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傍論(5・完)
もう一点は、いやしかしこれ「平和的生存権」を評価する側からも微妙すぎる判決ではあるまいかということである。本件判決は「控訴人らは、それぞれの重い人生や経験等に裏打ちされた強い平和への信念や心情を有している」と評価し、「そこに込められた切実な思いには、平和憲法かの日本国民として共感すべき部分が多く含まれているということができ、決して、間接民主制下における政治的敗者の個人的な憤慨、不快感又は挫折感等にすぎないなどと評価されるべきものではない」と述べるなど、「平和的生存権」に関する原告側主張を強力にサポートしているわけである。
また、本件派遣に関する事実認定を見ると「多国籍軍の活動は、単なる治安活動の域を超えたものであって、(......)泥沼化した戦争の状態になっているものということができる」と指摘し、そのような「国際的な武力紛争」が現に進行している「戦闘地域」において「多国籍軍との密接な連携の下で、多国籍軍と武装勢力との間で戦闘行為がなされている地域と地理的に近接した場所において、対武装勢力の戦闘要員を含むと推認される多国籍軍の武装兵員を定期的かつ確実に輸送している」本件自衛隊の派遣は「現代戦において輸送等の補給活動もまた戦闘行為の重要な要素であるといえることを考慮すれば」「多国籍軍の戦闘行為にとって必要不可欠な軍事上の後方支援を行っているものということができる」とまで評価している。判決によればそれは、「他国による武力行使と一体化した行動」であり、「自らも武力の行使を行ったと評価を受けざるを得ない行動である」ということになる。
ここではそのような事実認定の適否については問わない。私自身として特段の意見があるわけでもない。しかしその、そのように「自らも武力の行使を行ったと評価を受けざるを得ない行動」を日本がしたことによっても原告らの「具体的権利としての平和的生存権が侵害されたとまでは認められない」、「損害賠償請求において認められるに足りる程度の被侵害利益が未だ生じているということはできない」というのである。じゃあいったい日本政府が何をしたら損害賠償請求が認められるのかねこれ。
判決中には、「本件派遣は控訴人(......)らに対して直接向けられたものではなく、本件派遣によっても、日本において控訴人(......)らの生命、自由が侵害され又は侵害の危機にさらされ、あるいは、現実的な戦争等による被害や恐怖にさらされ、また憲法9条に違反する戦争の遂行等への加担・協力を強制されるまでの事態が生じているとはいえない」という部分があるので、どうもこのような事態が生じた場合には「平和的生存権」の侵害が・損害賠償の対象になるような被害を生じさせるということのようである。しかし「戦争の遂行等への加担・協力を強制される」というのは端的に憲法18条の保障する「奴隷的拘束」「意に反する苦役」からの自由の問題だろうし、日本が自衛隊を派遣したら日本国内で生命・自由の危機が生じるというのはいまひとつどういう場合かわからない。報復テロが国内で発生しますというような話かもしれないがそれは端的にテロ集団による不法行為であってその損害を填補する責任は第一義的に当該犯行に及んだものにあるわけで、そのような行為に及ぶ動機を日本政府が作ったというのはなんだか俺が校舎のガラスを割ったのは社会と親が悪いのだと叫んで走りだすような話やなあと思わなくはない。
あり得るかなあというのはつまり、日本の武力行使に対抗するために他国が正当な戦争行為の一部として我が国に対する攻撃を行ない、それが「戦争等による被害や恐怖」をもたらすという、つまり第二次大戦における空襲の被害のような場合かと思う。東京大空襲による被害の補償を求める訴訟が起こされていたことを考えると(まあ負けていたわけだが)この点における損害賠償を基礎付ける議論を作るという意味は理解できるのだが、まあしかし我が国が戦争放棄を宣言していることを考えるとその日本に対する「正当な戦争行為」がまず存在し得るかが論点ではあろうし、それで国内に被害が出れば「平和的生存権」が侵害されたことになるが勝ちっぱなしで被害が出なければ補償しなくてよいというのもなんか権利としてスジが悪いようであるというか、その権利が守っているのは本当に「平和的生存」なのか本当は生命権・私的所有権なのかというのも気になるところである。
まあだからこの点をとっても「判例」とするにはスジが悪いというのが率直な印象で、事実認定でそこまで言うなら素直に損害も認定しておき、肯定されるにせよ否定されるにせよ最高裁に送っておけば一定の価値があったのになと思うわけである。もし仮に最高裁でひっくり返されるのがイヤだからああいう書き方をしたと噂されているようなことが事実であるならば、つまらない小細工をしたものだと思うところはある。
念のために書いておくと(3)で指摘したような「反論できない判断」の問題は本来は反論可能性がある下級審だから生じるもので、そこで決められた内容が最終のものであることが制度上保障されている最高裁判所では発生しない。《傍論》で憲法判断することの意義は、従って、下級審と最高裁とでは大きく異なるので、「傍論での憲法判断をやり始めたのは最高裁だから、本件名古屋高裁判決を批判するのはおかしい」(趣旨)と主張している人はそのあたりの差異がわかっていない残念な人だということになるからそのようにな。 (7/15公開)
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勉強になります。
法律は奥が深いですね。うわっつらの基礎知識だけでは,大々的な報道を鵜呑みにしたり,逆に「蛇足判決理論」なんかに騙されてしまいそうです。独力でうちたてたという「理論」を自画自賛してたあの人はこういう議論をどこまで知ってるのでしょうか。
尾崎w
すごく分かりやすかったです。名古屋高裁が名目原告勝訴にしておけばよかったというのは言われてみればその通りですね。結局のところ、下級審の判断が有効な判例となるかどうかは結果論でしかなくて、今後判例が積み重ならない限りは名古屋高裁判決の影響力は分からないということですね。
誤字の指摘
「平和憲法かの」(5の一段落目)→「平和憲法下の」
「自らの判断に自身があったのなら」(4の最終段落)→「自らの判断に自信があったのなら」