続・岡崎市立図書館事件(2)

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さて、とはいえこれだけだとなんか非常に形式的なことで私が切って捨てているだけに思う人がいるかもしれない。まあ個人的には形式が守れない人間には研究者としての資格がないよねえと思うのだが、まあ世界の人がみな研究者倫理を熟知しているわけでもなかろうから、結局不確かなソースに依拠することでどういう恥ずかしいことになっているかという実例を、一つ挙げておく。

なお以下で、「私はこう言った」という内容については、私としては自信があるものの間違いなくそうだという証拠(たとえば録音のごときもの)があるわけではない。まあただおそらく参加者に確認すれば「だいたいそういうことを言っていたのではないか」程度の証言は揃うであろうから、一応の信頼性は担保できようかと思う。もちろんたとえば高木氏には「それでは十分な証明と言えない、そんな情報をもとに主張の当否を論じるのはおかしい」と主張する自由があるが、そうなればtwitterによる不正確な要約をもとに他人を罵倒するというご本人の行動と矛盾する自爆行為になることは言うまでもない。さて。

これはパネル発言が一巡したあとに岡本氏と議論になった部分でのことである。私は大要以下のような発言をした。

  • 近代国家は自分が結ぶ契約の内容などを十分に判断する能力を持っている「強い個人」を前提にしている。遭遇するかもしれないリスクには各自が保険などで備えるというのが基本になる。
  • しかし現実の我々は「強い個人」ではない。たとえば私のように法学部の教員であっても、保険契約の内容をきちんと読んで理解しているわけではない。
  • それは、現実の「弱い個人」と前提の「強い個人」のあいだを国家が埋め合わせているから。保険の場合には保険業法があり、契約の内容その他について国が統制を加えている。
  • だから同じように、「弱い個人」が安心して暮らせるような状態が必要だというのなら、国家がサービス提供者側に強力な統制を加えなければならないということになるだろう。金融庁のような役所を作って、インターネットで情報提供するものには免許が必要になるとか、許認可事業だとか、そういうことにしなければ「弱い個人」が安全だという状態は作れない。
  • でもそれは、情報を発信する側にとっても、利用者側にとっても、幸福な状況なのか。そうではないと思うとすれば、「弱い個人」が安心してなんでもできるというような状態を理想としてはいけない。

で。これを当日参加していた神田記者が事後に要約したtwitterでの発言がこれ。

「大屋さん曰く、サービスはきちんとしているべきだし、それを国家権力が支えるべきではある。しかし、国家権力がネットに介入することが果たして愉快なのか。利用者側が欠陥もあると考えながらリスクも覚悟して振舞ったほうが居心地が良いのではないか、とのことでした。」(twitter)

うんまあ正直すっと読んで文意はわからない発言になっていると思うのだが、それは正直無理もなくて、上記の内容を私は(保険約款の印刷の実例なども交えながら)たぶん2分くらいで喋っているので、記録も記憶も追いつかんわなとは思う。繰り返すが要約というものには最初から一定の限界があるわけ。しかしこれを受けた高木浩光氏の発言は、これ。

「国家権力がネットに介入するのは当然。お話しにならない。」(twitter)

上記を読めばわかる通り私はインターネット上の行為その他に法律が及ぶかどうかとかいう水準の話をしているわけではない。それに対して高木氏のような反応をされ、「誤解が出ているならば、個々の誤解に対して直接打ち消す言論をすればいいだけの話」とか言われても、それこそ「お話しにならない」としか言いようがないよねえ。はなっから何もわかってないんだもん。

「大屋とかいう人が何をなした人なのか知りませんが、間違ったことを言ったときにはちゃんと面と向かって反論しなくちゃだめでしょ。21世紀にもなって、予定調和で顔色うかがって持ち上げてるんですか。私が現場に居たら声を荒げて指摘したでしょう。」(twitter)

「こんな最低最悪な発言があって、どうして誰も現場で罵倒しなかったの?」(twitter)

現場で・コンテキストを踏まえて聞いた人は正しく発言の趣旨を理解したからじゃないかねえ。なにかとにかく声を荒げてみたり罵倒してみたりするというのもカルト教団の教祖さまの手口にあったような気がしますが。もはや滑稽としか言いようのない人物だなと、まあそういう結論で。

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鰤端末鉄野菜 Brittys Wake - [philos][jus] 藪の中 (2010年10月 7日 00:54)

さて10月2日の岡崎図書館問題パネル討論会 (https://www.esd21.jp/news/2010/10/post-1.html) だが、スライ... 続きを読む

コメント(5)

はじめまして。
名乗るほどのものではないです。職業はDB・WEBエンジニアです。

このエントリは、説得力に欠けると思います。

誤解の状況を一箇所ピックアップし、説明している部分ありますが(説明しやすそうなところを)、
やはり面倒でも、全ての誤解について、個々に説明をすべきだと思います。

こんな文章では、せっかく先生がよなべをしてエントリを書いている意味がありません。

取り急ぎ、とても説明していただきたいところがひとつ。

当エントリの引用部分『こんな最低最悪な発言があって、どうして誰も現場で罵倒しなかったの?』のところですが、
当エントリでは、
高木氏のhttp://mobile.twitter.com/HiromitsuTakagi/status/26201382255 を「前半だけ」引用されています。、

高木氏が批判しているのは(後半部分、非公式RT)以下の発言です。

『RT 「多い」「少ない」は相対的な尺度でありアクセスの相場観はまだ社会で共有されていない。
技術者的には少なくても多いと感じる人もいる」』

この発言に誤解があるということであれば、説明していただきたく存じます。

そうでないと、法学者の先生は、ITに対してまったく不勉強で無知だといわれても仕方ありません。

初めまして。Wilfremと言います。
別の記事でもコメントさせてもらいました。

非常に不躾な感想で申し訳ないのですが
流れを再現されたこの記事をゆっくり読んでも
非常に誤解しやすい内容になっています。
自分も読んで理解するのに10回ほどかかりました。

先生の結論は
> 「弱い個人」が安心してなんでもできるというような状態を理想としてはいけない。
であってますよね

とするならば、結論を先に持ってきた方が誤解されにくいと思います。
(論文でも結論を先に書きますし)

ブログを修正されてはいかがでしょうか?

それでは失礼します。

追伸
この記事で上がっている話自体もどういう流れで出てきたのか
もう少し分かると、より理解されやすいかと。

>先生の結論は
>> 「弱い個人」が安心してなんでもできるというような状態を理想としてはいけない。
>であってますよね

えっ

……朝日の神田記者は正反対に解釈したのをツイートして、私は最初にそれをみて目を疑ったのですが(いや陳述内容にではなく、大屋氏がそこまで踏み込んだ発言をしたといわれていることに)、このエントリをして少し得心したところ、今度は正反対の解釈が。ううむ。

どちらが、ということはさておき、先生ってえらいんだなとぼくはおもいました。

>>tejimaさん
青木さんとかいう方の発言を細切れに引用して
おおやせんせいが批判なさっているのなら
それは意趣返しというのではないかと(ry
青木さんが新世紀の言論態度を実践するため
おおやせんせいが言及なさっていない個所も含め
>誤解が出ているならば、個々の誤解に対して直接打ち消す言論
をしにくるのではないでしょうか。などと。

>Wilfremさん
おおやせんせいは
「そうではないと思うとすれば」としていますので
それは別におおやせんせいがどう思われるとかとは関係がないのでは…と
思うのですが。

>一学生さん
いや私はそんなイヤガラセはしないですよ(にこにこ)。オリジナルに遡れない・不正確な要約に依拠してしまっている高木浩光氏とは違って、私は元発言への参照情報をきちんと貼っていますから、文面中に引用するのは必要な部分に限りましたということです。

>tejimaさん
というわけで、前半に引用を限ったのはそういう事情です。後半についてですが、これはやはり岡本さんとの議論での発言です。(できるだけ)正確に書くとこういう話。

--
まずパネル発言の際に、榎本さんから《33000回のアクセスと聞くと一見多いようだが、1秒1回とすれば10時間程度に過ぎない。これで「大量」というのはどこかおかしいと気付くべき》という趣旨の、直接には報道に対する指摘がありました(この内容にはまったく同意です)。それを踏まえて、私のパネル発言の際に紹介した無言電話の事例が《3ヶ月で970回》であり一日10回程度であること、この時代(昭和48年)にはこれが「大量」だと思われていたことを指摘しました。もちろん無言電話とウェブページへのアクセスという違いもあり、時代の違いもありますが、つまり「大量」かどうかというのは《どういう行為か》といった要素に相対的なもので、回数だけで決められるわけではない(「1秒に1回のピンポンダッシュだったら『大量』だと思いますよね」とも言ったな)。もちろん技術者としては秒間1回のウェブアクセスは「少ない」と思うだろうけれども、手段の違いがわからずに「多い」という感覚を持ってしまう人もいるだろうし、特に警察でも所轄などには(技術に詳しい人がそういう専門セクションに吸い上げられてしまうことの結果として)《よくわからない人・古い人》がたまっている可能性が高いので、そういう人にもわかるように情報発信していかないと問題は起きてしまう。
--

これをまた私がえらいこと早口で喋るもんだから理解はできても書けないという状態になったりそもそもわからないという人が出ても仕方ないとは思うのですが、そういうわけで喋った側としてはその要約が正しいとは思っていない、ということになります。上記の内容を見て、それでも私のことをITに対して不勉強で無知とお考えになるかはお任せしますが(しかし少なくとも法学者全体について判断してほしくはないなあ)。

>Wilfremさん
まず「私の結論」について言うと、《そのような状況を幸福だと思わないとすれば、「弱い個人」が安心してなんでもできるというような状態を理想としてはいけない。》です。一学生さんの読解が正確で、あくまで条件節が付いている。逆に言うと、国民がみんなして「いや我々はそういうふうにばりばり事前統制された方が幸福です」と判断するならしかたないねえと。私自身はわりと古いインターネットの思想にシンパシーがあるので、そう国民が判断したら《残念だねえ》と思うと思いますが、なんかしかしみんなやっぱり自律とか自由とか望んでないのかしらと最近弱気になることしきり。
だからこれ、「主張」ではなく「描写」なのですよ。問題の構造はこうなっていますよ、という。これを踏まえた上でどう選択するかというのは国民に(あるいはそれぞれの個人に)委ねられているので、そこから書くということはできないのです。問題全体の構造というか、どういう背景があってこういう話が出てくるかということをきちんと理解したいというご希望がもしあれば、私の『自由とは何か』(ちくま新書)をお読みいただければと思います。


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