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読むわたくし(2・完)

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でまあここからは資料を読みながらぼんやりと考えていたことで、問題意識としては上記二冊とも関連してくるところがあるのだが、つまり「国民統合」がそれほど絶対的な価値かということだ。

『思想地図』1号(いただきもの。ありがとうございます)の対談で萱野先生が、貧困層が社会福祉を要求する根拠としてナショナリズムを逆用する可能性というのを主張していて、そうやなと思う部分とそれは逆用なのかと思う部分というのがある。つまり「長いナイフの夜」までのナチス突撃隊とかを見れば貧困層がナショナリズムと結びつくとか、それがブルジョアジー・国防軍のようなエスタブリッシュメントと対立しながら既得権解体を主張するというのは不思議なことではない。我が国でも最悪の形では二・二六事件として暴発した陸軍の貧民救済志向というのは当然に皇道派のナショナリズムと重なっていたわけだし、既得権益層を批判する立場からむしろ共産主義に同情的な陸軍軍人の姿、というのは佐藤卓己『言論統制』(中公新書)にも描かれていた。それと対応するように、労働運動とか無産政党の側でも対外的な積極的軍事進出を通じた景気浮揚と既得権益の破壊に期待する勢力がむしろ強かったというのは、坂野潤治先生などが指摘しておられる。むしろ、この結合に基本的に距離を置いた(その故に戦前の左派運動においてはごくマイナーな地位しか占められなかった)日本共産党が戦後の左翼運動の中心になったという偶然的な事情から、我が国ではこの結合関係が見えにくくなっていたに過ぎないのではないかとも思われる。

問題はその裏側で、じゃあ貧困層に「同じ国民なんだから」という理由で社会福祉負担を要求された裕福な層が「そうだな」と思う義理はあるのかどうかということだ。古典的な事例としては、トクヴィルがフランス革命を「平等化」の帰結と捉えていることを思い起こすべきだろう――ここで「平等」とは、特権階級と第三身分が同じ人間であるということの認識を意味している。革命に先立つ時期において、すべての人間が人間として等しいという認識が社会に普及したからこそ、にもかかわらず存在する不平等への怒りを支えることになった。平等への認識が存在しない時期には、革命前夜より社会的な格差がはるかに大きかったにも関わらず、それが不当なこと・不正なこととは思われていなかった......

さて現代の文脈では、「同じ国民として」という平等意識が問題にされているわけである。このような訴えかけに対して、たとえば徹底したコスモポリタンは同情を示さないのではないか。彼にとって人類は等しくその福祉が考慮されるべき対象なのであり、アフリカなどで大量の絶対的貧困者が苦しんでいる以上、我が国における相対的貧困層の問題がそれに優越するとは考えられない。もちろん彼は現に日本で富を抱えている層には「国民」を根拠にする貧困層と同じく批判的だろうが、すべての人間を直接的な分配的正義の対象として捉える(国内の・個人を対象にした分配問題と、国際的な・国家を対象とする分配問題の違いを認めない)場合むしろ日本人全員を収奪の対象として判定しだすように思われる。このようなコスモポリタンに対し、「国民」派は何が主張できるか。

あるいは、大切なのは国籍や肌の色ではなくてその人の人格と能力ですというわりと聞こえのいい主張に立ってみよう。そこで、女子大でフランス文学を専攻した趣味の良いお嬢様が「私としては、A区の貧困層やM公園のホームレスより、ガーナ出身で大学教育を受けたけれど職がなくて苦しんでいる黒人男性の方にシンパシーを感じます。我々の払う税金は、このように能力があるのに生まれた国のせいで報われない人たちを救済することに優先して使ってほしい」と言い出したらどうするか。これに対して、そうではなく国籍を優先して救済対象を決めるべきだと主張できる根拠は、どこにあるだろうか。

念のために言うと、私は別に国内の貧困層とかホームレスの救済が悪いとか間違っているとか思っているわけではない。ただ、多分に偶然的な事情ながら途上国支援にコミットし続けている身からすると、ナショナルなものに基づく救済への主張が途上国支援よりも国内の貧困対策という論理に進んでいくならば、それには納得しがたいものがあるなあと思っているに過ぎない。被治者の視線に立つならば医療費不足による受診回避や社会福祉不足による餓死がニュースになるなんて幸福な社会だなあということだし、統治側の視点に立てば国内貧困層より途上国エリートに投資した方が我が国の税収を増やすためには効率的ということは十分にあり得るし、それは結局貧困層救済のための財源が拡大することになるんだけどな、ということでもある。

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koge Author Profile Pageさんのコメント (2008年10月 5日 18:15):

>国内貧困層より途上国エリートに投資した方が我が国の税収を増やすためには効率的ということは十分にあり得るし、それは結局貧困層救済のための財源が拡大する

そこでそもそもいくら優秀な人に投資しても総体として拡大することなどもう不可能だという環境保護派が出てくる(ナショナルにもコスモポリタンにもいる)からまた複雑になるんですよね…

水際 さんのコメント (2008年10月 8日 02:44):

はじめまして。少し前から日記を読ませていただいています。

社会福祉の対象を「国民」に制限する理由ですが、これはリスクヘッジの一つであるとして説明できないでしょうか?
私は現在、幸福にも一定水準の所得を持ち、社会福祉をある程度負担する立場にあります。しかし、病気事故、あるいは自分の致命的な失敗などの理由によって、ある日を境に「A区の貧困層やM公園のホームレス」の立場に立つ可能性は十分に考えられます。
その可能性を考えた場合、私や家族、友人達(を含む全構成員)が健康で文化的な最低限度の生活を送ることを保障する(少なくとも保障するよう努力する)社会を維持するためのコストを支払う事は、十分に合理性があるように思います。

一方、私や家族、友人達が「能力があるのに生まれた国のせいで報われない」ような環境に身を置くことは考えにくいので、そのような人達を救済した所で私に得は何も無い。そんな事に私の税金を使うな、と要求する事も可能であると考えます。


まあ煎じ詰めれば、「私が餓死する可能性を0.01%下げるために外人が何人死のうが知ったことか。平等? 何それ美味しいの?」という主張なので、正直格好いいものではないですが。

おおや さんのコメント (2008年10月16日 19:15):

>kogeさん
なるほどそれはおもしろい。>環境保護派
でもまあ「可能な限り縮小を避ける」という政策目標に同意できるのなら、政策の効果をめぐる事実検証の枠組は共有できるかなという気はします……「多い方がいい」という価値観は共通しているので。むかし小林和之さんが書いたみたいな「緩やかな絶滅」主義者はその観点も共有できないので、より厄介でしょうね。

>水際さん
ども。その考え方は《個人の意思決定方法》としてはきわめて一般的なものだと思いますが、そのまま《社会全体の意思決定方法》に直輸入していいかと言われると問題が出ます。あるいは、その帰結は「正義」との不一致を引き起こす可能性が非常に高い、と言いますか。
典型例としては人種差別を考えていただけるといいと思いますが、白人が8割・黒人が1割を占める社会で私が白人であり家族も友人知人もみな白人である場合、肌の色が明日から急に変わる可能性はありませんから私個人には人種差別に反対する意味ないしメリットは別にないことになります。むしろ、社会的な地位獲得競争を緩和するために黒人を被差別者の地位に固定することの方が有利であるかもしれません。この場合、個々人が積極的に人種差別撤廃のために行動しないとか抵抗するというのは「まあそうやな」という程度の格好の悪い事実ですが、《従って社会全体も人種差別を撤廃しないことを選択すべきである》ないし《選択してよい》と言うのかどうか。
まあ現実にはもちろん、だからアメリカにおける人種差別の解消は遅々として進まなかったわけで、それぞれの《個人の意思決定方法》を集計するだけの「民主政」ではよくない、《社会全体の意思決定》を規定する規範的議論が必要だと、そういう話になります。ここで問題にしたのは、そういう規範理論の次元のお話です。
現実にはまあ、たとえばヒトラー勝ちますよね('・ω・`)。受け入れやすいメッセージで《現存する有権者》の支持を獲得したものが偉いというのが現実の政治のルールですが、それとは別にその評価基準の話をしますと、まあそういうことです。

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