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傍論(4)

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以上からは、名古屋高裁判決において自衛隊イラク派遣を違憲と判示した部分についても、それを簡単に《傍論》なので無視できると片付けるようなわけにはいかないということがわかる。さて、ではそれは「判例」なのだろうか。

この問いに対する態度は、大きく二つに分かれる。まず、前述の通り「最高裁判所のするであろう判断」を予測する材料が「判例」であると考え、「真の意味で拘束力があるのは最高裁判所の判例だけだ」(中野他前掲、23頁)と言い切る立場がある。下級審での判断がいくらあろうがそれは最高裁の態度を示しているものとは言えないので、将来を予測する根拠にもならないというわけだ。

この観点からは、名古屋高裁判決などというものには――《判決理由》か《傍論》かに関わらず――そもそも判例としての資格はないということになる(最高裁のものを「判例」、下級審のものは「裁判例」と呼び分けるような習慣も、このような見方を前提としている)。もちろんこれはやや狭い立場だと思われるし、知的財産権のように最高裁判例が少ない(下級審で一応の結果が出ると和解してしまうことが多いので......)分野をよく見ている立場からは下級審判決であっても最高裁の将来の立場を推測する一定の目安になるのではないかとは思う。おそらく著者もそのこと自体はおそらく否定されないので、ただそのようなものに(事実上のものであれ)「拘束力」はない、そういうものを(狭義の)「判例」とは呼ばないということであろう。判決を実際に書く立場の裁判官から見れば重要なのは現下の裁判において自分の下すべき判断がどの程度拘束されているかということだろうから、そのような(事実上の)拘束力を持つ最高裁の判断とそうではないものを分けて考えるという立場に至る理由もよくわかるという気はする。

だがそれは逆に、判決を書くのではなく外部から予測するという立場----紛争の当事者や研究者のもの----に立てば、そのように強い限定を意識する必要はないということでもある。ここからは前述の通り、最高裁を含めた裁判所による・将来の判断を予測する材料になるようなものであれば、(広義の)「判例」と考えても良いのではないかという見解が出てくるだろう。繰り返すが、これはイギリス法のように(将来への拘束となる)「判例」とそうでないものを厳格に区別する必要がない法制だから言えることだ、ということは意識しておいてほしい。「判例」の拘束性を強く考える場合には、なんでもかんでも「判例」になるというような立場を取る余地はないのである。いずれにせよ、その効果を相対的に見るからこそ範囲についても相対的に捉えることができるというこのような立場からは、名古屋高裁判決についてもその外形からただちに「判例」にならないと決めつけることはできないということになろう。

私自身は、すでに述べたように最高裁判決が少ない分野を見ていることが多いし、また自分が判決を書く立場でもないので、基本的には後者の感覚の方が強い。しかし注意しなくてはならないのは、そのように「判例」の範囲を広く取る場合であっても、そこに含まれ得るのは下級審で繰り返されたり、上級審で否定されていないものに限られるだろうということである。たとえば知財高裁で同趣旨の判決例が何度か出ていれば、当事者が上告を断念したり和解で終結させることを選んだりで最高裁判決に至った例がないとしても、おそらく裁判所全体の意見をそこから推し量ることができる。従ってそこに(狭義の)「判例」がないとしても、その根拠となるべき判例理論は読み取れると言えるかもしれない。問題は、単一事例で類似の判断が存在しない場合、複数の事例で判断が異なっている場合、上級審による審判が行なわれていない場合などであり、それらが裁判所の一貫した姿勢を示すものとは評価できない以上「判例」と扱うことはできないということになろう。将来的に同様の事例で同様の判断が積み重ねられて「判例」化してくるか、そちらでは最高裁の判断が下って明確な「判例」が形成されるかもしれず、そうなれば最初の事例も「先行例」とか「先駆的な判例」というように遡って位置付けられることになるだろうが、現在ただいまにおいてはそれは孤立例であり、参照されるべき「判例」とは言えないと、そういうことになる。

だとすれば、問題の名古屋高裁判決についてそれを現在「判例」と考えることはできないというのが一つの結論になるだろう。というのは、それは(1)従来の類似事件における最高裁の立場と異なるものであり、(2)一審判決を覆しているので同一事件内でも「一貫した裁判所の立場」があるとは考えることができず、さらに(3)最高裁の判断を受けていない・受けないように書いたものだからである。

(3)について補足すると、すでに書いた通り、本件判決は不法行為による損害賠償を肯定するための要素のうち(a)権利侵害が(自衛隊派遣が憲法違反なので)存在すると判示しながら、最終的には(d)損害が(賠償するに足るほどには)存在しないとして請求を棄却するという、形式的には原告敗訴のものである。そのため、結論的には勝訴している被告・国には上訴の利益がないので最高裁に対して上告することが認められない。判断に不満な側が・それに対して文句が言えないように・「画期的」な判断をするのはズルいではないかという反感は(特にこの判断を批判する側には)強いようであるし、またそれに故なしとも言えまいと思う。というのは、まあ判決の言う通り大した損害ではなかったと仮定して、しかし多少なりとも損害が存在したのであれば名目的に原告勝訴とする判断があり得たのではないかというのが一点。この点、日本で先行例があるのか詳らかにしないが、アメリカでは名目的損害賠償(nominal damages)と言い、填補すべき実損害はないがどちらが悪かったのかを勝訴/敗訴関係で明確にしたいという場合などに「1ドルの損害賠償」を命じるといったような習慣がある。こういうのでも出しておけば「ねじれ判決」とか卑怯とか言われずにすんだのではないかと思うところあり。どうせ「画期的」なことをやったのならそこまでしても良かったのではないかと思うし、すでに述べた通り先行する下級審判決の主張を最高裁が受け入れることによって判例変更に結びついたケースも多いので、自らの判断に自身があったのならそのように再度判断される余地を残すべきだったのではないかと思われる。終わるつもりだったがやや長くなったのでもう一度だけ続く。(7/15公開)

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