うかつメディア

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というわけで民主党が圧勝したわけだが、まあこれはこれで良かったのではないか。というのはこれなら責任の所在がどこにあるのかは明確になるので、良かれ悪しかれ評価はしやすいよねと。都議選のときのような微妙な勝ち方(第一党ではあるが多数党ではない)だと、まあそれは地方自治体の二元的代表制の問題もあるのだが、政権運営は第一党の数を使って妨害しつつ責任は「多数派ではないので」とか言って回避するという戦略があり得るので、それは困る。まあとにかく決定が行ない得る状況の方が、どうにもならないスタック状況よりはいいのではないかと思う。

このあたり、もちろん私自身の政治的preferenceは生活保守なので民主党の掲げる施策のほとんどに賛成できないのだが、しかしpreferenceどうこう言えるのはシステムが存在し動作している限りにおいてなので、ないよりはあった方がまし。Twisted Diet論文に関して某先生から「民主党に優しく変わってない?」とか聞かれたのだが、要するに「やるならちゃんとやろう」という話なのである。まあその、初手から「麻生太郎首相は、31日の段階で(要求の受け付けを)やめるべきだ」(Yahoo!ニュース・時事通信)とか、予算決算及び会計令(昭和22年勅令165号)で概算要求の提出日が8/31と法定されているのと矛盾する要求とかが飛び出しているので、端的に「でけへんやろ」と思っているわけなのではあるが。

さて別の話なのだが、産経新聞が公式のTwitterで以下のような発言をしたとか(Yahoo!ニュース・J-CAST)。

「産経新聞が初めて下野なう」
「でも、民主党さんの思うとおりにはさせないぜ。これからが、産経新聞の真価を発揮するところ」

多分まあ最大のツッコミどころは産経いつ与党だったのというところで、いやアンケート取ったわけでもないけど政府関係者が読んでるのは(もちろん「職業柄全国紙は全部」という人もいるだろうけどそういう例を除くと)朝日・日経、せいぜい読売だと思うぞ。それはもう政治的preference云々以前の知的ヘゲモニーってやつでさあ、私だって情報の政治的バイアスを考慮しても朝日ソースの方を産経よりは信用するわけですよ。端的に言えば「レヴィナスの死亡記事が載らない新聞なんか読めるか」という話でね。このあたり、しかし産経新聞の当事者は違う感触を持っていたのかなあというのと、ああだから麻生総理が靖国神社に参拝しないのが悪いとか怒ってたのかとか、いろいろ思うところはある。

しかしまあそれはそれとして、この発言に対して「こういう発言しか出てこないのは既にメディアの中立性を破壊してると思う」とか「ジャーナリストの端くれとも思えない」とか批判が出てきたという件についてなのだが、第一に資源の有限性を理由として中立義務を特別に課されている放送事業と違って、新聞には公正中立義務は存在しない(じゃなかったら赤旗も聖教新聞も朝鮮新報も困るだろう)。椿発言が問題になったのはあくまでテレビ放送だったからで、新聞関係者が同様の発言をした場合に適切性の観点から問題にするのは自由だが、法的な問題にはならない。さらに言えばメディアなりジャーナリストなりにある程度の党派性・政治性があるのは当たり前で、だからこそヘゲモニックな新聞と違う視点に立っている産経新聞の存在意義が(カネを出すほどかどうかは別にして)あるとも言える(ちなみにここからは、「で、毎日新聞の存在意義ってなに」という話に直結するわけだが、略す)。こういう批判の仕方それ自体がメディアへの理解不足と盲信を示しているのだな、という感じ。

もう一つは、これたとえば逆に自民党が大勝したケースを想定して、翌朝の社説で朝日新聞が「しかし当然ながらこの結果は自民党に何でもやっていい自由を保障したものではない。政権政党には国民の期待に応え得ているかを常に自覚的に問い直す責任があるし、朝日新聞も国民の視点から権力を監視するというジャーナリズムの役割を果たしていきたい」とか書いたらみんなそんなに怒るのかしらという話で、結局言っていることは変わらないよねとも思うわけである。

そうするとなにが問題かといって結局ものの言い方も手段もうかつであるというところに尽きるだろうと。それで「公式アカウントでこの発言?」という批判もあったようだがTwitterというのがそもそもあまり考えないうかつ発言をたれ流そうというアイディアに基づいたシステムだと思うので、まあシステムの本旨にかなった行動なのではあるまいかと思う。だからまず使うなよという話なんだけどな

Twitterについてはこないだもなんか、批判されたのが気に入らなかったのか「技術や法を知れ」とお説教を垂れた人というのがいたらしく、でもあなた技術者じゃないよねえ(意訳)と本物の技術者の人に一刀両断されていたが、私の知る限りその人法律の素養もないはずだぞという二段オチがあり、まあうかつうかつという感じなのだが、上述の通りそのためのものだよねということを考えると、しかしそういううかつメディアを活用してうかつ表現をする・それで構わないし望ましいと思う人たちが政治だの表現だのに携わるようになっているのだねえというのがより本質的な問題なのだと思う。「考えない・覚えない人」というのは近代法が本来の前提としていた個人になり得ないわけだから、それをどうするかというのは近代システムの動作全体に関わる課題であって、政治的preferenceに関わらず憂慮すべき問題だと、私などは思うのだけれどね。

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コメント(3)

法的な義務はないとしても、

1.記者クラブへの参加という点で資源の希少性は存在する。
2.日本新聞協会に加盟していない新聞(聖教新聞とか赤旗とか)は記者クラブから基本的に排除されている。
3.日本記者協会は、新聞倫理綱領で公正をうたっている。

という事実から、「こういう批判の仕方それ自体がメディアへの理解不足と盲信を示している」とは思わないのですが、いかがでしょうか?

>1.記者クラブへの参加という点で資源の希少性は存在する。

任意団体に過ぎない記者クラブが現実には各種団体(その多くは公共団体)から根拠なく排他的に便宜を供与されているということからわかるのは、それがむき出しの既得権益であり、しかも不公正な慣行だということである(そこでの「資源の希少性」なるものは任意団体外の報道主体に対する不公正な締出し以外のものではなく、そこで真に資源が希少であるわけではない)。不公正な慣行の参加者達にそのことを以て公正中立義務を課しうる(しかも当の不公正な慣行は放置したままで)という発想が私には理解できない。


>2.日本新聞協会に加盟していない新聞(聖教新聞とか赤旗とか)は記者クラブから基本的に排除されている。

記者クラブからの排除は、それが任意団体であるため、会員の承認に拠らなければ入会できないことに拠っている。個人ジャーナリストやフリー記者が排除されていることに鑑みてもわかるように、その排除基準は国内大手新聞社の既得権益の問題であって、新聞倫理綱領なるお題目を守るふりをするかどうかではない。


>3.日本記者協会は、新聞倫理綱領で公正をうたっている。

放送法は放送事業者に「政治的に公平であること」を要求する。わざわざ「政治的に」と特定しつつ、それについて「公平(impartial)」であること。新聞協会のは単に「公正(fair)」。この2つは全然違う。不公正でないという最低限度を守る限り、自分の視点から主張を展開することは許される。公正な論争というのがありうることからもわかるようにね(なお公平な審判というのはいても公平な選手というのはいない→公正な選手はいるけど)。しかも、新聞倫理綱領は報道が記者個人の思想信条に左右されてはいけないというのだが、新聞社の意向に左右されていけないとは書かれていない。

1986年でしたか、
中曽根政権が衆参ダブル選挙で、中選挙区制の当時としては非常に珍しい大勝をしたとき、各新聞はおおや先生のシミュレーションそっくりの社説を書いていたという覚えがあります。

いまは日刊ゲンダイがすごいことになっていますが
■「森・古賀・安倍・福田・小泉」当選させた民度の低さ
http://news.livedoor.com/article/detail/4329527/

■小沢一郎 大勝利の凄い政治的力量
http://news.livedoor.com/article/detail/4329526/

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