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すいません、テキトーなこと書きました(挨拶)。いやよく考えたらNHK事件に関する判断の根拠は放送法3条に定められた編集の自由であり、同3条の2にある公正中立義務などを守るために被取材者の期待に応えられない可能性があることを被取材者も当然に知っている[はず|べき]であるというのが論拠の一つであるところ、同法はもちろん映画には適用されないので『靖国』事例においては被取材者の期待をより強く保護すべきという主張はあり得るのでした。もちろん根本的なのは放送にせよ映画にせよ表現の自由との対立であって、被取材者には取材に応じるかどうかの選択の自由がある以上その期待を過剰に保護すべきでないという考え方のスジは共通であり、私自身は映画についても最高裁判決の論旨でいいのかなあと思うところではあるが、保護可能性の主張を全面的に排斥した点は誤りであったかと思う。でもApeman氏がツッコむのはそこじゃないのね

というわけで某所でわざわざURLまでお示しいただいたので読みに行ったところApeman氏が相変わらずであることを確認する。「雑感」で私が書いたことに対する批判なのだが、少なくとも私からするととてつもなくどうでもいい部分(のみ)を扱っている上にその内容も間違っている。以下、数点にわたり述べる。

第一に、私の「[NHK事件の原告たちは]『靖国』の件はどう考えるのか」という疑問について「高裁判決のいう「特段の事情」はないでしょ、でFA。」とお書きである(これははてなブックマークでのコメント)。つまり事実認定で切ろうという話なのだがその「事実」はいずれかの当事者の主張ではなくApeman氏の認定した事実ないし氏が真実であると信じたところのものである。もちろん実際にたとえば訴訟になって双方当事者が主張を行ったのちに認定された事実が氏の信じているものと同じか近いものになる可能性は十分あるのだが、しかしそのプロセスを経たわけでもないのに自らの事実に関する信念が「ファイナルアンサー」の根拠として他のあらゆる当事者の信念に優越すべきものだと信じられる根拠はよくわからない。おそらく氏には自分が事実と信じていることと客観的に事実と判定されたもの(と扱われるべく社会的に規約されているもの)の差が理解できないのであろう。これは一面において自らの認識した「事実」に対して抱いた強い確信が非常に精力的な活動の源泉になり得るので悪いとばかりは言い切れないことなのだが、他方で自分とは異なるが合理的な判断というものがあり得ると考えないので思考が一面的で偏狭になったり、暴走を止めることができなくなったりする。まあ「立○隆症候群」とか呼んでもいいのであるが、以前に指摘した「自分の議論と「ぼ、ぼ、ぼくがローゼンメイデンがこんなに好きなのになぜ君は見ようともしないんだあああああ」とかいう主張との違いがあるかどうかについてもう少し自覚的な方がいいんじゃね?」という問題の由来はこのあたりにあるのかなという気がする。

第二に、これがファイナルアンサーになり得るというのはアカデミズム的には恐るべき感覚で、まあ試しにLSの教室あたりでやってごらんな雷落とされるから。いま、要保護性か権利性かにおいて「A1<A2≦B」という序列があるとする。前述の通り厳密にはこの序列を無前提には想定できないのだが、Aが『靖国』事例、BがNHK裁判であると考えることができよう。Aの1と2は想定される事実関係の差で、A2は原告サイドの主張における事実、A1は被告サイドの主張による事実である。さてここで、B事例において要保護性を肯定する判決が出されたので「A事例についてはどうか」と聞かれたのに対し、Apeman氏は「事実は1なのでA1では保護されない」と答えたと、こういうことになろう。「じゃあ事実が2だったら?」って聞き返すよ、法学者なら絶対。

というのは、Bが保護される以上《保護される事例とそうでない事例の境界線》はBより左側にあるはずである。Apeman氏のA1は保護されないという答は境界線がA1より左にないという内容を含んでいるが、A1とA2のあいだにあるのか、A2とBのあいだなのかは確定できていない。法学的に言えば各事例における判断はそれらを貫徹して存在している規範を個別の事実関係に適用した結果であり、そしてその規範の内容(ここでは保護されるべき事案の限界)を明らかにすることがアカデミックな法学の課題なのであるから、氏のその点を明らかにしない回答がファイナルなものとしてアカデミズムに通用するはずはないのである。

ただし、これがただちにそれ自体悪いという話ではない。仮に氏が裁判官であり、証拠に照らして目の前の事例がA1だと判断した場合には「保護しない(境界線はA1とBのあいだのどこか)」とのみ判示すれば基本的には十分である。それで当事者間の紛争には結論が出せるのだし、A2について今回の事案で慎重に検討されたわけでもない以上、その事例の保護の要否について決定的な結論を出すことは避けるべきだ......というのがたとえばこないだサンスティーン教授が主張していったjudicial minimalism(司法最小主義)。アカデミズムは、実際の裁判が課せられているような事案と時間の制約から自由なので仮想的に条件をいじって規範の内容を解明する余裕があるわけだが、それは裁判所の任務では、おそらくない。従ってApeman氏の感覚がアカデミズム的に恐ろしいというのは単に氏に(法学)アカデミズムに対する適性がないということであって、他の分野への適性とか能力がないということは意味しない。むしろ過度にアカデミックでない方が実務的に優秀であるという事態はしばしばあるしねえと、これは神戸レクチャーの時にも思ったこと。

第三に、Apeman氏は法律的見解の主張可能性の条件を理解していない。まずもってNHK裁判における高裁判決は確定していないのだから、それに対してもっと保護範囲を左側に広げろとか右側に抑えろとか主張することは自由なのである。と書くと氏は高裁判決は「特段の事情」がある場合に要保護性を認めよという原告主張を高裁が認めたものだから、それがない場合にまで保護範囲を広げろという主張はできないと言うのかもしれないが、事前の主張範囲に縛られるのは原告だけであり、訴訟外の第三者の主張可能性がそれに制約されるいわれはない。また、高裁判決はBが保護範囲に入ることを認めたものであってBより左側に保護範囲がないと判示したわけではないから、もう少し左に境界があるんじゃないかという主張は高裁の判断にすら反していない。特に、『靖国』事例の関係者はおそらく「特段の事情」があると(それが正当かはともかく)思っているわけである。従って、高裁判決を受けてその人たちが「我々も保護される」(事例はA2であってそれは「特段の事情」があるケースである)と主張することはその人々にとっては自然である。もちろん上述の通りその信憑は誤っているかもしれないが、客観的な事実が確定できない段階ではその主張を排斥することもできないと私は考える。自分にとっての事実と客観的事実の区別がつかないApeman氏には私の態度が《その人たちの事実判断に同意している》と見えるらしいのだが、私は単にその人たちの主張可能性を排斥していないだけのことなのである。

さて次に、「Bでも保護しない(境界線はBより右側のどこか)」という内容の最高裁判決が出る。まあ本当に確定するまでには日数が必要なのだが実質上ほぼそのまま確定判決であると言ってよい。である以上その内容は今後の事例に対して規範性を持ち、当事者だけでなく第三者も含めてその内容に反する主張をすることができない(正確には主張しても構わないがそのトンデモ度が上がる、とはいうものの世の中そういう勇気ある主張者のおかげで判例が変わったりもするので絶対にダメではないあたりがややこしいが、まあ基本的には負けるので裁判で主張するのはやめたがよろしいというぐらいの意味)。前述のような要保護性の序列を前提にした場合、BでもダメなのだからAは事実関係が1であるか2であるかを問わずダメだということになろう。従って私は、事実関係をめぐる信憑にコミットすることなくその主張はできないと『靖国』事例について述べることができる。

というわけで私による「映画『靖国』を批判している人は別の論拠を考えるように」という主張可能性の否定を「高裁判決を前提としても言っておかねばならない」と批判するApeman氏は、第一に主張可能性の肯定と見解自体の肯定の区別ができていないし、第二に要保護性の序列を前提にした各判示事項が持つ意味が理解できていないと、まあそういうことになろう。というか私自身は最高裁判決にも高裁判決にも特段のコミットメントを示しておらず単に最高裁判決がどのような社会的帰結を持つか・主張可能性の範囲をどう変動させるかを述べただけなのだが、それに対して「最高裁判決を批判し高裁判決を支持する者」として応答しようとするあたり、Apeman氏は本当にメタとベタの議論が区別できないのだなあと、区別する必要はない・してはならないと力説していたことも踏まえつつ、思うわけである。まあ私は別にそういう生き方を否定はしないがそれでは法律に関する議論として通用しないので、上述したことも踏まえてアカデミズムと法律問題に口出ししなければその能力を生かせるのではないかと余計なアドバイスをしてみる。いや私は氏には一定の能力があると心から思っているのだが(特に私の書いたことを私自身よりよく覚えているらしいところは本当に偉いものだと思う)、一方で自己の能力的・適性的な限界について無自覚なところと自己の正当性を過信しているところが氏にとっての世界を狭めているのだろうなあと嘆息するところである。

最後の部分、ちょっと先日同僚と飲んでいて能力に関する客観的証拠を欠くのに自分は天才であると信じて疑っていない人物の話題になり(これはもちろんApeman氏のことではない。話題の主に比べればおそらく氏の方が――私は氏の書いたものをごく少ししか読んでいないけれども――全体として能力が高く、自己評価は低い)、高い自己評価のもたらす希望と限界というようなことを考えて感傷的になっているのである。人が自己の可能性を生かさないのは悲しいことだと思ってしまうあたり、実は私は結構隠れperfectionistなのだなと、まあそういう話であった。

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そもそも、「特段に期待権を持ちえる」ほど、当事者(しかもある政治的主張を持つ団体)と一体化してNHKの番組を制作するよりは、「あなたの視点に全面的に沿ったつくりをするわけではありません、批判的な視点も随時織り込む可能性はありますよ」ということを伝えて、距離を置いたほうがNHKにとってはよりよい番組づくりのありようだと思いますけどね。

仮に今回の番組に「期待権を被取材者が抱けるほどの特段の事情」があったら、そんな番組作りをしたこと事態も批判の対象になるのではと思います。

>Gryphonさん
放送についてはおっしゃる通りで、民放であっても公正中立義務がありますから基本的に当事者とは距離を置くべきなのですね(ある特定の立場に一体化した報道を行なうかわりに、それに対立的な立場に一体化した一定の時間・内容の放送も行なうというアメリカ的中立性確保の方式はあり得るかもしれませんが)。
第一審はその点を踏まえて、NHKには期待を保護すべき理由はなく、制作会社には《抱かせるべきでない期待を抱かせた》過失があるという判示だったかと記憶しています。法的判断としては控訴審判決のみが突出していたと言わざるを得ないでしょうね(それを「画期的」と肯定的に評価するか、「暴走」と否定的に評価するかはまた別の問題ですが)。

ここにも馬鹿が1匹いたよ。映画「靖国」とNHKのETV特集「問われる戦時性暴力」はまったく比較にならない。馬鹿馬鹿しいにも程がある。
>特段に期待権を持ちえるほど、当事者(しかもある政治的主張を持つ団体)と一体化して番組を制作する

ことをNHKを企画したのですよ

1まずNHKはそれまでタブーだった、「天皇の戦争責任」と「ジェンダー(即ち慰安婦)」をテーマとする、これこれこういう番組を作りたいから協力してくれと、VAWNET-JAPANに申しこんだ。直接のテープ編集を行った外部プロダクションは実際にそういうテープを一度作りNHKに納入した。その内容は、台本の形で裁判でも明確に示されている。事件はここから起きている。

2改ざんされた番組は、以下の点で当初の企画とまったく異なっており、最初に説明があればVAWW-NETジャパンは取材を拒否した可能性が高い。
改ざんの内容=1:天皇の戦争責任は削る、2:慰安婦の内容は伝えない、3:慰安婦の強制連行は否定する、4:女性戦犯法廷は否定的に伝える。

なお、女性戦犯法廷では、天皇の戦争責任がはっきり訴追され、昭和天皇に有罪が宣告されている。

こういう事実関係を今回メディアは報道しないから、ここのブログ主のようば馬鹿が、見当はずれのブログを書くのだな。

ブログ主は反省して、すぐに記事を直すべきだ。

無知な人間にただ馬鹿といっても通じないから・・、
下記を参照しなさい
http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=NHK%E7%95%AA%E7%B5%84%E6%94%B9%E5%A4%89%E5%95%8F%E9%A1%8C&oldid=14780736
「改変内容は、法廷自体の説明の削除、原告も被告も説明しないこと、女性国際戦犯法廷に否定的な秦郁彦のコメントを加えること等であり、この結果放送された番組は同一シリーズの他番組より4分短いという不自然な形であった。この編集により主催者の歴史的認識より秦の主張がより強く視聴者に訴えかけるものになり、女性学者の発言機会が大きく削られることで番組自体が、男性による女性蔑視的構造をもつ事になってしまった事、そして主催者の主張である慰安婦という仕組みでの日本政府および軍の行いが、国際法上の犯罪、戦争犯罪であるという主張が曖昧なものになった」

なおNHKはNHK特集、NHKスペシャルなどで、WW2などの多くの歴史ドキュメンタリーを製作放映しているが、東京裁判で天皇が訴追されなかったことは題材にすえるが、天皇にどれだけの戦争責任があったかを題材にした番組は作ったことはない。これはNHK自身が製作配布している、NHK特集・NHKスペシャルの全リストから確認できる。

更に、NHKは現在多くの昔の番組をアーカイブとして公開しているが、問題となったETV特集「問われる戦時性暴力」は視聴できない。4分短い異常な番組を多くの市民が見れば判決とは関係なくNHKの非が明らかになるからだろう。

ブログ主はそういうことも知らないで、あーだこうだとただ理屈だけをこねている愚か者である。

>当初の企画とまったく異なっており、最初に説明があればVAWW-NETジャパンは取材を拒否した可能性が高い

だからバウネットが「俺たちと約束したのに、変えるとは何だ!」という批判をするかもしれません(その真偽はおいて)が、第三者からの批判としては「約束どおりに作れ」以外にも「そんな約束を元からするべきじゃなかった」という批判もなりたちますよね。

余談ながらそのリンク先で
「女性国際戦犯法廷に否定的な秦郁彦のコメントを加え・・・た。この編集により主催者の歴史的認識より秦の主張がより強く視聴者に訴えかけるものになり、女性学者の発言機会が大きく削られることで番組自体が、男性による女性蔑視的構造をもつ事になってしまった事」

とありますが秦の主張が「視聴者により強く訴えた」としたら、その内容によってという可能性は無いのでしょうか(笑)。「番組自体が、男性による女性蔑視的構造をもつ事になってしまった」というのも、「はいはい、書き手の主観としてはそう思ったんですね」としか(笑)。いいのかネット百科事典。

本題に戻ると、番組作りの時に「秦さんにコメントを求めることもあります。貴方がたへの批判的意見も載せる可能性があります。それはこちらの判断です、あなた方は口を挟まないでください」というのが、本来あるべき番組づくりだと思います。
そのため相手が断るなら、断念するのも勇気です。

それを制限できると相手が期待できるよう約束したら、
製作会社(NHK)―取材の受け手間で受け手が約束の履行を求めるのとは別に、他の人からその制作会社(NHK)に「そんな番組作りをするんじゃない」という批判が出てもやむを得ないと思います

あと、NHKアーカイブですけど、そもそもアーカイブには全作品あわせてまだ6000本。未収録作品のほうが多いぐらいです。
Nスペの「奪還ーフォアマンの戦い」も「おむすぶアメリカを行く」も「土俵の鬼の旅路」も「なせ隣人を殺したか」まだ見られません。

「NHKは現在多くの昔の番組をアーカイブとして公開しているが、問題となったETV特集「問われる戦時性暴力」は視聴できない。4分短い異常な番組を多くの市民が見れば判決とは関係なくNHKの非が明らかになるからだろう。」
というのは一種の陰謀論かと。

それにもし、意図的に公開していないとしたら「番組を見れば裁判結果とは関係なく、こんな番組の企画や制作自身に問題があったことが明らかになるかだだろう」
なんていう”陰謀論”だって同様に成立しませんか?

これに関しエントリを書いたので参照して欲しい
http://d.hatena.ne.jp/zames_maki/20080707


>というのは一種の陰謀論かと。(Gryphonのコメント)
この人が自分で理解しているか否か知らないが、いわゆる歴史修正主義者の使うフレーズをそのまま使ってる。

歴史修正主義でよく使われる論法とは、問題の本質には触れず、細部に何か疑いがあることを根拠に、問題の本質も含めて否定しようとするやり方である。

放送直前まで手を入れ、4分間短くなってしまった番組が、どんなものであったか?という本質を、こいつは避けようとしている訳だ。つまりこのGryphonは、(本当にどうかはわからないが)歴史修正主義者に見えるという事だ。

とりあえず、ウィキペディアを全面的な論拠として自分の議論を展開するのは――それがどの言語の版であろうとも――危険で論者のメディアリタラシーのなさを吐露する以上の効果をもたない、あれはそのような利用法をするリファランスとしてはそもそも設計されていない、ということを指摘しておきます。
参考: http://dspace.sunyconnect.suny.edu/bitstream/1951/43003/1/fibdata.pdf

もう一回だけ該当部分を確認いたします

http://www.nhk.or.jp/archives/library/index.html

「番組公開ライブラリーで視聴できる6000本のテレビ・ラジオ番組の検索はこちらへ」


6000本。六千本。ろくせんぼん。
・・・絶対数としては「わあたくさんあるなあ」ですが、NHKが日々制作放送した全作品を母集団と考えると

「・・・なるほど、まだまだアーカイブで公開されてるコンテンツのほうがごく稀な、ほんの少数の作品なんだね」

と解釈できると思うのですがいかがでしょうか。


http://www.nhk.or.jp/archives/archives-catalogue/feature/feature_3_p2.html
「番組公開ライブラリー」も運用開始から2008年で5年を迎えたが、権利処理に関する課題が解消されていない。~(略)~権利処理は、多大な労力を必要とする作業であり、効率的に進める方法は見つけにくい。ライブラリーを運営していくうえで課題になっていることは否めない。

鰤 さんへ
とりあえず、私がウィキペディアを引用したのは、私が書籍などで既にその事実を知っている上で、
 なおかつ、ネット上で参照できるものとして、そこにあることを知っていたからです。NHKが改ざんした番組内容は、裁判の資料で判りますし、関係者も証言していますよ。
あなたはそういう本質=NHK番組はとんでもない内容だった、を無視するのですか?

zamas_makiさま
「私が書籍などで既にその事実を知っている上で、
 なおかつ、ネット上で参照できるものとして、そこにあることを知っていた」
「NHKが改ざんした番組内容は、裁判の資料で判りますし、関係者も証言しています」
ということを私はあなたの書き込みから知りえないので、あなたの主張は失当です。学的言述に必要な一定の形式感をもたない方のお相手をするつもりはないです。あたしゃ大屋くんのようには親切ではないのでね。メタとベタの区別なるものが正当かどうかはさておき、メタレベルの形式整備のできない言述に対して返答しないというのは、そう非難されるようなことではないと思います。が、大屋くんのように相手をする奇特な人も世の中にはいるわけなので、zamas_makiさまも、どうぞがんばってくださいね。

ようやく追いついた。ええと、このzames_makiという方は
(1) 法的な問題は「期待権」なるものがそもそも保護に値する権利として存在するかどうかであり、改変がひどいとかひどくないとかはそこで一定の結論が出たあとにしか意味がないこと、
(2) 改変に関する事実問題を問題にすることによって、実は法的な権利性においては両ケースが同カテゴリのなかで比較可能だということを認めてしまうことになることがさっぱりわかっていないこと、
(3) 自称「女性国際戦犯法廷」なるものに私がどのような態度を取っているのか過去ログを調べる程度のリテラシもないこと、
から、相手をする必要のあるレベルにいるとは思えないのですが。なんかたまたま見かけた別のブログでも暴言を書いて荒らしていたようですが、盲目の正義に酔っているアタマの悪い人、というまとめでいいかと思います。

>Gryphonさん
第一審が制作会社に対する損害賠償請求を認めた理由が、まさに《持たせるべきでない期待を持たせた》というものであったかと記憶します。まあ、そういうことかなと。

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