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現代と中世の借金(3)
すでに序文において、現代社会や法制度に関する著者の知識水準には深刻な疑念が呈されたところであると思う。著者は、中世文書から利息や質に関する法令、そしてその背景にある法理念を読み解いていったうえで、それが現代のものとまったく異なっていると主張しているのだが、比較対象である現代の姿を見失っている比較に何の意味があるのかという問題があるだろう。以下では、著者が現代の法制度を正確に捉えていない箇所をさらに指摘していく。
まず小さめのネタとして、文書質をめぐる問題。
第一に、土地登記制度がまだ成立していない以上、債務が確実に履行されるようにするためには担保の現物を押さえるか、それに代わるだけの実効性がある証書を押さえる必要があるだろう。現在のように、「担保に入っている」という事実が公示されている(日本では公信力はないとされているが)状況とは違い、質券以外に権利の存在を証明するものはないのだから、それが大切にされるのは当然だと言うべきだろう。
第二に、実は著者が指摘するのは逆に、日本法は諾成契約(両当事者の合意のみによって成立し得る契約)の範囲がかなり広い比較法的には例外的な法制だと言われている。具体的に例を挙げると、少なくとも民法上売買契約はすべて諾成であり、価額がいくらになろうと書面の作成も対象物の引き渡しも契約自体の成立には不要であるとされている。この点、たとえば英米法諸国では「詐欺防止法」(Statute of Frauds)と呼ばれる法律が広く制定されており、土地に関する権利の譲渡を目的とする契約や一定の価額を超える動産の売買については当事者が署名した契約書がない限り当該契約の履行を強制することが認められない。境界線となる価額も統一商事法典(Uniform Commercial Code)では長らく500ドルであり、諾成契約が強制し得る範囲は狭いものだったと言うことができよう。また、多くの国では公示などの手続を要する婚姻、裁判を必要とする離婚についても当事者の合意のみで完全に成立するとされている点も挙げることができる。
法律はともかく実際の人々の行動はどうかというならば、ある弁護士さんが論文の中で日本の著作権周辺で起きているのは法律問題ではなく契約問題だと指摘していたことが思い出される。つまり、法律の規定が云々よりも、権利の所在なり取引なりを法律に基づいた契約として明文化していないことが諸悪の根源だと、そういう話なのであった。実際我々は、「継続的取引関係なのでいちいち契約書は作りません」とか、作っても「誠実に話し合いで解決する」とか書いておけばいいんだよねえとか言っては欧米からぎょっとされてきた生き物なのであって、むしろ文書での契約をあまり重視してこなかったというのが通説であろう。もちろんただの口約束と書面のある契約のどちらをより信じるかといえば後者だろうが、そんなん世界中どこだってそうなわけで。
続いて、質権・抵当権をめぐる問題。
中世人の社会常識では、質物はいつまでも質物であり、双方の合意がない限り物権は移動しない。いいかえれば、債務者の権利保護の意識が近代社会よりもはるかに強く、債務者と債権者の合意が第一義的に重視された。(140)
現代日本法でも質物を債権者が直接自己のものにすること(直流れ)は禁止されている(民法349条)。例外は商人間の関係である商事質の場合(商法515条)と質屋営業法に基づいて許可を受けた「質屋」の場合のみであり(質屋営業法19条)、もちろん一般的には後者の「質屋」がよく知られているから著者が描いたようなイメージが出てくるのだが、法律上はあくまでそれは例外であり、かつ行政的な規制を前提にして認められているものに過ぎない。民法上の質権については、債務不履行が生じた場合競売によって換価し、そこから債務の弁済を受けるというのが原則である。動産の場合は「正当な理由がある場合に限り、鑑定人の評価に従い質物をもって直ちに弁済に充てる」(民法354条)ことが認められているが、あらかじめこの請求をする旨を債務者に通知する必要がある。
事情は抵当権についても同様で、債務不履行が生じた場合には競売によって換価し、そこから債務の弁済を受ける。落札価格が抵当額に満たない場合は差額分の債務が残るし、逆に上回る場合には差額が債務者のものになる。いずれにせよ担保制度とは「借金が払えなかったらこの土地は俺のものにする」という、著者がイメージしているようなものではないのである。
もちろん、質権の場合の直流れを禁止した民法349条の反対解釈によって抵当権では債務不履行の場合に直接(競売によらず)目的物を移転させる特約は有効であると解されていたし、同様の趣旨を代物弁済予約(民法556条・559条)によって実現することも可能であった。債務額に対して非常に大きな価値を持つ不動産を代物弁済予約で押さえ、不履行を理由としてすべて持って行ってしまうという問題がなかったわけでもない(抵当権であれば前述の通り競売にはかけられるが、超過額は債務者に戻される)。しかしこの危険性についてはすでに抵当権の場合と同様の清算義務や受戻権が判例によって認められてきており、さらに仮担保登記法(昭和53年法律78号)の制定によってそのような措置が立法的に追認されるに至った。結局、著者の担保関係に関する理解には正当な根拠がないのである。
さてでは、なぜそのような問題が発生するか。次回は、先ほどの文章に引用されているある法諺の理解を鍵にして、その理由を探りたい。
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NHK教育の「知るを楽しむ」で、
この方がお話になるようです。
今日、本屋に行ったらテキストが出てました。
あと、アマゾンでは高評価ですね、本書。
Wikipediaの井原氏の項目に早速追記されてますね。なんだかなあ...
TK氏もお書きのように、この著者がこの手の話をNHKでするようです。
おおや先生が指摘している点については、
阿呆な人間が阿呆なものを書いたということですませることもできましょうが(いやできないか)、
天下の国営放送が(恐らくこの本を読んで)番組に起用したのだとすれば、
著者よりもNHKのリテラシーに強い疑問を覚えずにはいられません。
これは深刻な問題だと思います。
歴史書の問題意識をこのような角度から批判ができるとは…
歴史学の存在意義を問い直すとき、歴史は現代社会の抱える諸問題をうつす鑑であるというような立場からかんがえます。これは私個人の考え方ではなく、広く歴史学者がとる立場です。もちろん全員が、とは言いませんが。
この本の著者も、そのような立場から自分の研究に何らかの意義を持たせようと考えていたに違いません。しかし、残念なことに、歴史以外のことにほぼ無関心(としか思えない)であったため後付けの理由が破綻してしまったということでしょう。アマチュアでは同じような人をたまに見かけますが、歴博の教授がなぜ??今は唖然とするばかりです。ほしい本リストに入っていたものだっただけに、歴史以前の問題でだめだし食らっている様子を見ると本当にがっかりします。
自分も何かの折にはこの様にならないよう気をつけたいです。
ようやくすこし余裕が出たので全レス。
>TKさん
ども。まあアマゾンの書評は結論が好きな人が書いているのだと思います。そういう読み方は、まあ実在しますよね。学問とは関係ないですが。
>treeさん
仕事速いですねえ。>誰か
>匿名希望さん
私もまあ正直頭痛いなあと思いますが、やはり結論の好きな人がいたのだろうと思います。教育テレビは良い意味でも悪い意味でも趣味に走る人がいる、という話は聞いたことがありますが。
>幸時さん
ども。昨今はどこにいっても「研究の意義」とかを問われるようになって困っているのですが、応用には応用の仁義とか作法とかいうものがあるので基礎の人に安易に踏み込まれても困るよなと思うことはあるのです。中世における借金のあり方という研究テーマは非常に興味深いと思うのですが(だからちゃんとお金出して買ったんですけど)、正直に言えば応用をナメるからこういうことになるんだとは言いたいところがあり。我々には我々で、チベット語や満洲語を読むよりも大切なことがあるんですよ(謎)。
本当にでも、出版前に法学部の人間と一度まともに話すれば良かったのになあと思うと、惜しいですね。