配置転換と職務
田母神・元空幕長が更迭・定年退職した事例について、「五百旗頭真防衛大学長も、政府の方針や見解に反した論文や発言をあちこちで発表している。そちらにお咎め無しなのは二重基準、矛盾ではないか」という主張がある旨、Gryphon氏にコメント欄でご教示いただいた。だいぶ時宜を失していると思うが一応この点について検討しておく。
というかまず第一に以前にも書いた通り、田母神氏は懲戒処分も分限処分も受けておらず(「お咎め」を受けたわけではない)、単に配置換されたところ定年に達して自動的に退官しただけのことであるので、最初から前提が崩壊している気がするわけである。仮に処分されていたとしても、これも既述の通り見解発表に関する内規違反はあるようでその限度では正当化されるのであり、そのような違反があるとは伝えられていない五百旗頭・防衛大学校校長の事例との差が生じるのは当たり前だろう。
話を本筋に戻すと、というわけで田母神氏が問題にできるとすれば配置転換に関する裁量の是非に限られる。しかしこれは、たとえて言えば経理係長を庶務係長にするとか、大阪支社経理課長を名古屋支社経理課長に転任させるという話であり、降格や身分喪失を含む処分の事例より雇用者側の裁量が広く認められるのは当然であると言ってよい。この点、戦前であれば(文武を問わず)官吏と国家のあいだは「特別権力関係」であってそもそも一般的な労働法の規制に従わないので問題にする余地もないのだが、戦後は公務員であってもその職務の特殊性に鑑みて最低限の制約を受ける以外は労働者としての基本的な権利保護を享受できるので、ここで自衛官なり自衛隊員としての特殊性を考慮する必要は特にない。
さて、前述の通り配置転換であれば基本的には雇用者の裁量が広く肯定されるが無制限ではなく、一定の場合には制限され得るのは判例の示してきた通りである。しかしそれは明示的ないし暗黙の職種・勤務場所の限定に反するとか(日本テレビ放送網事件(S51東京地裁決定)、新日本通信事件(H9大阪地裁判決))、実際には経営上の理由ではなく他の目的のいわば偽装として配置転換が命じられているために権利濫用に当たるような場合(会社批判の中心人物に不利益な取り扱いをすることを目的とした朝日火災海上保険事件(H4東京地裁決定)、退職勧奨拒否に対する嫌がらせであったフジシール事件(H12大阪地裁判決))、あるいは労働者側に正当な理由があるために配置転換命令が権利濫用に当たるとされる場合(家族に介護を要する病人がおり、被用者以外に介護者がいないような事例。たとえば日本電気事件(S43東京地裁判決)、北海道コカコーラ・ボトリング事件(H9札幌地裁決定))に限られるので、一般的には労働協約などに一定の根拠があれば雇用者側の配置転換命令権が認められると言ってよい。たとえば東亜ペイント事件(S61最高裁判決)においては、以下のように判示されている。
またこの場合において、配転先の職務が余人を持って替え難いことは権利濫用性を認めにくくする根拠として指摘されている(逆に、それほど特殊でない仕事であれば配転拒否が正当なものとして認められやすくなる)。従ってたとえば個人的信頼関係が重要な職務への配置転換は、そのような関係をすでに持っている被用者にとっては拒みにくいものであるし、逆にそのような職務からの配置転換を命じることは、信頼関係が崩壊した場合には正当性を認められやすいということになろう。
つまり配置転換の正当性は単に前職務に在籍中の行為如何によって単純に決められるものではなく、配置転換を行なうべき経営上の必要性や職務ごとに要求される能力素養などの性質、さらには労働者側の個別事情などを総合的に勘案して導かれるものであるということになろう。
今回の事例について言えば、もちろん意見発表行為がどれだけの要保護性を持っているかということもまず問題になり得る。つまり、それが一般的な言論表現の自由(憲法21条1項)の範疇にとどまるものであるのか、憲法上特別に保護されている学問の自由(23条)に該当するものとしてより高度の保護を期待できるものかがひとつの論点であり、後者を伝統的な「大学の自由」と関する立場からは高等教育機関のひとつである防衛大学校の教官である五百旗頭氏の場合は保護されても一般行政官庁(あるいは暴力を専有しているためにより権利行使を厳格に制約されるべき立場である軍隊類似組織)の非=研究者である田母神氏の場合はその対象にならないという結論になりそうである。私のように、学問の自由は手続としての科学的探求を保護する「査読誌の自由」であると解する立場に立っても、田母神氏の「論文」が保護対象になるとは思えない。この点、結論として政府の公的立場に反しているかに応じて同一に扱われるべきだという田母神氏側の主張は、発言主体や発言手続の問題をまったく無視しており、端的に失当である(まあその差がわからないからあんな「論文」書いちゃうわけだが)。
だがより重要なのは職務としての航空幕僚長と防衛大学校校長の差異であろう。双方とも防衛大臣の「指揮監督を受け」ることに違いはないが(幕僚長につき防衛省組織法(昭和29年法律164号・以下「組織法」)21条3項、防衛大学校校長につき防衛大学校、防衛医科大学校、防衛研究所、技術研究本部、装備施設本部及び防衛監察本部組織規則(昭和29年総理府令39号)1条の2・3項)、その職掌の性質と大臣との関係においては大きく異なっている。
防衛大学校について言えば、それは「幹部自衛官(......)となるべき者の教育訓練をつかさどる」(組織法15条1項)組織であり、「自衛隊の任務遂行に必要な理学及び工学並びに社会科学に関する高度の理論及び応用についての知識並びにこれらに関する研究能力を修得させるための教育訓練を行う」(同2項)ことを目的としている。従って教育・研究の内容などその運営に関する方針は「理学及び工学並びに社会科学」、すなわち学問的基準によって基本的に制約されるべきであろう。仮に大臣が学界において妥当とされている範疇に含まれない見解を主張していたとして(たとえば「B52は空母に離着陸できる」とか)、しかしその内容を研究者として肯定し、唯々諾々と学生に教え込むとすれば「自衛隊の任務遂行に必要な(......)知識」の修得は妨げられるのであるから、法律によって定められた組織の設置目的に反するということになろう。もちろんその組織運営(典型的には人事予算)については大臣の意志に忠実に従う必要があろうが、特に今後の「高度の理論」構築につながる研究の内容については、その時々の大臣や政府の意見からの独立性を高度に保護することが、法律に定められた国家の(ということはすなわち国民の)意思にかなうのである。
これに対して幕僚長がその事務を掌理する幕僚監部の任務は、要するに「隊務に関する防衛大臣の幕僚機関」(組織法20条1項)であることに集約される。具体的には同23条に列挙されているが、「防衛及び警備に関する計画の立案」をはじめ経理・調達・人事や補充など一般的な組織運営に関する計画の立案、そして「防衛大臣の定めた方針又は計画の執行に関すること」というのがその中心であろう。すなわち幕僚監部には(1)大臣が命令を下す前にその判断・検討の材料となるべき計画の立案を行ない、(2)命令が下った場合にはそれを忠実に執行することが期待されている。いずれの場合も最低限対外的には大臣との一体性を保つことが求められているし、対内的に・大臣との関係でどの程度の異論の持ち方やその伝え方が許容されるかというのは大臣との信頼関係に依存する部分があろう。歴史をひもとけば、君主にどれだけ厳しい直言をしようが異論を主張しようがむしろそれが有益なこととして君主自身に許容され歓迎されていた例も数々あるし(###)、かと思えば調子に乗って余計な意見を述べて処罰された例というのもいくらも見つかるであろう。結局、信頼関係があれば直言も可能だしなければそうではなく、そして信頼関係があるかどうかの権威的な判断は補佐される側に委ねられているということになるだろう。
もちろん、「信頼関係がなくなったので首を(物理的に)切ります」というような恣意的な権力行使が近代民主政以降において認められて良いわけはなく、従って不利益処分についてはdue processの保護があり、適正な手続なしに行なうことはできないとされている。だがそれは逆に言えば「不利益」にならない範囲では恣意的にやって良いということでもあって、上述の通り基本的に配置転換はそれ自体が「不利益」と考えられていないのであるからそれに異議を唱えることもできない。それを不当とする特殊な事情があれば話は別になるが、上で述べた通り職務内容との関係を考えると防大校長の発言の自由を保護する必要性は導けても、信頼関係破綻を根拠とする幕僚長更迭はむしろ当然と言うよりない。結局のところ、このあたりの自覚がないからああいうことやっちゃうんだろうけどねで終わる話だと、そう思うわけである。(2月14日公開)
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すいません、発表時にアンテナで察知できなかったらしく、一カ月近く気付くのが遅れてしまいました。
これで謎の多くが納得できました。
私は「田母神の呪い」と称し、卒業式の日の丸・君が代に関して関連してくるんじゃないかと思っていましたが、これで差異も分かってきました。
(※ところで、エントリーの日付は本当にこれでいいのでしょうか?この日付以降に、にここを拝見した記憶があるのですが・・・)
>Gryphonさん
あ〜いえこの頃に書いたのですがアップロード作業をする暇がなくて放置してあったのです。ですから、アンテナの動作の方が正常です。混乱させてしまって申し訳ありません。
公開日について追記しておきます。
ついでに付け加えると、同じように身分を失っているあるいは処分されているように見える事例であっても法律上の位置づけには以下のように異なるものがあり、それに応じて保護水準も変わってきます。あえてこのあたりをごっちゃにして議論したがる人が一定数いるので、注意する必要があるでしょうね。
・形式上「新規採用」にあたるような場合。
定年後の講師としての委嘱、試用期間後の採否決定など。保護対象となるべき雇用関係がまだ安定的に生じていないので、《例外的事情がある場合に限り保護対象になる》(保護されるべき期待が生じているなど)。そうでなければ採用しないことは自由。
・配置転換にあたる場合。
田母神事例や、教員の場合の勤務校変更、教育委員会への異動など。本文記載の通り、《一定の事情がある場合に限り保護対象になる》(権利濫用にあたる場合)。ただし処分性があってはならないので、減給や降格を伴うことはできない。
・処分にあたる場合。
規律違反や職務命令違反がある場合。最高で懲戒免職に及ぶ効果を発生させることができるが、《適正手続の保障が必要》。当然、恣意的であってはならないし、明示的な根拠が必要とされる。
管見の限り、日の丸・君が代関係で争っているのは一番目に関する期待の要保護性と三番目における職務命令の合憲性でしょうか。二番目では争いにくいと思うんですけど、まあそこに来るか田母神さん、という感じでしょうか。
>>このあたりをごっちゃにして議論したがる人
この手のやり方は
「意図的にごっちゃにして自分の有利な方向に導きたいのね、ああやだやだ」
と、いままでは華麗にスルーしてきたのですが、
最近になって、
「え? もしかして本当に分かってないのこの人?」
と思うようになってきました。
いやでも一応有名大学の教授とか
全国紙の記者を務めるジャーナリストといった方たちなんですが。
こうなってくると、別の意味で非常に気がめいるというか、
事態は思った以上に深刻だと言えるのかもしれません、はい。
今回の騒動で個人的に解せないのは、猿払判例があるのに「公務員にも表現の自由を」と声高に叫ぶことが、(田母神氏自身はともかくとして)右な人たちに何のメリットがあるのか?ということでした。
おおや先生は、猿払と田母神事件を区別できるとお考えですか?
>匿名希望さん
なんか多分、こういう概念規定を細かく区別して効果と対応させていく要素還元的な手法というのは訓練で身につくもので、たとえば人間が生来持っている傾向性ではないようなのですね。法学部なんかでちゃんと教育を受ければ大丈夫なのですが、文学部などにはこのような手法をとにかく外在的に批判したがる人というのがおり(偏見。でもフーコーとか「思考集成」を読んでいるとそうとしか思えない)、ジャーナリズムに行く人は大学での教育をきちんと受けていないことが多いようなので(偏見。でも就職活動の時期を考えると専門をまじめに勉強する暇はなさそう)、ダメなのかなと思うことはあります。
>HRさん
私自身は、前にも書いたと思いますが、公務員であっても表現の自由に対する制約は可能な限り小さくあるべきだと考えますから、禁止されるのは特定政党に対する支援・攻撃の目的が明確である場合に限るべきだと考えます。従って、特定政党の選挙ポスターを貼った猿払事件はアウトですが、田母神ケースは(表現自体では)セーフ、懲戒処分の対象にはすべきでないと考えています。
そこで前段の話に戻ると、表現の自由を現在以上に保障したら喜ぶ公務員は左の方が多そうなので右の人が騒ぐことは(功利的な意味で)賢明ではないと思いますが、多分そういう人たちは自分のは守られるべき「表現」で、左翼のは邪悪な陰謀の産物だから「表現」たるべき資格を満たしていないとか、そう考えてるんじゃないですかね。わいせつ規制などでそういうロジックを採る例はあるわけですが(アメリカとか)、保護対象外とされるとそれに対する規制を制約する要因がなくなるという問題があり、権利衝突で説明する思考法より危険だと私は考えています。
おおや先生
唐突な質問に丁寧にお答えいただきありがとうございます。「特定政党に対する目的が明確な支援・攻撃」を基準に切り分けると、確かにシャープに猿払事例と田母神事例を区別することが出来るように思います。しかし、そのご回答に刺激されて新たな疑問が出てきました。
といいますのは、まず確かに「社会党のポスターを貼った」という点を捉えて、特定政党に対する選挙目的の支援であることが明確、よって×と文句なく言えます。しかし、田母神さんのように「日本は侵略をしなかった」という主張は確かに、抽象的に見ればどの政党も主張しえますが、実際には「すご~く右よりな政党」(あるいはあまりにも過激なゆえにその党の表舞台にすらなかなか出て来れない勢力)の者しか言わない主張であって、突き詰めていけば、(内容規制をめぐるviewpoint規制とsubjectmatter規制を連想いたしましたが)そこで区別できるか、できるとしてすべきかという点に疑問があります。
また一歩離れて、公務員の表現の自由を規制する目的に立ち返ってみると、(争いはありますが)公務員の政治的中立性およびそれに対する国民の信頼の保護になるでしょうか。その法益に対する、表現行為のもたらす具体的な弊害に着目すれば、郵便局員が社会党のポスターを貼った、保険事務所職員が赤旗配ったというのは所詮微々たるものです。それに対して政治的中立性が一層要求される地位にあり、影響力が格段に大きい田母神さんの問題発言は、私には猿払事例と比べものにならない具体的弊害が生じているように思えます。つまり、表現内容自体が抽象的に見て「どの政党でも言いうる」ものであるからといって、当該公務員の地位、および表現の具体的な内容・影響力を捨象してよいのか、というのが2つ目の疑問です。
まとめると、おおや先生の基準は大変明確なのですが、その明確さゆえにかえって結果として「小悪を厳罰し、巨悪を逃す」ことになりはしないか、というのがぼくの懸念です。