前の記事: Hardware << | >> 次の記事: よく喋る
RATIO 06
ダメ論文ばかり読んでいると魂が汚れる(挨拶)。なおここでいう「ダメ」とは分析の視角が違うとか結論に同意できないということではなく、学術論文に通常要求されている形式が満たせていない種類のもののことを言います。もちろん形式はダメでも内容の面白い文章というのはあり得るわけだが、そういうのは学位審査とか大学院入試とかではなくて論壇誌とかに出すべきだと思うわけですよ。そしてそれがわかってないレベルの人が読んで面白いものを書けるわけはなくてですね orz。自分が指導している学生なら直すのは職業上の義務だからあきらめもつくんだけど、そういう義務のないケースでアウトプットたるダメ論文だけを強制的に読まされるというのはほぼ拷問だと思うわけです。学問は作法だからさあ、きちんとシツケされてない子を野放しにされても困るんだよね(タメイキ)。
傷ついた魂を癒そうと歴史関係の本を手に取ったら(私に専門的な判断能力がないのでアラがあっても気付かない可能性が高い)これがまた地雷で。いや中世日本に関する本論部分については前述の通り私には十分な正否の判断能力がないし(とはいえ通説・類書とかなり違う理解をしている部分が早速気になってしまったところはあるが)、まだ十分読んでもいないのだけど、現代の状況に言及しているイントロ部分が何一つ正しいことが書いていないくらい間違っていてね orz。そのうち書く。
というわけでズタボロなのだが良いこともあったのでそれについて書く。出たばかりの『RATIO 06』(いただきもの。ありがとうございます)、まだ前半を読んだところなんだけどこれは良いです。特に巻頭の対談「アフガンとイラク」、実は酒井啓子先生と伊勢崎賢治氏という組み合わせを見たところである予断があったんだけど、いい意味で裏切られました。何がいいかというのはやや説明しづらいところもあるので実際に読まれることを勧めますが、両氏が研究者と実務家というそれぞれの立ち位置を意識してそれに由来する制約の範囲に踏みとどまっているのと、わからないこと・できないことをそうはっきりと言っている点かなと思います(以下敬称略)。
たとえば酒井がイラクの情勢に関し、国軍の形成如何以前に「その前段階で必要な、誰もが『国の言うことだからしょうがないね』と認められるような正統性の構築が放り出されている」と指摘し、伊勢崎が「現場ではそんな暇がないし、エネルギーもない」、「政権がよちよち歩きでヨタヨタしていようが、どんなにアホだろうが」「現地の人の政権が発足したら、その時点から現地の人に任せなければならない」というオーナーシップの議論に国際支援が支配されていることをその要因として指摘する。支援を実現するための資金を調達するためには「注意をひきつけておくためにどうしても打ち上げ花火が必要」で、「だから、選挙を実施することが目的化してしまう」。理念的なモノイイとその現実化プロセスの距離が、ここには示されている。
一方で、理念的・理論的な分析も簡単にできるわけではない。酒井は、アメリカの武力作戦後にファルージャの状況が安定したことについて、その理由は「ほんとうにわからないです。構造的にはそれほど大差ないことをやっているのに、いまは成功しているわけですからね。なんででしょう......」と迷いを明らかにする。あるいは国際社会が破綻国家や紛争に関わる際のあるべき姿について、伊勢崎は以下のように語る。
「弱者の側に立つ」とか、「先進国の横暴への抵抗を支援する」とか口で言うのは非常に楽なことなのだが、実際の支援現場では第一にある意思決定とその帰結の関係も明確ではないし(アメリカの支援を受けていた政府は確かに腐敗していたが、それを除去したらクメール・ルージュの虐殺政権が成立してしまった)、何らかの意思決定を行なったとしてもそれは現実に入手可能な資源の範囲でしか実現できない。資源調達のためには、目的達成の観点からはマイナスになりかねないような行為をあえて取らざるを得ない局面というのもある。そのような状況で迷いながらも選択を積み重ねて何ごとかを実現してきた実践者と、そこにある問題性を指摘しつつも相手の立場を尊重する観察者の対話として、非常によいものだと思うわけである。
まあそのあと2本の論文は身内のものなのだが、しかし安藤君が相変わらず人を怒らせるような議論を展開していて素敵である。ある意味、功利主義の王道たる反直観性という感じなのだが。谷口論文も「郊外」という問題から公共性とそれを支える資質に説き及ぶという展開と、それを支える「文芸趣味」(鴎外的な意味で)が注目に値するわけだが、ただ郊外一般ということではなくそこで導入に用いられている多摩ニュータウン論ということでいうならば、かつてそこに住みいまでも縁のある人間として若干の違和感がないでもない。郊外で発生する諸問題は以前に都市で発生していたものであり、歴史の蓄積によって解決するかもしれないというのは一般的には妥当するかもしれないが、多摩ニュータウンには適切でないのではないか。
多摩の特徴は、バブル経済とともに拡大しきった都市域が、その崩壊と深刻化する高齢化によって急速に縮小していったその臨界に発生し、住民の上方移動も新たな下方からの流入もないまま特殊な世代分布で固定してしまったことにあるように思う。いわばそれは遺棄された前線(front)であり、なお拡大を続ける途上にあるfrontierとは、何事かが異なる。そこに展開するある種独特の・荒涼とした光景が、論文後半ではどこかに薄れているのではないだろうか。とはいうものの、この点を判断するには同著者が最近集中的に発表している関連論文との関係で見なくてはなるまい。
後半はまたそのうち読む。(2月19日公開)
Trackback(0)
このブログ記事を参照しているブログ一覧: RATIO 06
Write Your Comment