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アテネ民主政(2・完)

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二つ目は世襲について。著者は「民主政の進展にともなって世襲制を打破していったアテネの政界の歩みは、世襲議員の跋扈が問題視され、国会議員の世襲制限の是非が取り沙汰されている現代の日本の政治のあり方を考えるうえでも、示唆に富むように思われる」と、まあこれはやたらと「現代的意義」とかを問う人がいるので書いてみたのだろうなあと思うのだが、書いている。で、「政治の世界においては、優れた人材の新規参入の機会を阻み、公平に競い合う土壌を失わせて政治の劣化を招き、ひいては、社会の閉塞感を増し、社会全体の活力を奪ってしまうことになりかねないというデメリットも大きいのである」という話になり、まあこれはこれ自体としてはある程度その通りなのだが、だから(アテネ的に)陶片追放であるとか、最近も議論されたように世襲候補者の立候補の制限だという話になると第一には憲法上の職業選択の自由との関係をどう考えるかという問題になるだろうし(従ってこちらからは憲法の直接適用がない中間団体としての政党が独自のルールとして世襲制限を導入するのはご自由ご勝手だということになるわけだが)、第二にそれ頭のいい規制かなあ(規制目的と帰結の一致という意味でね)と思うわけである。

だってその、「前五世紀のアテネの名門貴族のような、閉鎖的で排他的な特権集団である世襲一族による世襲政治がクローズアップされる日本の現状」と著者は言い、まあその庶民出身の官僚あたりを娘婿にして継がせるというルートがそれなりにある時点で前提自体に一定の疑念はあるわけだが(というのは日本企業が家族的経営をやってるんじゃなくて日本の家族形態がそもそも企業的なんですという日本法制史とか日本政治思想史からの指摘にも関係してくるところなのであるが)、まあそれはそれとして、でも「世襲」政治家のなかにも「達成」の観点から評価してできの良い人とできの悪い人がいるわけですよ。前者を「世襲だから」という理由であらかじめ排除してしまえば、残った「非世襲」の政治家の平均能力が排除前より下がる、という可能性だってあるわけで。

さらに言えばもちろん問題は「世襲」の定義で、たとえば親と同一の選挙区から連続して出馬したという基準ならば麻生元総理も鳩山前総理もセーフになってしまう。秘書か誰かを中継ぎに立てるとか、別の有力政治家の息子と一期だけ選挙区を交換するとか、いくらでも回避策は考えつくので、逆に言うとそのような回避手段を講じることのできる有力政治家の子供は実質的なダメージを受けず、地縁・血縁の薄い(たとえば)共産党国会議員の子供だけが現実的な職業制限の効果を受けることになってしまうだろう。かといって「親が議員だったらダメ」のように広範で回避不能なルールにすれば、今度は制限する範囲が大きすぎて政治セクター全体が優秀な人材のリクルートに失敗する可能性が出てくる(というか、いまどき政治家の身内以外で政治家になろうと思う人ってどのくらいいるの?)。

そもそも問題は「世襲」政治家のなかには優秀なのも無能なのもいるということであり、かつ事前にその能力の有無を判定するのは相当難しいということだろう。学歴ひとつ取っても、東大を出てアメリカで博士号を取りながら「抑止力」の意味ひとつわかっていないような政治家子弟もいれば、東大にも入れず慶応の院にも進めず司法試験になんどすべったって大幹事長と呼ばれるようになる子弟もいるわけである。あるいは、ろくな大学も出ていない世襲のボンボンかと思われていたら意外と国会質疑ですら堂々と受け答えしていてあら、ということもある(これは想像のつく通り小泉進次郎氏のことであって、少なくとも私は最近の報道などから見る限り彼が政治家としての能力の半面において極めて優秀なのではないか――同じ選挙区の東大卒弁護士などと比べて――と思うようになった。このことはまた書く)。だとすればその評価というのは事後に行われる方が適切であり、そして政治家に対する事後評価の実現手段が主として選挙によることを考えれば(どんなにマスメディアなどが悪評を流したって選挙で票が集まれば政治家としてい続けることができるわけであるから)、一部の潜在的候補者を「世襲」という形式的要件によってあらかじめ排除してしまうことにより対抗馬の流入圧を下げてしまうのはおろかだよねえと思うわけ。

むしろ我々が実質的な選択の自由を享受できるようにするためには政治セクターへの流入圧を高め、その反射的効果として退出への淘汰圧を高める方が望ましい。だとすれば、「世襲」政治家が多いことを問題だと感じたとしても、とるべき対策は「非世襲」人材が政治セクターに流入しやすいようにすること・その流入を妨げている要素を除去することで、「世襲」の排除ではないよねえと思う。繰り返すが、「世襲」の排除には憲法上も問題がかなり大きいのに対し、「非世襲」の促進はそうでないことにも注意。

だからまあ、陶片追放というのも世襲排除策としてはスジ悪なのであって、ここでも著者の見解には賛成できないなあと思った。もちろん著者自身は本編で陶片追放制度の本来の意義はおそらく有力者家系同士の対立を一定程度に馴致すること(流血沙汰にまでエスカレートさせないこと)にあったのだろうという意見を強調しているので、この点が本書本編の価値に大きく影響をおよぼすものでないこと、前述の通り。

***

あ~あと、この月の同じシリーズからは刑部芳則『洋服・散髪・脱刀:服制の明治維新』(選書メチエ、講談社、2010)も読みました。普通に面白かった。面白いところに目をつけたなあという本で、ただ先行研究が乏しいことを筆者は強調していたがもしやこういうのは家政学部で研究してた人がいやしねえかと、素人としては思った。服飾史って、そっちに多いんじゃないかな日本だと。(というのを書いてからしばらく放っていたら(いや校務で尋常でなく忙しくてですな)そのあいだにこのご本をいただいてしまいました(著者からではない)。ありがとうございます&すいません、さっさと公開しておけばよかった)

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