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支援

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P1000673.jpg生協に行ったら久しぶりに入荷していたので支援と連帯の意を明らかにするために大量に購入してみる。つうかがんばれ。

まあこの件についてはそこが主犯というわけでもないと思うのだが、先日来某研究会で安全と安心のギャップをめぐるリスクコミュニケーションなどという話をしていたときに、問題発生のひとつの類型としてマスメディアの問題というのを指摘したわけです。つまり「科学的には安全」という状況があるのにその根拠となる知見やデータの内容を理解できずに不安をフレームアップしてしまう事例があり、まあ餅とコンニャクゼリーの相対的危険性とかを例として考えてもいいだろう。なんでそうなるかというにもちろんマスメディアも客商売であって不安をあおる方がお得であるからということも考えられるのだが、日本の場合はそれに加えてマスメディアの中の人たちがとてもモノを知らないというか、専門性がなかったり不勉強だったりするという問題を指摘したわけ。まあ「取材される側」の経験があると多かれ少なかれああねえという気分になってしまう話なのだが、そうしたら「マスメディアにきちんと理解させることのできない専門家の側に問題がある」と言い始める委員がいて正直耳を疑う。

まず先に上記の議論を補足すると、その世界に入る段階において、たとえば教育経験や学位で証明される類の専門能力を重視しないという点や、入ったあとも専門分化を進めるよりジェネラリストとしての能力養成を重視するという傾向はマスメディアだけでなく日本の官公庁・企業に多く見られる傾向なので、特にメディアを批判する要素にはならないだろう。だが、ある言い方をすればそういうわけでスタート地点ではそう変わらないレベルに立っているはずなのに、十年二十年たつと官庁・企業・学会あたりの人間から「この人たちは何でこうなんだろう」と思われてしまう。その背景にはいったい何があるのかという問題なわけ。

もちろん「専門家対一般人」という枠組で見ると上で挙げたような意見には理解できるものがあって、後者が前者の生の情報に直接接して理解することは事実上不可能だし、専門家として社会的威信や資源を占めていることを考えればそれに対する説明責任を専門家の側が負うべきだという議論もあるだろう。もちろん資源の占有による正当化には一定の限界があって無限責任を認めることはできないだろうし、現実にもまったく理解する能力がないとか理解する気がない人々というのがいるのだからここで言う「一般人」は現実に存在する個々の一般人ではなく普通の理解力と妥当な意図を持っていると想定された観念としての一般人にならざるを得ないわけだが、まあそれはそれとして。

問題は、じゃあマスメディアはその枠組のどこにいるのかという話で、私などは両者の媒介だと思い、だとすると専門家に対しては一般人を代理するわけだがその話の内容を理解してツッコミを入れるなら入れないといけないし、一般人に対しては専門家を代理しないといけないのだから準専門家を自任できる程度の専門知識とか素養はないといけないと思うわけだ。これに対しては「一般人にわかるように説明するのだから一般人と同じ気持ちになれなくてはならない、そのためには専門的素養がない方がいい」という意見があり、上述の意見などもそういう観点に立っているのかなと思うのだが、以下の二点から私はそのような主張が正しいとは思っていない。

第一は、端的にじゃあ小学校の先生は小学生かよという話で、相手の反応を予測し・先取りしてより有効なコミュニケーションを実現しようとしたら相手より高い能力が必要になるのがむしろ当然であるという話。第二は、じゃあ専門家にとってマスメディアの相手をするメリットって何なのさという点にあり、まあ一昔前までは世間に広く事実を知らせたり意見を表明しようとするとマスメディアしか実効性の高い手段はなかったのでその活用を試みることに意味があっただろうと思うのだが、いまならウェブだのメイルだのでいいんじゃねえ?という気がするわけ。そういう手段なら内容も出し方も自分でコントロールできるわけで、誤解・曲解される危険性を背負ってマスメディアを利用しなくてはならないものだろうかと。情報にしろ知見にしろ「専門家」の側としてはある種の商品として持っているわけで、その有効活用ということを考えたときに素人同然のマスメディアを相手にしたい人がどの程度いるのか。まあいるだろうとは思うけど減ってきていたり、逆に相手から情報を受ける側の立場から見ても中継者の能力が信用できないので発信元を直接確認したくなるとか、そういうことが積み重なっていまの新聞だのテレビだのの業績悪化になってるんじゃないかと、そういう話。流通経路を独占していた時代は単なる素人同然の御用聞きでもつとまるし、まあ必要なら御用聞き同士でカルテルを結成すれば何とかなったんだろうけど、経路が多様化して担い手も不特定になり、そのあいだでの競争が始まっている時代に「何も知らないこと」に開き直る姿勢がどのていど維持できるのかなとか、思ったことでしたね。

***

なお、安全と安心のギャップという点についていえば上記のスキームはありがちな一類型ではあるけれどすべてではなく、どちらかというと一般市民の「不安」の方が専門化の振りかざす「安全」のデータより正しいというパターンもあるだろう。私が例に挙げたのは治安悪化の問題で、繰り返し指摘されているように客観的なデータで見れば犯罪が減少傾向にあるのに人民の「犯罪不安」は増しているように思われる。これを人民の理解不足と考えるのが上の類型。そうではなく、個々の人民にとって重要なのは社会全体に犯罪がどの程度存在するかということより自分が犯罪に遭遇する可能性がどのくらいあるかなのだから、全体件数が減っていても分散して自分たちの周りに危険がやってくれば不安になるのは当然、はっきり言えば一般市民にとって歌舞伎町でヤクザ同士がどれだけ殺しあいをしていてもたいして関係ないので、社会全体の犯罪統計という「安全」のデータを人民の「不安」のインデックスとして使おうとしたことが間違いだったのだと、そう考えるのが別の類型。この場合、データを持つ専門家に対して「人民の健全な感覚」(いやまあそれが往々にして「素直な偏見」であることが問題なんだが)の正当性をぶつけてみる、そのために専門性を脱ぎ捨ててみることが有益だという意見はあり得るだろうと思う(それでもなお、専門家に対抗するためには一定の素養が必要だと思うけどね)。

もう一つ、上で言及している「マスメディア」のイメージにもっとも近いのはおそらく新聞とテレビで、ラジオのことはよくわからないだけだが雑誌や出版一般は競争に由来する専門化という傾向がある程度機能している・より健全な世界だという気がしている。まあ最近の週刊朝日を考えて書いてるとは思えないとか、そういうのもあるわけですがね。こないだ麻生内閣の経済対策を批判してた面子を見た瞬間に内閣支持を決めた私です。いや経済のことはよくわかんないんだけどさ。


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こすなふ さんのコメント (2009年1月 3日 11:46):

あけましておめでとうございます。
「続き」をクリックしたらものすごい長文が出てきてびっくりしましたw

基本的に未知なる脅威に対して身構えるものだと感じてます。
餅は過去より食べなれており、近年登場したこんにゃくゼリーは食べなれていないので怖いというか。
詰まるリスクはさほど変わらないんですけどね。

その本質がわかる人には、そのリスクはさほど脅威にはならないものかと。(某「徹夜数千人」のような判ってる脅威もありますがw)

ネットだって、使ってる人から見たら電話とあんまり変わらないものですが、いかんせん近年登場ということから全年齢層に浸透しているとはいえず、「ネットはこわいところ」みたいな報道がされていると杞憂しています。
手紙で犯行予告したら、郵便を規制するんかいな。

本来ならマスコミなどで、「こんにゃくゼリーも餅も同じくらい危ないから気をつけてねー」なんて報道が盛んにされれば、これほど誤解されることもなかったと思いますが…
今のマスコミを見るに、高望みしすぎですね。


あと
「麻生ネガティブキャンペーン」かと思う、マスコミの報道姿勢も何とかならんだろうかと感じるしだいです。

一学生 さんのコメント (2009年1月 6日 00:25):

マスコミのみなさんは理解できないのではなくて、
理解する気がそもそもないのではないか、と思う次第です。
「これこれこうこうで危なくない」という理屈よりも、
「とにかく危ない/だめだ」という直感的な報道のほうが、
視聴者が好む、という風にマスコミは思っているのでは。
どちらかというと、現在のマスコミは、真実ではなくて
視聴者の望むもの(数字の取れるもの)を望むのでは…と、
思う次第です。

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