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幻想の共同体
実家に寄ったので読売を読んでいたら、秋葉原の連続殺傷事件は人を取り替えのきく部品のように扱う現代社会の帰結で犯人を暖かく包む伝統社会とか共同体とかがあれば起きなかったのではとか書いている人がいてええと津山三十人殺しってどういう時代に起きたんだっけ(挨拶)。世話好きおばさんがいたら非モテでもお嫁さんとか来てくれて幸せになれたのではとかいう趣旨のことが書いてあったような気がするんだけど、匿名性が高くて属性を隠蔽できるネット上の掲示板ですら「こいつなんかヘン」だと気付かれちゃうような人間の居場所が閉鎖的で固定的な共同体にあるわけないじゃん。村中から後ろ指差されて違う形で暴発してただけなんじゃないの、とは思うところ。
というか現代社会が行為や所属の領域を分断することによって「ちょっとヘン」な人がそのヘンさを日常とは違うところで表現したり発散したり、とにかく周囲の社会には気付かれずに平穏無事に生きていく可能性を高めたのは素晴らしいことだと思うし、世の中の「ちょっとヘン」な人の多くがそうやって何とか自分と社会の折り合いを付けながら生きているなかであの犯人はそういうことができなかったわけで、そういう人間をも包摂するような共同体を再建するというのはものすごく同調圧力が強くて「ちょっとヘン」なだけの人も窒息してしまうことになるか、さもなければ「すごくヘン」な人も笑顔で受け入れろという逆方向の圧力を普通の人に強制する社会になってしまうのではないか。「壊れた方が勝ち」という社会もモラルハザード起きまくりで崩壊するんじゃないの、世話好きおばさんに犯人みたいなのをお世話されちゃう女性の人権とか考えろよとまあそういう話である。
なんか進学校で挫折して云々という話も聞くがあのね進学校ってそういうところだから。犯人が行っていた高校のことは知らないが、たとえば小学校で一番二番を争う子を集めて作るのが名門の中高一貫校であり、従って進学すると95%くらいの子は従来のような集団内の位置を失うわけ。周囲にいるのは自分と同じ「村一番の秀才」ばかりで、その中の競争に勝ったごく一部以外は(集団内での)「凡才」とか「劣等生」に転落するわけですよ。もちろんそれでもより広い社会で見れば相変わらず優秀な集団のなかにはいるんだし、この運命は一人だけではなくて同級生の多くを襲うわけだから、ほとんどの人はそういうことを考えながら結果としての自分の位置付けというものに気付き・それを受け入れて自意識を形成していくわけです。もちろん勝ち残った「県下の秀才」たちはまた大学で同じ目にあってそのほとんどが集団内での地位を失っていくわけで、《自分は優秀である》なんてえ自意識を本当に維持する資格があるのはごくごく一握りに過ぎない。
問題なのは、にもかかわらず敗北を受け入れて自意識を再構成していくのではなく、肥大した自意識を維持するために現実認識を歪めるという安易な道を選ぶ人間が一定程度はいるということであって、しかも自意識的な「自信満々度」では本当に勝ち残った人と区別が付かなかったり、むしろ無根拠なだけに傷つくこともなくてより完全だったりするということだろう。結果としてその種の人間を信じてしまう「被害者」も発生するし、これは分断化された現代社会の負の側面として「あれは威張っているだけで中身はない人間なので真剣に取り合ってはいけない」という社会的評価は共有されにくいわけである。この問題を防ぐ方法は機会あるごとにそういう自我ギャップを叩いて矯正するしかないのかな、とは思うところ。
だから秋葉原の犯人みたいなのは指さして全力で嗤うのが正しいと、そう思うわけである。他人を傷つけることで自己の肥大した自我を正当化することなどできないと思い知らせることが、そのような自我の持ち主が他人を巻き添えにしながら崩壊していくことを防ぐ方法なのだと。硫化水素自殺のときにも思ったことだが、メディアの対応は被害の拡大や再発を防ぐ方向には向かっていない(それがメディアの使命なのかどうかについては議論の余地あり)。トンチンカンな善意より冷ややかな悪意の方が善に近いのだと、まあそういう話である。
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しかしその手の人は叩いて矯正しようとして逆恨みされるのと、叩かれずに肥大化しすぎて暴発するのとどちらがリスクが高いのか(今回の彼のような場合そのどちらをとっても結果は同じではなかったのか)という懸念もありますね。
おおや先生が天寿を全うされる頃にはそのような危険性の高い人を遺伝子診断とかで見抜けるようになる気もするんですが…。
>kogeさん
トラブルの種は早めに小さくたたいてつぶして、ではないかと思うのですが個人的には。あまり理論的な根拠はありませんね(笑)。