前の記事: 慶祝 << | >> 次の記事: カンボジア出張記(1)
ある心性
うんまあ国際線に乗ったので珍しく日本の新聞でも読むかと思ってしまった私が悪いのはよくわかっているのだが、それにしてもピンポイントでこういう話を目にするものだと自分でも思ってしまった。裁判員制度に反対するデモが行なわれたという記事で、私自身も別にあの制度設計は支持していないというか何であんなんになっちゃったんだろうと個人的には思うわけであるがそれはそれとしてこういう批判の仕方はないだろうという話。
ええと、まず裁判官は人間ではないとおっしゃっているわけですね? あれは人間としてできないはずのことをやっていると。で、その外道なる裁判官のやらかしている裁判に対してケチはつけたいけど責任とか参加とかを負う気は一切ないと。あれはオレたちが手を汚すような作業ではなくて、でもその果実は堪能したいので不始末があったら声高に非難しますよと。ええっと、それなんて江戸時代の非人差別?
いや「人は人を裁けない」のでもう応報刑とか教育刑とか関係なしに近代の司法システムを全廃しますと、当然治安が維持できなくなって犯罪とか復讐とか横行しますがそれで仕方ないですそれがあるべき世界なんですと言われたらそんな無茶なというかあなたご自身がそういう理想を抱くのは構いませんが我々の生命権を犠牲に追求しないでくださいと言いたくはなるものの、宗教者として徹底した一つの立場ではあると思うのである意味で尊敬すると思う。だけどその場合裁判というのはケチをつけるつけないではなくて全面的に排撃すべき対象であるはずなので、上記の発言とは相容れない。結局玄侑宗久がはしなくも露呈しているのは、自己の欲望を他者へと疎外し・かつその他者を否定することによって欲望の果実は享受しつつその欲望からは無垢であると信じ込みたいというある種の心性なのだなと、それは我々が近代化を通じて克服することを目指してきた部落差別・刑吏差別の論理そのものなのになと、そう思うわけである。
というかこういう自己を無謬の地位に置こうとする見解・自らが罪とともにあるということを堂々と否定する主張を仏教者が展開するというあたりに、一仏教徒(とidentifyしている人間)としては正直吐き気を禁じ得ない。ああこれが人々の差別的心性に迎合した日本の葬式仏教のなれの果てかと改めて感じ入るところなきにしもあらず。
デモ全体に対しても、なんか「裁判員制度は現代の「赤紙」だ」というスローガンを掲げられたらしく国家の権力作用に直接参画する権利権限を解放されるのが故なき負担だってえ主張を聞いたら「代表なくして課税なし」と叫んだアメリカ建国の父祖たちだの民族の自己決定に命を賭けた植民地独立の闘士たちだのどういう顔をしますかねと言いたい気もするのだが、まあこれも前段と同じ話であって、この人たちにとって国家てのはどこか外部にあって自分たちを支配する存在なんだろうね。マルクスとか真面目に読めよという気がするんだが。
Trackback(0)
このブログ記事を参照しているブログ一覧: ある心性
「肉はおいしくいただくけれど、食肉加工の現場についてはなにも知らないままでいたい」ということでもありましょうか。いやお坊さんですから肉は食べないのかもしれませんが、そういう人間の業みたいなものと正面から向き合うのが仏教じゃなかったかという感じがします。
それで思い出したことがありまして、以前ある文章(翻訳)を校正していたとき、血の溢れるクジラ漁を残酷と批判する海外メディアに対して、地元の漁師が「あなたも食肉加工の現場を見たいとは思わないでしょう」と述べるくだりがあったのですが、最終的に削られていました(この程度の書き方ならばれないかな……)。おそらく差別表現の絡みでしょう。個人的には、この発言は漁師による「あなたがたの批判はかようにダブルスタンダードであり矛盾と偽善を孕んでいるのだ」というクリティカルな反論であって差別云々の問題とは独立しているだろうし、そもそも原文は本国で公開されているんだから問題ない、むしろ載せるべきとすら思ったんですが、なかなかそうもいかないようで。
そんな事例を思い出すに、
>自己を無謬の地位に置こうとする見解・自らが罪とともにあるということを堂々と否定する主張
に正当性を与えてきたのは、「差別をなくせ」に代表されるような美名のもと、被差別側への「配慮」を理由に言葉狩りのような「自主規制」などを繰りかえし、結果として「罪」を解消するのではなくただ見えないように隠蔽するだけで済ませてきたマスメディアだろうかと考えたりします。社会の一部を直視しがたいタブーと認定し、それを人々の目に触れさせないようにしてきた態度の果てに、玄侑氏の意図せざる無邪気な差別も生じたのかなと。
まあわたしもその隠蔽にすでに荷担してしまっていることになるわけで、忸怩たるものがあるわけですが。
自分が捕まったときにもし自分が裁判員だったら確実に冤罪作りまくるだろうから恐いという意味で裁判員制度絶対反対の自分でも、こういうフリーライダー叩きには喝采を送りたくなりますね。ただ、http://netcity.or.jp/OTAKU/okada/library/books/mazime/No9.htmlみたいな『「知的増税」はぜったいに許さない!』というのもそれはそれで理はあるとも思うんですよね…。
お前もか善光寺、と言うことで。
http://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/081201/trl0812011311003-n1.htm
いや、
「裁判官は人間では無く神仏の代行者なのです。
私達俗人がそれに手を出そうなど罰当たりな」
と言うことかも知れませんが。
>なかの人さん
人民大衆がそれを求めるからマスメディアもそうならざるを得ないというところはあるだろうと思います。でもそれに自足するならジャーナリズムじゃなくて情報流通サービスですよね。
このあたりで需要の有無でなく突っ張る姿勢がたとえば明石書店にはあるような気がして、そこで本を出す著者については云々しても出版社自体を悪く言う気がしないのです。>大昔の話
>kogeさん
「知的増税」だという指摘は正しいと思うのですが、結局期待するサービス水準・給付水準を実現するために必要となるリソースを国民の知的・財産的負担によって調達せざるを得ないという条件は、点から富が降ってこない以上変わらないわけですよ。知的増税がイヤならそれだけ金銭による税負担を納得してもらえるのか、あるいは期待水準を切り下げてもらえるのかというのが問題だと思います。
とりあえずオタキング氏ご自身については、週刊アスキー連載で《いかに税金を払わないかで苦労した》みたいな話を延々書いていたことを鑑みるに「おまえ乞食か」という感想しか出てこないわけですが。いやまあ日本の租税システムの問題で払いたくなくなる・払えないという状況があることは理解していますけど。
>紅氏
なんかですね、「自分はしたくない」という気になる人がいることは理解できるのですが、なぜその《自分の理由》があらゆる他者に等しく共有されていると信じられるのかが問題だと思うのです。玄侑宗久が福島の新聞に書いた文章というのも見せてもらいましたが、第一にすさまじく底の浅い仏教理解だなと思いましたし(これは「なかの人」さんのご指摘にも関わります)、第二に仏教であれ神道であれなぜ日本国民全員が等しく尊重すべき価値であると前提できるのか、これキリスト教徒とか見たら激怒しないだろうかとか思いました。まあ端的に言うと「
なんだ左の田母神か」てな感じですかね。