの前触れとなった特集が組まれたRATIOには私も(当然ながら別の特集だが)まぎれこんでいたのであった。ちょっと自慢。

まあそれは措いて、上掲2冊を読んで私が抱いた疑問を大きくまとめると、以下の2点になる。すなわち、


  • 暴力の位置付け、暴力を統制するとはどういうことか

  • 無縁の評価、日常を維持するための負担を負わない人々がそこから疎外されるのは当然なのではないか

順に見ていくことにしよう。

まず暴力をめぐる論点について。本郷氏は暴力の不条理さを描き出すために、「いま思い返しても、この上なく悔しい経験が、わたしにはある」[1,116]と書きだして個人的なエピソードを紹介しておられる。その内容についてここで紹介することはしないので必要なら同書を実際に参照していただきたいが、理不尽な暴力を受けたがそれに暴力で対抗することはせず、しかし警察に通報することもなく、「不本意ではあるが、泣き寝入りせざるを得なかった」[1,116]事例だとまとめることができるだろう。警察力に頼らなかったのは、それが十分に信頼できるものか、解決の過程でさらなる被害を誘発する可能性がないかを懸念したからだ。

ともあれ本郷氏は、「暴力は唾棄すべきものであり、否定されるべきものである。痛みを訴える被害者を思えば、どんなに小さな暴力も容認してはなるまい」[1,117]と主張する。そこから、そのような暴力を統制するために「文」が優位にあるべきこと、「文」の優位を確立する過程を武家政権の成熟と評価する視点が築き上げられていくことになるわけだ。

しかし、冷たいことを言うようであるが上記のエピソードで本郷氏が、自分自身の暴力を用いるという形でも暴力機構としての警察を導入するという形でも対抗しなかったことによってどのような結果が生じたかといえば、問題となった当の理不尽な暴力の持ち主が一切制裁を受けることなく放置されたということであるし、それは同種の事件が繰り返され暴力の被害者が増大する危険を意味しているということになる。対抗できなさそうな相手なら暴力を十分に強く行使して黙らせてしまえばいいという誤った学習を、相手にさせてしまった可能性もある(書かれ方から見ると常習犯っぽいところもあり)。本郷氏ご自身が暴力を憎み、暴力に近付かないという決断をすることによって(それには理解できる点も多々あるわけではあるが)、不当な暴力はかえって放置・助長されてしまったということになるわけだ。

もちろん本郷氏としては、そうなるのはそもそも不当な暴力が存在するからであって、それを抑えこんでいかなくてはならないと言われるのかもしれない。しかし、第一にすべての人間が保有する暴力をゼロにするということは(筋力を全廃することを含むであろうから)端的に不可能であろうし、第二に自然の猛威に対して我々が完全に無力になるということを意味していようし、第三にそもそも我々が誰を(何を)他の「私」と認定するかということ自体が暴力的な配慮に依存している以上根源的に不可能であると言うよりない(なお参照、大屋「他者は我々の暴力的な配慮によって存在する」『RATIO 01』pp. 240-260)。

そこで我々が選択したのが暴力の均衡による平和というモデルであって、つまり潜在的に存在する暴力を他の暴力で抑制することによってそれが顕在化することを押しとどめようという手法である。そのもっとも単純なモデルはおそらく「他人の銃で襲われないように、自分も銃を持つ」というものであり、もちろん私は「みんなが銃を保持したところで、暴力はさらにタチの悪いものになるだけで、問題の解決には絶対に結びつかない」[1,117]と言う本郷氏に賛成するが、「みんなで銃を捨てよう」と呼びかけたところで従うのは善人だけで「悪人だけが銃を持つ」というよりダメな社会状態に至るし、悪人から銃を取り上げるためにはより強大な暴力が必要になるだろう。乱射事件が起きるたびに「みんなが銃を持っていれば被害はここまで拡大しなかった」と主張するNRAにも三分の理くらいはあるわけだ。

すると問題は「暴力をいかに抑制するか」というより「暴力の均衡をいかに形成するか」ということになる(なお参照、大屋「功利主義と法」『法哲学年報2011:功利主義ルネッサンス』pp. 64-81)。ポイントは、すでに一定の暴力が分散してしまっている社会におけるその解決は、圧倒的な実力を構築することによって市民の抵抗をとりあえず抑止し、分散した暴力を漸減させていくというものしか考えられないという点にある。「文」の機能は、圧倒的な武力の存在の上にしか成立しない。この問題にはのちにふたたび戻ることになろう。

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