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「知の加工学」
というわけで、九州大学大学院比較社会文化研究院主催シンポジウム「「日本的なもの」の再評価:「知の加工学」の視点から」というのに呼ばれたので喋ってきました。大屋雄裕「法整備支援と日本の経験」(パネルディスカッション)(主催・九州大学大学院比較社会文化研究院「日本研究プロジェクトチーム」、後援・福岡市、福岡市教育委員会、福岡市文化芸術振興財団)。会場は西日本新聞会館の福岡国際ホールというところで、行ってみたら大丸の上なんですな。天神の真ん中にある本当に良い場所なんでちょっとたまげましたが。ちなみにこれは会場の隣ぐらいに新しくできたらしいエルガーラというビル。そうか三人目か(謎)。
全体的なテーマというのがつまり、さまざまなものを受け入れた上で組み合わせたり改良したりして新しいものにしていく力というのが日本の特徴なのではないか、そういう要素を「知の加工学」として積極的に定位し、分析していこうという話であったようです。そこでまあ私としては、現在日本が進めている法整備支援のあり方というのをまさにそのような「知の加工」の実践と伝達として理解することができるし、それは明治期において我が国が進めた近代の自覚的確立という経験に由来するものなのだろうという話をしてきたわけです。
でまあそういうことを言いつつ、そういう営為に携わる人材に必要な能力はなんだと思うかと聞かれて「外国経験と英語能力」と答えるあたりがこう我ながらヒネてるよなというか、しかし加工者に必要な条件ってあらゆる対象に自己同一化しない冷めた・相対的な視線というか、detouchedな態度だと思うわけです。たとえば私自身、仕事でどこの国に行ってもそれなりに適応しているというか、物理的条件を除けばあまり食事にせよ生活慣習にせよ困ったことというのもないわけですが、その一つの理由は端的に私がデラシネだからだよねと思うことはあり。結局どこに行ったってよそ者なんだからたいして変わらないと思うんだよね。
ただその一方で、行った先でそれなりに生存の条件を確保する必要というのはあるし、特定の文化・信念に自己同一化しちゃって微塵も疑わない人というのと戦って相対的視点の優位性というのを納得させる必要というのもあるわけで、そのためには相手とコミュニケーションする力というのが必要になってくる。それでなぜ特に「英語」かというとそりゃ現実問題として相対化せずにふんぞり返ってる連中には英語話者が多いからいやいやいやいやそうじゃなく真面目な話として結局de factoにlingua francaになっちゃってるからですよね。それを変えていこうとしてもそのためには英語での情報発信というのが必要なわけでさ。まあとにかくそういうわけで英語が「使える」(文法が正確だったり発音が美しかったりすることは二の次としてな)というのはむしろ日本文化の独自性とかを主張するなら余計に必要なことだという気はするわけですよ。
あ〜念のために言っておくと、私自身は「知の加工」的な手法が日本にはかなりあったよねえとは思っていますが、日本だけにしかなかったとか、それが我が国独自の精神性につながっていてとか主張する気はねえです。つうかそれは、常にそのときどきの先進国・大国の影響に脅かされつつ、しかし幸いなことに直接的な侵略と同化からは一定の距離を持てていたという物理的な条件の影響のほうが強いんじゃないかねえと思っており、まあ結局のところ私自身は極めて典型的な近代主義者だと、そういうことであろうかとおもうわけです。
ちなみに日程の余裕がまったくなかったので----前日はほぼ確実になる演習が5限にあり、翌水曜の午後には大学にいる必要があった----めずらしく飛行機で往復するハメになったわけですが、それでも夜には懇親会で水炊きをご馳走になり、水曜の朝には空港でうどんを食べて帰ってきました。おいしかった。明太子と高菜漬けを買い込んだことも特に驚くには値するまい。このぐらいしかいま追求できる趣味がねえんだよということで、ひとつ。(11月14日公開)
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シンポジウム見てました。
面白い内容だったので浮き浮きして帰りました。
現在の日本の在り方に疑問を感じていた私の心はやや晴れやかになりました。
これからも「知の加工学」、機会があれば伺わせて頂きます。
貴重なお話ありがとうございました。