大学の人事とスケジュール(5・完)

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珍しく国内線のプレミアムクラスなどに乗ったところキャビンアテンダントのひとが新聞をすすめてくれるのだがスポーツ紙しかないという。苦笑して断ったところ「あるいは沖縄タイムスですとか......」うんそれは新聞ですらないねえ(挨拶)。

さて、この問題についてある週刊誌から取材を受け、記者の方と話していた際に気付いたのは、「設置審はこわいものだ」という感覚が共有されていないということであった。おそらくは関わった経験のある多くの大学教員が持っている感覚なのだが、まあそりゃそうだよな、所管大臣ですらどういう申請手続きになってるか知らんようなものなわけで(皮肉)、世間一般の方々がご存知なわけはない。しかし実際問題としてはそうなのである。

* * *

大学教員になるための資格というのはないと聞いて驚く人が多いのかすでに常識であるのかも私にはよくわからないのだが、実際にない。一応、大学設置基準によればたとえば教授になるためには博士の学位かそれに相当する研究業績、教授・准教授・専任講師としての経歴といったものが必要とされているのだが、第一に高校以下の教員と違って一定の教育を受けたことを前提に認められた公的な教員免許のようなものがあるわけではない。第二に、「専攻分野について、特に優れた知識及び経験を有すると認められる者」のように弾力性のある条項があり、これはこれで高卒の学歴しか持っていない建築家の安藤忠雄氏を東京大学教授にするといったような人事(1997年)を可能にするためのものであってダメ一辺倒ではないと思うが悪用しようと思えば悪用できるよねえと思われるであろう。

でまあ実際「うん悪用されてるねえ」と思う事例もある。どれをどの程度問題だと考えるかは人によって違うと思うが、中央省庁の官僚が大学教員になる例もあるし、マスメディア関係者が定年後数年間を大学で過ごすこともある。純文学の小説家などは大学教員を兼ねているケースも多い。個人的には官僚の多くには職務に関係した論文のたぐいを書いた経験があるから一応の研究歴があるわけだし、天下り先として大学というのは別に美味しくもなんともないところなので(国立大学教授に移った某省官僚の方に伺ったところ年収が数百万だか減ったそうである)、それをわざわざ大学に来る方は世俗を離れて研究を志しているからいいんじゃねえかと思い、むしろ地方自治体とかメディア出身でおよそ「論文」など書いたこともない人を教員にしていいものかと思うわけであるが、実践経験を伝達してもらえることが重要だと評価する人もいるだろう(実作者などはまさにそのパターンである)。

いずれにせよ問題は、基準について判断し、ある人物がそもそも大学教員として適当か・どのような職位に値するかを決めるのが個々の大学・学部の教授会だという点にある。だから優秀で真面目な研究者が集まっていてきちんと能力業績を評価しましょうと合意し、実際にもそうしているところでは厳格に審査されることになる一方、ダメな人が集まってみんな損をしないようになんとかしようと考えるとお手盛りになるわけだ。まあ「ダメの縮小再生産」とか、そういう話ですな。

正直に言えば、採用にせよ昇格審査にせよ相身互いというか、厳しいことを言って自分ないし関係者のときに復讐されるのもどうかなあというたぐいの発想が働く余地はあり、結果として内輪のなあなあになっているケースもあるだろうと思う。そういう例を捉えて大学教員に問題ありと言われるとすれば、そのような側面はあると少なくとも認めざるを得ないだろう。しかしそれ、設置審には関係ない話なんだよな

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というのは、設置審による教員審査は純然たる外部評価だからである。どういう人がやっているかというリストは文科省のウェブサイトで公開されているが、まあ率直に言えば(分野によるものの)旧帝大や大手私学の教授が多く、他の分野を見ても私が名前を知っているようなおっかない先生方が並んでいる(リストに載っている私の同僚がおっかないという意味ではない)(*)。こういう方々に業績自体の数・レベルと科目適合性を審査され、職位(教授とか准教授とか)にふさわしいかどうか、担当科目との不一致がないか、あるばあいには専任なり非常勤なりで補充する必要があるかどうかを逐一チェックされてしまうわけだ。

なお大学院の場合は、さらに博士論文の指導ができる「Dマル合」・修士論文の指導ができる「Mマル合」・博士後期課程では指導補助しかできない「D合」・前期課程の指導補助しかできない「M合」・講義しかできない「可」に区分される(**)。 分野にもよるし噂程度の話でしかないが、「Dマル合」となるためには自分も博士号を持っていて論文著書40点程度が必要であり、さらに直近数年間に研究業績がないと問題になるとか。自分が研究者としてどのレベルかということが明白になり、場合によっては失格・退場を命じられてしまうわけであって、当事者として恐ろしいというのはおわかりいただけると思う。

繰り返し言うと民間なら当たり前のことだと言われればそうですよねと個人的には思う。しかしあくまで大学業界内の比較の問題として言うと、言うのも恥ずかしいが某国立N大学H学部の教授でございと大きな顔をしていても上記の基準にまったく届かない業績しか持っていない教員が実際にいるし、私自身も赴任当初の公刊業績数は本当にわずかだったが(弁解すれば未公刊の単著1冊分の論文はあり、後日それで学会奨励賞も受けているわけであるが)、博士論文審査で主査を務めることが制度的には認められていた。現在となっては上記の基準を(少なくとも論文数の面で)超える程度にはなっているのでぺろっと言ってしまうわけだが、まあお手盛りと言われて返す言葉もないわけである。

(*)なおこう書くとその先生方の天下り先がどうこう勘ぐる方がいるかもしれないところ、第一にすでに一つ目の大学を定年退職されているような先生も多く、第二にもとから有名でそんな心配をする必要がないクラスの方々も多く、第三にするとしても新設校とかに行くレベルじゃないよねえとそういう話である。この点、私の本件に関する発言に対しても「同業他社だから」とか「天下り先だから」とか勘ぐっている方がBLOGOSの方では見受けられたが、前者については(正確に指摘している方もいたが)アサヒ飲料から見て鉱泉ソーダ作ってる会社って同業他社ですかねいやまあそりゃ定義上はそうでしょうけどという話であり、後者はそもそも25年くらい未来の話なうえにいやそりゃ未来の話はそうなってみないとわからないが多分私が定年後に行くような大学ではないと思いますよと、同様の話になる。そもそも法学部ないだろ、今回の申請校。
(**) ちなみにこの教員審査、どうも一度受けた評価は基本的に下がらないらしく、申請の際にも「過去にカクカクの評価を受けた」旨を記載する欄がある。新設や改組を考えている大学が教員を公募する際に「過去にDマル合・Mマル合の評価を受けたこと」を条件にしていたり、新設校を次々と渡り歩いていく教員というのがときに見られる背景にはこのような事情があり、つまり第一に審査はそれなりに厳しいのでうかつな教員組織だと審査でコケる可能性があり、第二にそこで確実性を増すために申請側が懸命の努力をしていると、そういうことになろう。

* * *

そのようにぬるま湯的な(少なくともそのようになり得る)大学業界の現状のなかで、教員個々に対する外部からの業績審査が入り、経営計画がチェックされ、校地校舎設備に問題がないかが厳格に点検される珍しい機会というのが設置審への認可申請なわけだ。再々言えば現在の大学業界のあり方に問題を感じる人は多いだろうし、私も同意する点が多いが、ダメダメの源泉になっている既設校(特に長年設置審をくぐっていない部分)をほったらかしにして・それでもまあ厳しい審査が行われているところを破壊してみたり妙にいじってみたりしてもまったく意味はないだろう。

社会全体・大学業界の現状に対する問題意識が正しかったとしても、ターゲットとして設置審を取り上げた時点で能力識見の底の浅さが透けて見えますと、そういう話なのであった。ようやく終わる。(11/22公開)

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