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異世界通信
私の『法解釈の言語哲学』という本はお互いに同じことをしているつもりで振る舞いも一致しているので安心していたらある日突然実は全然違うルールに沿って行動していたことが発覚するかもしれませんよという、まあ我ながら神経症的な問題を扱ったものなのだが(*)、こういう文章を見るとやっぱり日常的にも異世界言語を喋ってる人と接触してるんじゃないかなあという気がしてくるわけです(挨拶)。「サンデー時評:「ヒトラー呼ばわり」をめぐって」(毎日jp・ウェブ魚拓)。なんか「鳩山由紀夫首相は失言、放言がほとんどない」んだって。ふ〜ん、ほ〜お。
まあもちろん問題は「失言、放言」の定義に依存するわけであって、漢字の読み間違いや事実に関する不正確な発言(カップラーメンの値段とかな)だけが「失言、放言」であると定義されれば、うんまあ確かにあまり鳩山氏の発言にはその種のものはないのかもしれない。普天間基地問題をめぐる発言の変遷とか、政治資金問題をめぐる過去の発言と現在の対応の齟齬とか、相手がやれば「強行採決」で自分がやったときは「野党の審議拒否」かとか、まあいずれも上の定義の「失言、放言」には入らないような気はする。
ところでこれは別に単なる皮肉ではなくて、つまり読み間違いや事実に関する誤りというのはその時点のみで判定されるものである。ある特定の時点の・一つの発言が言語的な規範とか事実(として社会が認定しているもの)に合致しているかどうかが問われているわけだ。
これに対して、鳩山氏に関してつらつら挙げた例というのはそうではなく、通時的な首尾一貫性(integrity)の問題である。異なる二時点(あるいはそれ以上)における発言・行動を対比したところ、それらが整合性を持っていないというのがこれらの例の特徴である。
さて、しかし後者のようなものを「問題」だと措定するためには、以下三つの前提が必要となる。第一に、時間の流れとそのなかを貫通して存在すると想定される「主体」の観念があること。第二に、従ってその「主体」の言動は過去・現在・未来を通じて一定の整合性を有していなければならないと信じられていること。第三に、その上で過去と現在の(あるいは過去の異時点間の)言動を比較するための記憶ないし記録を持っていること。ここで、その「記録」の技術が拡大・進化してきたことによって、そのような技術を使える人にとっては後者の「問題」を指摘する可能性が増大したことも指摘しておくとよいだろう(具体的には「鳩山VS鳩山」動画とかな。参照、「【ネット番記者】ブレる政治家の火種」MSN産経ニュース)。
仮にいま、「過去」とか「未来」の感覚、あるいはそれらを一貫して「自我」を持った「主体」がいるという感覚を持っていない人がいたとすれば(このような人を、ウィトゲンシュタインのひそみにならって「時間盲」と呼んでもいいかもしれない)、そのような人は前者のタイプの問題を指摘することはできるだろうが、後者を問題として認識することはできないだろう。それはたとえばネズミが、そのときどきの(必ずしも肉体的なものに限られない)快苦には適切に反応しながら、おそらく過去の想起や将来への予期といったものとは無縁に生活しているだろうのと同じことである(**)。そしてもちろんネズミだって日々を幸福に送ることは(条件さえ適切に整っていれば)できるのであり、だから我々人間も人格のごときものに拘泥するのは止めてしまえばいいのではないかという議論も出てくるわけであるが、そのことはひとまず措く。
まあ要するにポイントは、鳩山氏の言動が「問題」にならない条件は何かということであり、つまり先ほど挙げた三条件を欠いた人というのが相当な数いるのか増えているのか、まあそういうことなのだろうなと思うわけである。記憶能力のない人とか、幸せそうだよね。
ところでその、上に挙げた記事には「官僚たちが(......)答弁能力を買っていたのは、岸信介、福田康夫、宮沢喜一の三人だった。三人とも、上手というよりはソツがない。高級官僚出身で頭脳明晰、言葉じりをつかまえられることがなかった。」という一節があるのだが、これについては従って岩見隆夫の「失言、放言」であるということでよろしいか。高級官僚出身だったのはお父さんの福田赳夫氏(大蔵省)で、福田康夫氏は丸善石油ですな。毎日新聞についてはかつて「英語ではなく日本語の・ウェブサイトでなく紙面に関してもまともな品質管理が出来ていないことを露呈した」(「新聞の評価」)と評したこともあるが、日本語のウェブサイト・週刊誌のいずれについても品質管理が出来ていないことがさらに判明したと、そういう評価でよいのではないかと思う。(11/28公開)
(**) と私は思う。ただネズミの行動をずっと観察したことはないので、「彼らにも自我はある」と言われて反論する気はない。個人的な偏見として言えばネコやイヌは予期的な人格をある程度は持っていると思うが、前者にとっての首尾一貫性というのは人間に守らせるものであって自分が気にするものではないのではないかという気もする。
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