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現代と中世の借金(2)
さて前回の続きだが、まだ序文の冒頭だということに絶望しないでもらいたい。闇はまだまだ深いのである。今回は、主に法律をめぐる問題について。
第二の社会常識は、債務不履行は自由契約の原則に反する。債務不履行の場合には、抵当・担保が質流れになって清算され、債務の返済がなされなくてはならない。返済は絶対の義務である。
第三の社会常識は、自由契約での貸借契約がつづくかぎり、利息制限法の下でも利子は無限に増殖するので、債務者はどんなに巨額になっても返済しなければならない。
以上の原則から成り立っている近代債権論は、債権者の権利保護を優先しており、債務者の免責はなきに等しい。(3)
まず「第一の社会常識」について、私的所有権絶対といっても公用収用は認められていると指摘することができるが、補償がなされるので所有権は守られていると言い返されるのかもしれない。財産的価値しか保障されない権利のどこが「絶対」なのかと思わなくもないが、さらに権利濫用を明確に否定した宇奈月温泉事件(大審院昭和10年10月5日判決、民集14巻1965ページ)を挙げておくべきかもしれない。民法1条1項が明確に述べている通り、「私権は、公共の福祉に適合しなければならない。」というのが(もちろんその「公共の福祉」の内容が問題なのではあるが)現代民法の大原則である。なお贈与とか相続とか時効取得とかどこ行ったのとか指摘するのはすでに野暮であろう。
「第二の社会常識」については、議論はあるもののアメリカ法では「契約を破る自由」が認められていると言われていることをまず指摘しておこう。債務不履行とは「債務の本旨に従った履行をしないこと」なので、そのなかには「履行できないこと」もあれば「できるけど何らかの理由でしないこと」も含まれるのである。そしてもちろん後者の場合にその代替となる損害賠償の支払能力がないとは限らないし(例としては、行為としての是非はともかくプリンスホテルの日教組に対する会議場貸し出し拒否の事例を想起すること)、前者の場合にも一定の要件下で「事情変更の原則」の適用が認められ、契約通りの履行を強制されない事例が発生し得る。この点は「債務者の免責はなきに等しい」という結論部にも共通するのだが、要するに近代民事法の内容を何も知らずに書いていますということの自白そのものだと言うことができよう。
「第三の社会常識」については、まあおおざっぱにはその通りだということを認めてもよいが、契約自由の原則がある以上、別に当事者がそうしたければ一定額で利子の増加が打ち切りになる金銭消費貸借契約を結んでも構わないのだがとは指摘できるだろう。というか質屋さんのご商売というのは基本的にそういうものであり、最終的には質物を失うことで利子の増加も本来の債務の返済も免除されるわけである。この点、実は後述する中世の借金に関する理解にも関連してくるので、記憶しておいてほしい。
......まあその、法律学の世界では「正月」とか日時表記に使わないんだがというのもあるが(およそ現代生活一般においてそうだという気もするのだが)、昭和39年から44年に至る一連の利息制限法関連最高裁判例はまるごと無視ですかとか、いっそすがすがしいほどの無知さ加減が味わえる一品である。上掲平成18年判例が「日本で初めて債務者を保護する必要性を認めた司法判断」と言われると、形式的には任意に支払っているために(利息制限法1条2項より)返還請求ができないはずであった超過利息の返還請求を、利息制限法規定の趣旨を没却するとまで言われながら解釈によって認めてきた裁判官たちの無念やいかにという感じ。もちろん広義の債務者保護としては前掲宇奈月温泉事件(不法行為だが)や、酌婦としての稼働契約が公序良俗に反して無効である場合に、当該契約に伴う前借金名目で渡された金銭の返還請求は許されないとした事例(最高裁昭和30年10月7日判決、民集9巻11号1616頁)などもあるので、そこに問題が留まるものでもないのだが。
なお上掲平成18年判例についても、もともとグレーゾーン金利については貸金業法43条により(1)契約内容等を記載した法定書面を契約時に交付しており、かつ(2)弁済時に法定受取証書を交付した場合にのみ顧客からの返還請求ができないという規定であったところ、(1)については「債務者が(......)時間をかけて計算しなければ理解できない程度の記載がされている前記契約書面は、法(......)が要求している内容を満たしているとは言えない」(名古屋高裁平成8年10月23日判決)、「一通の書面において右記載事項のすべてが記載されていなければならず、他の書面によって記載漏れの事項を補ったり、書面外の事情をもって記載漏れの事項を補うことは、許されない」(東京地裁平成10年1月21日判決)など、具体的・明確かつ完全な書類交付が要求されており、(2)についても振込金受領証書を受取証書に代える旨の合意は無効(大阪高裁平成元年3月14日判決)であるうえに、銀行振込による弁済でも「貸金業者は(......)払込を受けたことを確認した都度、直ちに(......)書面を債務者に交付しなくてはならない」(最高裁平成11年1月21日判決)と判示されており、つまり返還請求不能とする要件を相当厳格に解釈することによって債務者救済が図られてきたところ、「期限の利益喪失条項」があるとグレーゾーン金利の支払が事実上強制されるのでみなし弁済の要件を満たさない(上掲(1)(2)を整えても任意性=返還請求不能を認めない)と判示することによっていわばとどめをさしたものであって、それが良いことかどうかはともかく、裁判所はかなり一貫して債務者保護の姿勢を明らかにしてきたと言うことができる。つまり著者の主張はその出発点から完全に誤っているのだ。
まず後者から行くと、一体いつの話なのかというところがまず問題になるだろう。1980から90年代、いわゆる「サラ金問題」が注目された時期なら、暴力団を投入していたかどうかはともかく厳しい取り立ても、巨額の利潤というのもあり得た問題かもしれない。しかし、一方では上述の通り平成に入って以降の判例の厳格化があり、他方では与信の厳格化など業界自身の自主規制による健全化が行なわれている。その結果、中堅業者からは急激に業績が悪化して(何らかの形での)廃業に追い込まれるものも出ている。さらに2006年の貸金業法改正によっていわゆるグレーゾーン金利が廃止されるなど業界をめぐる環境はさらに厳しくなっており(その善悪は別の問題である)、中堅以下の業者の破綻・整理が続いている。大手業者についても赤字転落や大幅減益という状況が続いており、「巨額の利潤」どころではない。
その一方、確かに暴力団と結びついたヤミ金融による厳しい取り立てや巨額の利潤や、あるいは多重債務を原因とする自殺者の問題は存在するだろうと思われる。しかし、少なくともその一部はサラ金規制を厳格化したためにヤミ金融に行ってしまった事例なので、その問題の原因をサラ金側に求めるのは適切でない。規制強化によって生じた問題と防げた問題のどちらが大きいかについては議論が必要なところだと思うが、いずれにせよ国家は(立法・行政・司法の三権とも)何らかの対応をこの間してきたのであって、著者の主張はまったく事実に一致していない。
前者については、伝統的に破産制度は法人・個人の別なく適用されてきたことを指摘するだけで十分だろうが(商人のみに限定するタイプの立法はあるが、その場合でも商人たる個人は適用対象になる)、破産後の免責申立てが個人たる債務者・破産者のみに認められていること(破産法248条)を踏まえれば、やはり完全に事実と逆と評価すべきではないだろうか(まあもちろん法人については破産手続開始決定によって解散してしまうなど、免責を考慮する余地がないという事情もあろうが)。なお、たとえば2006年度の破産事件では総数約17万6千件のうち自然人の自己破産が16万7千件(約95%)を占め、そのうち14万3千件は「同時廃止」という、破産手続開始決定と同時に終了決定をしてすぐに免責手続に進んでしまいましょうという事案である。もちろん狭義の破産以外に個人民事再生や特定調停・任意整理もあるわけで、本当にいつのどこの国の話をしているのか著者の脳を分解して調べたい欲求に駆られるわけである。
うんそれは債権の反対には必ず債務が生じるから両者は事実上同じものだからだね。だから「債権債務関係」と一括して呼んだりもするわけだ。たとえば2002年にドイツの債権債務関係を規定するSchuldrechtが全面改正されたのだが、これは言葉の成り立ちとしてはSchuld(債務)=recht(法)である。日本語に訳すときは「債権法」とすることもあるが、これは何となくその方がすわりが良いなあと思っているだけのことで、実態は同じだからどちらでも構わない(当然ながら、原語を重視して「債務法」と訳す人もいる)。日本の法律学はその基礎を輸入学問に置いており、その際の訳語というラベルの貼り方には(言語的特性の問題もあって)若干の癖がある。概念を論じる場合にはその原語がどうだったのかという点まで確認しないと上記のように無知を露呈させたり、大学の政治学部や法学部で「国家論」という講座が設置されているのを見たことがない(いやこれは別の人だがStaatslehreがそのあとどういうラベルになったのか知らないのかしら)とか書くようになってしまうので、注意した方がいいのである。なお付言すると、当然ながら破産法とか消費者法というラベルの下で破綻債務者や弱者保護については研究されてきたわけであるし、公法的な貸金契約規制については行政法が検討してきたわけである。著者が現代の法律についても法律学についてもまったく無知であることは、もはや明白と言ってよいのではないか。
とまあここまでで、まだ巻頭から10ページ進んでいないのである。私が頭痛を感じたのも当然ではないかと思うのだが、しかしこれはやはり序文ということもあって本来のテーマでないことに言及したからで、著者の専門領域である中世の借金をめぐる歴史研究に進めば大丈夫に違いないと私も思っていたのである。読むまでは。
次回はまず、著者が現代の借金をめぐる法制度をどのように誤解しているのかを指摘していくことにしよう。
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