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ねじれ
さて、今日は師匠主宰の研究会でTwisted Dietについて簡単に報告して検討。いやだから日本人にはあまり意味のない論文なんだってば。と言いつつ、やや面白いインプリケーションは見つかったかもしれない。つまりこういうこと。
- (1) 日本の国会審議のルールは、主に会期不継続の原則に由来する問題を抱えており、それを回避するために形成されたのが55年体制下の国対政治であった。(大山礼子・中島誠など複数が指摘)
- (1a) 中選挙区制度に由来する1 1/2大政党制がその背景としてあり、55年体制下では与野党の決定的な対立を避けて合意形成するシステムとして一定程度合理的だった。
- (2) なぜ問題が放置されたかといえば、それが「合理的」だったから。
- (2a) 前述の通り、55年体制下では合理的だった。あるいは、ゲームのルールとして良くできていた。
- (2b) 政治に流入する政策課題は(その解決のための資源が稀少である以上)優先順位に従って解決されていく必要があり、その中で隠された問題はあっても当面は合理的なシステムは低い優先度しか持たない。
- (3) しかし問題が現実化した時点では当該ルールが与野党の利害対立の中心になるので(「政治の瞬間」)、解決する必要性は高まるが広範な合意が得られる可能性は極端に低くなる
- (3a) 結局、政治セクターにおいてこの種の「隠された問題」は手遅れになってから表面化する。
- (3b) だめぽ。
多分、この種の政治プロセスの設計については「政治の瞬間」が到来する前に、かつ一般的な政策課題の解決とは別に資源を割り当てて、いわばcool mindで考慮される必要があるというのが一つの処方箋だろう。もちろんこれだけではなく、「政治の瞬間」においても破滅的選択を避けるような政治的叡智が働くことを信じるないし何らかの方法で担保するとか、むしろ破局のあとの廃墟から新たなる希望が立ち上がってくる可能性と正当性を信じるとか、そういう方法もあるとは思う。あまり私の趣味ではないが。そして最初の処方箋を選択するならば、政治の基本デザインに関する議論はむしろその必要性がまだ到来していない時期においてこそ為されるべきだということになるので、「憲法改正に関する国民投票の手続を定める法律は、それが必要になる状況(改正の発議が国会で行ない得る状況)では必ず採択し得るはずなので、その状況が現実のものとなっていない現在において議論したり制定したりする必要はない」とか主張する憲法学者とかまさに役立たずだよねえということになるだろうか。
このあたり、究極的には《民主政はどうすれば維持できるか》という問題系に行き着くのかなと、別の問題との関係も踏まえて、思いました。そのうちまた考える。(6/8公開)
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そのまえに民主制なんていうものに行き着いた時点でもう終わっているというふうには考えられないのかね。もっとも哲人王はどこにもいないわけだが。かつてもいまも、そしておそらくはこれからも。