前の記事: 現代と中世の借金(3) << | >> 次の記事: 現代と中世の借金(5)
現代と中世の借金(4)
さて、前回引用した著者の文章は以下のようなものであった。
問題は、ここで引用されている「売買は賃貸借を破る」(Kauf bricht Miete)という原則の理解にある。
もともとそれはあくまで、賃貸されている不動産が第三者に売却された場合の・賃借権と(新所有者の)所有権の優劣関係を論じるという、ごく限定的な場面を想定したものである。つまり、
- AさんがXさんから不動産を賃借していたところ、
- Xさんが当該不動産をYさんに売却した場合、
- Yさんが取得したのは当該不動産に対する所有権(物権)であるのに対し、Aさんが持っているのは賃借権(債権)というXさんに対する権利なので、AさんはYさんに対抗できない。
という意味の法諺であった。そしてこの原則が導かれる背景として、物権が絶対的(相手を問わずに主張できる権利)であるのに対し、債権は相対的(特定の相手(債務者)に対してのみ主張し得る権利)だという議論が展開されることになる。
だが第一に、たとえば上記の例でYさんが所有権を根拠にAさんを立ち退かせた場合、AさんとXさんのあいだの不動産賃貸借契約ではXさんの債務不履行が生じることになるので、AさんはXさんに対して損害賠償なりを当然に請求し得ることになる。Aさんの賃借権が保護されないとしても、それは物権の持ち主であるXさん・YさんがAさんに対して優越的な地位にあり、好き勝手なことをできるという意味ではないのである。
第二は、このような場合の賃借権は一定の条件下で保護されてきたという問題である。上記の通り、賃借人が新所有者から立ち退きを要求された場合は前所有者に対する債務不履行責任が追求できるのだが、しかしいずれにせよ突然立ち退きは強いられるわけだし、前所有者が無資力の場合など現実的には救済が得られないことも考えられ、これが賃借人にとって過酷な状況たり得ることは認識されていた。そこで民法上は賃借権の登記を認め、それにより新所有者に対抗できるよう定めている(民法605条)。この登記がなされていれば、新所有者は賃貸契約の存在を認識しながら所有権を取得したという言い分も成り立つので、契約満了まで立ち退きを強制することができないことにするという趣旨である。
ところが、このために貸主は賃貸借契約の登記に消極的になった。立ち退きの強制できない賃貸借契約がくっついていることがわかれば当然ながら当該不動産の価格は低下するだろうと思われるので、これは合理的な行動である。かといって、賃借人の側から登記するよう貸主に強制することも認められないと判例で示されたので、実質的にはこの賃借権の登記制度はあまり機能しなかった。そこで、特別法としての借地借家法が作られることによって賃借権の保護が図られることになったわけである。ここでも繰り返し、賃借人の権利と安全を守るための措置が近代法の枠組のなかで取られていることを確認しておきたい。
なお付言すると、借地借家法以外に賃借人を保護するための制度として、民法に短期賃借権制度の定めがあった。これは、抵当権が設定されている不動産に対して短期間(家屋3年以内、土地5年以内)の賃貸借契約を結んだ場合、その不動産が抵当権の実行によって競売され、所有権が移ったとしても、賃貸借契約の存続期間は立ち退く必要がないという制度だったが、2004年の民法改正で廃止された。なぜか。占有屋に悪用されたからである。
債務不履行に陥った不動産の所有者が、たとえば抵当権の持ち主である銀行だけでなく、良くないスジからも資金をつまんでいたとしよう。そういう金融業者は抵当権を設定していないか、できたとしても後順位なので、競売の配当を受けることは望めない。もちろん旧所有者は破綻しており、そちらから債務を回収することも望めない。そこで、回収を止めてやる代わりに旧所有者に協力させ、抵当権実行以前に賃貸借契約が成立していたかのように偽装するのである。旧所有者にすれば自分の財布が傷む話でもないし、それで催促がやむのならと思って偽造に応じる可能性は十分ある。そこで当の不動産を占有し、短期賃借権を口実として立ち退きを拒否し、高額の代償を要求すると、まあそういう手口。
これは結局、債権者・債務者といっても前者が強者・悪で後者が弱者・善と決まった話ではないというだけのことなのだが、後述するように、おそらく著者にはそのような理解がそもそも欠落しているのだろうと思われる。
さて、だがそもそも出発点として、我々は著者が述べた「質流れの物権は債務者の同意なしに自動的に債権者のものになった」という関係のどこに賃貸借が出てきたのかを問題にすべきではないだろうか。質流れの話をしていたのだから、動産・不動産を質に入れてカネを借りていた事案、つまり(現代の言葉で言えば)金銭消費貸借契約が問題だったはずである。それが返せなくなって質物を取られるというのは担保契約の話である。その質物が売られた売買契約との優劣関係を論じるとして、その対象はあくまで担保契約か、あるいはそれを含んだ金銭消費貸借制度の行政的規制の話にしかならないはずだ。いったい、どこから賃貸借契約が出てきたのか。その点について、著者の以下の記述を見てみよう。
ここで著者は、まず「売買は賃貸借を破る」を「売買は賃借権を破る」にすり替えるのだが、これは表記としてはともかく内容的にはさほど違いをもたらさない。だがすぐに著者はここから「売買取引は貸借取引に優越しえなかった」と結論を飛躍させてしまう。
そもそも、「古代・中世社会では、売買した商品の代金でも売掛・買掛として債務債権関係になっていた」とあり、何が言いたいのか明確ではないが現代でももちろん売買の代金は債権債務関係である。一般的に売買とは、当事者Aが品物Xを反対当事者Bに引き渡す債務を負い、その代償として反対当事者Bが代金Yを当事者Aに引き渡す債務を負う契約のことである。このうち後者の部分が(Aから見れば)「売掛」(Bから見れば)「買掛」ということになろう。八百屋の店頭のような場面では前者の履行(品物の引渡)に続いてただちに後者が履行され(代金の支払)、両者ともに消滅してしまうのでそれが二つの債権債務関係であることはあまり意識されないが、通信販売で代金先払い振込のケース(後者が先に履行され、前者が残る)、あるいは品物に同封された振込用紙で支払うケース(前者が先に履行され、後者が残る)を考えれば、債権者・債務者の関係が逆になる二つの関係がそこに存在している(と法的には観念されている)ことは理解しやすいだろう。
この記述にも示されているように、特に売買のような双務契約においては双方当事者が債務を負いあうので、どちらかが一方的に債権者で他方が債務者という関係にはない。当然ながら、どちらかが善でどちらかが悪というものでもない。債権者・債務者という位置付けはあくまで流通するカネ・モノ・権利に相対的に決まるものに過ぎない。もう一点、著者は
と書いており、やはり何を言っているのか理解しがたいのではあるが、文脈を追うと金銭消費貸借という債権関係が原因で借主の所有権という物権が奪われる結果になるのはけしからん、物権が債権に優越しているという話らしい。しかしすでに述べた通り、借主の所有権が奪われるのは担保契約の結果であり、担保契約は物権である(正確にはモノの流通価値を担保とする物的担保の話であり、人的担保である保証は入らないが、ここでの議論は一貫して物的担保に限定されている)。とりあえず現行日本民法典において、典型的な約定担保物権である質権・抵当権が第二編・物権の第九章・第十章で規定されていることを参照せよ。だからこそ抵当権は登記され誰からも確認できる状況になっていることを前提として、第三者を含むあらゆる相手に対して主張することができるわけである。要するにここでは、所有権が物権でカネの貸し借りが債権だという程度の極めて曖昧かつ不適当な理解に基づいて議論が進められているのだ。
結局のところ著者は、物権と債権の違いも債権と債務の関係も十分に理解しないまま、おそらくは無意識のままそれらの意味内容を操作することによって自分の望むような結論を引き出しているのだということができよう。そのような分析に学術的な価値が一切ないことは、言うまでもない。
Trackback(0)
このブログ記事を参照しているブログ一覧: 現代と中世の借金(4)
Write Your Comment