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独自の見解(3・完)

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第三点は、しかしそもそも今回の事件にどの程度の違法性があり、それによって強制捜査にどの程度の正当性が生じるのかという、先ほど留保しておいた問題である。正直に言うがこの点、別に私は刑事法の専門家でも政治資金規正法に詳しいわけでもないのでそうたいした意見があるわけではない。しかし「第三者委員会」の報告書は違法性がないので捜査は不当という見解を示しているところ、その理由は総務省見解・法務省刑事局長答弁とも相違しており、かつ判例に裏付けられているものでもないようなので、まさに「独自の見解」としか言いようがないのではないだろうか。

もちろん法律の文言には様々な解釈があり得、それに従って行為しようと考える人々や紛争の当事者はそれぞれの視点から(基本的には)自己に有利な解釈を行なおうとするものである。行政庁の解釈というのも本来はそのような「当事者の解釈」の一つに過ぎないのだが、しかし政府内部では(紛争が生じた場合には内閣法制局による意見を経て)その解釈が統一されており、すべての行政庁が統一された解釈に従って行為することが期待できるものであるから、その予見可能性は極めて高いし、また政府外の行為者が政府がそのように振る舞うことを信じて行為することの正当性も高いということになる。一方、法律の最終的な解釈権は日本国憲法に基づいて裁判所に与えられているものであるから、そこでの解釈は全国民を拘束するわけだし、当然ながらその判断が繰り返されることを人民の側では信頼することができる。これがいわゆる「判例」の機能であろう。仮にある私人の行為が最終的に裁判所において違法とされるとしても、それが行政庁が事前に示していた解釈や既存の判例に準拠した結果であるとすれば、規範的な批判可能性は大きく縮減するということになろう。

言い換えると、行為の有責性の基準は違法性であり、それは常に事後的に決定されるしかないのだが、適切性の基準は事前の予見可能性である。当事者であれば事後にその行為が承認されることを期待して事前に判明している基準に反して行為することも個人の決断としてはあり得るだろうが、第三者の立場から行為の適切性を判断する前提として、事前に「一応の」正当性が認められている基準に反した「独自の見解」を持ち出すことがどの程度正当なのか。

まあ結論的には、従って、徹頭徹尾「独自の見解」から作られた報告書でしたなということで終わる。別にその独自性を高く評価する人とかいる分には止めませんけどね、ええ。(6/23公開)

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