右か左かではなく上か下かが重要だという話をしばしば学生にしているのだが、つまり政治的その他の志向preferenceと議論のレベルの高低は別の問題である。読んで学ぶならいずれにせよレベルの高いものにするべきで、というのは結論を肯定するにせよ否定するにせよ論旨の展開を批判的に検討することがアカデミックな議論には(従ってその作法の訓練としての大学教育においても)必要であるところ、レベルの低い議論というのはツッコミどころだらけで話が進まないし訓練にもならないからである。
何かというとまた産経がどうしようもないということであって、早稲田大学の法学部が国歌斉唱時の起立強制は教育現場に相応しくないという趣旨の文章を入試で出題したのは不適切だという論旨で報道している(「早大入試で偏向的出題 国旗国歌「教育にふさわしくない」」MSN産経ニュース)。以下は同記事より。
また「学校の式典で日の丸を掲揚し君が代を斉唱することは、それを通じて国家への敬愛の念を抱かせようとするものであり、教育には似つかわしくない」と記述し、入学・卒業式での国旗掲揚、国歌斉唱の指導を義務付けた文部科学省の学習指導要領に明確に反する主張を展開した。
ここでのツッコミどころは三段階くらいあり、まずは入試とは何かという点である。いやもちろん私は当該の入試問題も(これはそのうち出てくる)その採点基準も(これは絶対出さない)見ていないので一般論として言うが、試験の題材として利用するのはその見解を出題者が支持しているからでは、まったくない。
学部の試験で私が好んで用いる出題形式として、10行以下くらいの文章を引用し、「筆者の見解について論ぜよ」とするものがある。この場合、題材選定の基準になるのは短い範囲で筆者の見解が明快になっていることと学生でもツッコめる論理展開があることで、結論がどうだろうが文章がだらだら続いて論旨がはっきりしないものは使えないし、完全すぎる文章もそれに対する学生の論評に差がつかなくなってしまうので、困る。いずれも主張に対する賛否とは無関係な基準だ。
あるいは、題材について「批判する立場から論評せよ」という問題のあとに「その論評に反論せよ」という設問を出したりもするわけで、出題が一定の政治的志向を反映するとしたら私はどんな政治的立場に立っていることになるのか。正直お前ら本当に大学教育受けたのかと聞きたくなるレベルの報道だよね、これ(こういう「さまざまな立場からの主張を展開せよ」的な出題は法匪養成目的だと言われたら、否定する気はない(にこにこ))。
第二に、上記のような設問形式がなぜ可能か・許されるかといえば事実と主張は別のものだからということになろう。虚偽の事実を前提とする文章を出題するのは問題かもしれないが(それにしたって設例問題とか小説を考えれば仮想的な事実ならよさそうでもある)、一定の事実を前提として形成される意見は多様なものであるのが当たり前で、それは最高裁が判決を下すことにより特定の意見が社会的に「権威あるもの」として扱われるようになったあとも変わらない。
最高裁判例に反する見解を個人として支持することも、それを公言することも自由である(でなければ大学の実定法教員など大方捕まってしまう)。独自の見解に基づいて訴訟を闘うこともまた自由であり、ときにはそれが下級審に受け入れられたり、最高裁自身を説得するのに成功して判例が変更されたりする。逆に言えば、「最高裁がどう言おうが自分はこう信じるのだ」という人がいないとそのような見直しや修正は進まないのであって、多様な意見の主張を抑圧しようとするものは法の敵である。
それでは最高裁の意見が「権威あるもの」とされる意味はどこにあるかといえば、それは公務員(裁判官などを含む広義の)にはそれを尊重することが求められ、基本的にそれに準拠した行動を取るので、その意見の求めるものが実現するだろうと社会的にも信頼することができるという意味である。日本国憲法99条の定める「憲法を尊重し擁護する義務」の一部でもあるだろうし、統治者に求められる不偏性の帰結でもあるだろう。国家というのは多様な価値観から基本的に中立でなくてはならないから(完全に中立たり得るか・たるべきかには議論がある)、独自の見解を社会に強制するようなことは公務員には許されないのである。
これを逆にすると最後の指摘が出てくるわけで、つまり早稲田は私学だから何を言おうが構わないんだよ。もちろん本当に何を主張してもいいのかに議論はあるが(たとえば「男性は女性より劣る種族であって高等教育に値しない」という信念に基づく女子大学の設立は認められるか)、一定程度の合理性があって社会的に存在を承認されている価値観に基づくのであれば、それが社会全体に公認されたものである必要はない。たとえば東京神学大学は受験者にプロテスタントの洗礼を受けて教会生活を送っていることを求めているがこれは国立大学では許されない宗教による差別であるし、高野山大学が弘法大師の思想に基づく教育理念を掲げていることも特定の価値観へのコミットメントである。これらが問題ないものとされているのは、つまり公務員とは関係がない民間の事業だからだ。
結局、産経新聞は試験というのが何のために何をするものなのかということも、中立義務・憲法擁護義務を負っているのは誰なのかという問題をまったく理解していないということであろう。私立大学であっても公認されていない特定の価値観にコミットするのがけしからんと主張するのなら国学院と皇學館の神職養成課程を廃止してからにしようねと、まあそういう話なのであった。(2/27公開)

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