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傍論(1)
自衛隊イラク派遣を違憲と判示した名古屋高裁判決(平成20年4月17日)に関連して、「傍論とは何か」という趣旨のご質問をいただく。前に書いたことなかったかなあと思って検索したがないようなので、あらためて一度書いておくことにしよう。こういうのは裁判官か実定法学者の人に書いてもらう方が本当はいいんだろうけどねと思いつつ。
さて「傍論」およびそれと対をなすものとして使われる「判決理由」とは何かというと、順にobiter dictum (オビタ・ディクトゥム)でありratio decidendi (レイシオ・デシデンダイ)である(以下混同を避けるために、この意味で使う場合はそれぞれ《傍論》《判決理由》と書く)。なにを言っているかというと、これらの語が翻訳に基づく概念だということと、その由来はイングランドであるということだ。言語はご覧の通りラテン語だが、日本におけるラテン語の読み方として一般的な古典式やドイツ式、あるいはイタリア式でも、たとえばratioをレイシオとは読まない。これはイングランドで法律用語として使われていたラテン語の発音が日本に入ったものだという由来を覚えておくことが、あとで重要になる。
話を戻す。それぞれの意味については、まず《判決理由》について結論に至るのに必要最低限の法律的判断のように言われ、《傍論》とはそれ以外であると整理される。典型的にはいわゆる朝日訴訟の事例(最高裁判決昭和42年5月24日・Wikipedia日本語版)で、原告が上告後に死亡したのでそれにより訴訟が終了したという判断ののちに、本来の論点であった生活保護基準の合憲性について「なお、念のために......」から始まる長文の判断が示されている例があげられる。この場合、「原告の死亡により訴訟は終了し、相続人による承継は許されない」というのが結論を導くために必要最低限な判断であり、それだけで結論が決まってしまう以上、そもそも訴訟が起きた原因である生活保護水準が憲法に合致しているかどうかということは、どちらでも結論に影響を及ぼさない。だからそれは《判決理由》ではなく《傍論》だと整理されるわけである。
ここから、判例としての拘束力を持つのは《判決理由》のみだ、だからたとえ判決文の中に記載された判断であっても《判決理由》に含まれない部分に判例としての価値はない、今後の裁判においても無視して差し支えないといった言い方がしばしばされることになる。前者が「法律的判断」とされるのは、たとえば証拠からどのような事実を認定するかといった事実に関する判断はもともと事案ごとに違うはずなので先例になるはずがない、先例と現在の事件を通じて繰り返される可能性があるのはあくまで法解釈に関する判断だという見方に基づく。そして、そのような点に関する判断が《判決理由》として示された場合にはその結果にそれ以降の裁判が拘束されるはずだという見方が、そうでない部分を《傍論》と呼んで軽んずる態度の前提にある。
さて、ではそのような見解は正しいのだろうか。
第一に注意すべきなのは、なにが傍論か形式的には判別できないということである。判決の原文を見てもらえばわかることだが、日本の判決文は「主文」と「理由」(または「事実及び理由」)から成り立っている。このうち「主文」は、たとえば「原告に金◯◯円を支払え」という結論のことであり、狭い意味で法的効力を持っているのはこの部分に限られる(というのはたとえば強制執行の対象になるのはという意味だが、当たり前で「事実及び理由」を強制するというのはどういうことかわからない)。一方「理由」「事実及び理由」というのは、両当事者の主張を整理した上で裁判所の認定した事実と最終的な判断に至った理由を書く部分で、つまり《判決理由》も《傍論》も形式的にはここに含まれることになる。だから、「ここからここまでは傍論ですよ」というのが判決文に形式上示されているわけではない。
補足しておくと「なお書き」と呼ばれる部分が「理由」のなかにある場合もある。「当事者の主張を「刑訴法405条の(または「適法な」)上告理由にあたらない。」といってしりぞけたうえ、それに続けて「なお......」という書き出しでその主張に対し実質的に否定的な判断を示している」(中野次雄他『判例とその読み方 三訂版』(有斐閣2009) 37頁)ようなもので、これはすでに結論を(その理由も含めて)示した上で書かれるものなのでまさに《傍論》であって「判例」にならないという立場もある。しかし、刑事事件においては適法な上告理由にあたらなくとも実質的な理由があり・原判決に違法があり・放置することが著しく正義に反する場合には原判決を破棄する必要があるので(刑訴法411条)、そのような事情はないことをこの「なお書き」で確認しているのだと考えれば結論を左右するポイントだということになる。最高裁もこの「なお書き」部分を「判例」として扱っている(刑法240条後段・243条に定める強盗殺人未遂の罪が強盗の機会に人を殺害しようとして遂げなかった場合に成立することについて、最高裁判決昭和53年7月28日は最高裁判決昭和32年8月1日の「なお書き」を判例としている)。
つまり、どこが《判決理由》でどこが《傍論》かというのは判決が出たときに決まっているわけではなく、あとからその判決を読んでそれを先例として扱おうとかそれはやめようと考えたときに決まってくる、判決を読む側が読み取っていくようなものだということだ。従って先行判決の特定の部分を《判決理由》だと考えるかどうかということ自体が法律上の判断であり、それを最終的に決めるのは後続事件の判決のみ、その判断に影響を与えたり与えなかったりするのは実務家や研究者が判例評釈や論文によって提案していく先行判決の理解や位置付けだということになる。この点が実は次の問題に関わってくる。この項続く。
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