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傍論(3)

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さて、それでは最後に当の名古屋高裁判決(平成20年4月17日)は、ではどのように理解されるべきなのか。同事件は、イラクへの自衛隊派遣が憲法違反であると主張する原告が、(1)そのような派遣によって「平和的生存権」が侵害されたことに対する損害賠償、(2)そのような派遣をしてはならないことの確認、(3)派遣が憲法違反であることの確認を求めて提訴したものである。結論的には、(2)(3)についてはそのような訴え自体が不適法なので却下、(1)については(1A)当該派遣は憲法違反であり、(1B)それにより原告の「平和的生存権」は侵害されたが、(1C)具体的な損害が生じていないので請求棄却という結果になった。このうち(3)は、日本法が抽象的違憲審査制度を採用していないこと(あくまでも実際に紛争が生じた場合に裁判の対象となること)から不適法、(2)は結局防衛大臣の行政権の行使を求めるものになるので民事事件としての請求は不適法、行政事件と理解した場合でも原告に直接的な効果が及ぶものではないので原告適格性がなく不適法ということになった。そこで問題は(1)の損害賠償請求ということになったわけである。

ところで一般的に不法行為による損害賠償請求が認められるためには、(a)権利侵害、(b)故意または過失、(c)因果関係、(d)損害の4要件がすべて揃っている必要がある。逆に言えば請求を退けるためにはどれか1要件でも存在しないことを証明すれば十分であり、それ以上に判断する必要はないということになろう。このように解すれば、最終的に(d)損害が存在しないことを認定しているのであるから(a)(b)(c)についてはYes/Noどちらでも結論に差異は生じないことになり、逆に《判決理由》は(d)に関する部分に限られるはずだということになる。イラク派遣を憲法違反と判断している(1A)は、それにより権利侵害が生じたとする(1B)とあわせて(a)に関する議論なので、このような見方からすれば結論に到達するのに不可欠ではない・不要な言及、法的価値のない《傍論》だと片付けられることになる。

しかしながら、第一に既述の通り《判決理由》か《傍論》か、またその法的効力についてはそう簡単には言えない。第二に判決において個々の論点を議論する順番についても、最後のところで否定しているから前の方の判断が不要だと簡単に言い切れるわけではない。本件で言えば(d)で損害があったかなかったかを判断するためには、そもそも侵害されることによって損害が生じる(可能性のある)権利がどういう性質のものなのか、あるいはそもそも法律上保護される権利として存在するのかといったことを判断しておく必要があろう。従って、「結論に直結しそれを左右するような問題点」に関する判断かどうかについても簡単に・客観的に決められるわけではないということになる。実務家からも「論点の順序は、必ずしも常に明確だとは言い切れないから、そういう場合には裁判所が定めた順序を尊重しなければならないであろう。そればかりでなく、かりに裁判所の定めた判断順序が第三者の目からみれば明らかに誤っていると思われる場合であっても、裁判所がその考えに従って意識的に論点として採り上げた以上は、その順序を尊重して、それに対する判断をやはり「判例」とみるべきだろうと思われる」(前掲中野他、36頁)という見解の方が一般的なようである。この場合、本件でも裁判所が最終的な結論に至る過程で必要だと思って判断した以上それを《傍論》と片付けるべきではないということになろう。

***

実はこの件、私自身も「違憲判断部分は《傍論》とは言えないのではないか」と考えている。もちろん憲法学者ではないので横から見ていて考えた程度のことであるが、本件でもっとも重要なのは「平和的生存権」なるものが存在し、請求の基礎になり得ることを認めた点だと思うからだ。そういうものがあると主張する人は以前からいて、その場合の根拠は直接的には憲法前文の「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」という部分、間接的には9条の戦争放棄と13条の幸福追求権に求められる。本件でも原告は「戦争や武力行使をしない日本に生存する権利」「戦争や軍隊によって他者の生命を奪うことに加担させられない権利」「他国の民衆への軍事的手段による加害行為と関わることなく、自らの平和的確信に基づいて平和のうちに生きる権利」その他の表現によってこの権利が存在することを主張したようである。

この点、従来は当然のように否定的に解されてきたところで、それには(1)国家がどのようにあるかは民主政を通じて国民自身が選択することであり、かつその敗者にも民主政の決定に従う義務があるのだから、結論が自らの信念と相容れないことのみによって(直接的な強制も伴わないのに)侵害される「権利」などを認めるべきでないとか、(2)「全世界の国民が、ひとしく」有する権利を日本国憲法によって・日本国が保障するという構成には基本的に無理があるとか(基本的人権はいずれも基本的には日本国が・日本国民に対して保障するものであり、権利の性質上適用可能な限りにおいて外国人にも適用されるとされていることに注意)、(3)そもそも憲法前文に直接的な権利規定としての意義はないというのが通説なのでそこを根拠にするのはスジが根本的に悪いとか、(4)長沼ナイキ事件(最高裁判決昭和57年9月9日)で否定されているので「判例」の観点からもスジが悪いといったさまざまな理由がある。ここではそれらの点に関する判断は措くとして、しかしこのような従来の判例の立場に立てば判決は「請求の基礎となるような具体的権利は存在しない」で終わりになる。権利がない以上それが侵害されることはないのだから当然に損害も存在しないし、行為の合憲性に立ち入る必要もないということになる。この立場からは、なるほど自衛隊派遣の合憲性を問題にした部分は《傍論》だということになろう。

しかし本件判決のユニークなところは、そこを覆して「平和的生存権」の存在、さらにそれが「裁判所に対してその保護・救済を求め法的強制措置の発動を請求し得るという意味における具体的権利性が肯定される場合がある」ことを認めた点にある。これを認めるとすれば、被告・国の行為がそのような「平和的生存権」を侵害したかを判断する必要が――そうしないとそもそも「損害」の範囲を想定することができないだろうから――あり、そして「平和的生存権」が上記のように日本国が憲法違反の武力行使をしないことを求める権利である以上、自衛隊派遣が憲法上許されている「実力」の行使であるのか、禁じられている行為なのかを決めなくては権利侵害があったかどうかを判断することができないのではないか、だとすればそれは「結論に至るのに必要最低限の法律的判断」としての《判決理由》になるのではないかと思ったわけである。

この点、本件判決直後に新聞に掲載された報道や意見の多くが違憲判断部分を《傍論》と位置付けるなかで、ほぼ水島朝穂氏のみが本件判決の意義は「平和的生存権」が裁判上の請求の基礎になることを認めた点にあると指摘していたこととも通底しており、それを読んだときには私もなるほどとたいへん珍しいことながら思ったわけである。その場合――繰り返しになるが――この違憲判断部分も《判決理由》だということになるだろうが、さてでは当該部分も「判例」であり、そのように扱われることになるのだろうか。次回最終回。

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匿名希望@お勉強中 さんのコメント (2010年7月12日 05:27):

参院選が終わりました。

参院で与党が過半数割れし、衆院でも三分の二の議席がないために、通常の法案は通過しなくなったわけですね。

野党の抵抗で参院で法案が否決される度に与党(民主党)および一部メディアが野党(自民党)をいたずらに国会を混乱させていると批判しても、昨年までは民主党が同じことをしていたわけで、まず相手にされないでしょう。

問題は参議院の衆議院に対する優越性(by佐藤栄作)ということで、一応本格的な政権交代(笑)が起こった今、現行憲法下で初めて参議院の本格的な改革、位置づけの変化を議論する機会を得たということになるのでしょうか。

もしそういった議論が始まるのであれば、日本の政治システムの成熟につながっていくのかなあと、そんなことをぼんやり考えています。

というわけで、こういった面を含めて、今回の参院選のおおや先生の総評をざっと拝聴できますでしょうか。

匿名希望@一言多い さんのコメント (2010年7月12日 06:16):

余談ながら、本当にたいへん珍しいことだと思います。
>某教授

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