前文の意義と法(2・完)

| コメント(0) | トラックバック(0)

こう書くと、しかしではやはり「前文」に「法的効力」がないというのは正しいではないかと言われそうである。だが第一に、「本文」7項目のうちdecides(決定する)という直接的に効力が発生する表現を用いているのは2項目のみ、しかも片方は「Decides to remain actively seized of this matter.(引き続きこの問題に積極的に関与していくことを決定する。)」という安保理決議締めくくりの決まり文句なので、実質的に意義があるのは国連治安支援部隊の権限を一年間延長した第一項目のみということになる。それ以外はcalls upon(要請する)、encourages(慫慂する)などあくまで加盟国などに行動を呼びかける文言であり、国連ないし安保理が主体的に何かをするわけでも、それを強制力をもって保障するわけでもない。だからそれらの部分には「法的効力」がない、無意味だと言ってよいのだろうか。あるいは、国連総会決議では国連の内部事項以外でdecides(決定する)が使われないのであるが(それは国連総会は加盟国に対して勧告する権限しか持たないから当然のことなのだが)、だとすると国連総会決議にも全体として「法的効力」はなく無意味であると言ってよいのだろうか。

実のところ、そう答えるのは一つの方法である。つまり「法」とは強制力に裏付けられた命令であるという考え方はそれなりに伝統があり、正当性もある。ただしこの場合、決議1776・本文第1項目のようにdecides(決定する)されたものであっても、確かに国連憲章第25条から「加盟国は、安全保障理事会の決定をこの憲章に従って受諾し且つ履行することに同意」しているのではあるが、しかしそれに反した場合への制裁が担保されているわけではない点に注意する必要があろう。実際、たとえばレバノンは2006年にイスラエルが継続的に行なった爆撃機による領空侵犯が国連安保理決議1701に違反すると主張したのだが、それでどうにかなったわけではない。安保理の「決定」も遵守されない状況が横行していることを考えると、「決定」すら「法」とは言えないつまり国際法は全体として「法」ではないという結論に至る。「法」はあくまで暴力と強制力を独占した国家主体がいる国内領域でのみ存在し得るものであり、その外側の国際領域には「政治」しかない、というわけだ。これはこれで一つの立場なのだが、ということは国連決議などはそのすべてが「法」ではないのだからありがたがるのは馬鹿げており、重要なのは直接的に他国の行動を規制し得る能力(典型的には軍事力)をどの国がどれだけ保有しているかだというリアル・ポリティクス的な観点に必然的に接近するので、まあおとなしくアメリカの言うこと聞いておいた方がいいんじゃねえかという(多分伊勢崎氏的には)嬉しくない結論に至りそうである。日本国憲法についても前文の直接的効力は否定されているので平和主義を定めた部分は「挨拶程度のもの」という副作用も付いてくる(いや9条は有効だけどな)。どうなのかそれは。

そうではなく、たとえ直接的な効力や強制力との関連がなくともそれが存在することによって各主体の行為選択が変化することが「法」の存在様式に含まれると考える立場は、軍事力だけでなく規範形成力というか、そういうものが国際政治を動かす重要なファクターたり得るし、主として規範的呼びかけに依拠する「国際法」が国際政治とは独立の領域として存在し得ると考えることになろう。たとえば地雷禁止国際条約(オタワ条約)は他国への強制力という裏付けをまったくもたないNGOによって提唱され、ハードパワー的には大きくない諸国の支持を受けて国際的に採択されるに至り、強制力の観点からはNGOや小国を鎧袖一触できるだろうアメリカですら事実上その基準を尊重せざるを得なくなっているという。このような事態は、暴力とはとりあえず独立した規範形成力という観点から考えた方が理解しやすいし、実のところ国際政治学も「ソフトパワー」論のようにそういう側面を重視するようになってきている。さて、ではこの観点に立った場合、形式的な直接的効力の有無という基準によって安全保障理事会決議の「前文」と「本文」を区別することに意義があるだろうか。

問題はこういうことである。「法」を狭く、直接的な強制力と結合した存在として捉える場合、そもそも国際法は全体として「法」ではないので「前文」と「本文」の差は生じない。他方「法」を広く、規範的な正当性主張の根拠として機能するものという観点で捉えるなら、国内法の世界において直接的な法的効力を持たない「判決理由」が解釈指針ないし先例として尊重されるのと同じく、「前文」にも「本文」と同様の、さらに言えば普遍的適用可能性という意味においてそれを上回り得るような「法」的性格があると言わなくてはならない。どちらにせよ、伊勢崎氏が主張したような二分法は成り立たないのである。

***

さてそこで問題は、伊勢崎氏は何故このように初歩的な無理解に基づく主張を展開したのかという点に移る。候補は大きく分けて二つあり、第一は本気でそう信じているというもの、第二は誤っているのはわかった上であえて主張しているというものである。私個人としてはそのいずれかを判断するだけの材料は持っていないと思うが、後者であるとすれば氏は要するに自らの政治的主張のために真実をねじ曲げるデマゴーグであり、まあしかし現に大学のポストを占めているということを除けば国際政治にはそういう人がぞろぞろ絡むものなのでまあそういうものだと思うしかねえなと思う。一方前者である可能性もそれなりにあると個人的には考えており、何故かというにまず伊勢崎氏は(公表されている経歴を見る限り)法学教育を受けた形跡がないようである。多分仕事に必要な範囲での国際法などに関する研修は受けているのだと思うが、しかしだとすると法律学・法実務が規範的正当化を争う営為であるとか、その上で「理由」がどれほど大切かというような感覚が欠如しているのも理解できなくはない。

もう一つは伊勢崎氏やその周囲の人々は確かに「前文」など「挨拶みたいなもの」だと言い合っていたかもしれないということで、まずその内容が安保理理事国やその他有力国の外交官同士の交渉や取引に左右される、ということは国連の内部にいる職員などの視点から見れば忠誠の対象を共有しない連中によって「雲の上」で勝手に決められてしまうものという位置づけだったかもしれない。さらに言うと、たとえば国内法の場合を考えれば拘置所の係員にとって重要なのは判決主文が懲役なのか死刑なのか無罪なのかということであって判決理由とかどうでもいいよなと。つまり彼にとっては当該被告人の処遇をどのようにすればいいのかという、自分の従うべき指示を明確化してくれる部分こそが判決の生命であろうなと。言い換えれば規範解釈者でも規範創造者でもない、規範遂行者の視点からは、そりゃ判決理由だの「前文」だのは「挨拶程度」の「前振り」だろうなとは思う。ものすごくレベルの低い視点だけどな、それ

***

まあいずれにせよ我々としては、というのは法的な「正しさ」というものがこの世界において如何にあるべきかというようなことを考える人々のことを想定しているのだが、「さようなら」と言って手を振ればいいのかなという印象である。いや政治の側面について言えばデマゴギーだろうが何だろうが動くときには動かせるわけだし、正当性とかじゃなくて目の前の事態を処理する権限と暴力が付いてくるかどうかが問題だと思ってくれる人がいないと世の中回らないので、どちらにせよご当人を辱めようとは思わないのである。単にそういう人を間違ってあがめている周囲があほおだと思うだけで、つまり結局は週刊文春なんか読んだ私が悪かったと、そういう結論に帰着するわけだが。

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://www.axis-cafe.net/cgi-bin/mt/mt-tb.cgi/568

コメントする

2012年10月

  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      

Monthly Archive

Webpages

Powered by Movable Type 5.14-ja