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サーバ更新
なんかまた夜のあいだに過負荷でサーバが落ちていたので、むりやりスケジュールを空けて更新してみましたがどうでしょう(挨拶)。PentiumIIIの頃のCeleron 500MHzから一挙にPentium4 2.4GHzだかになっているわけで、まあ普通にサーバ類を動かしてる分には大差ないような、ブログの再構築とかCPU負荷のかかる作業やるとまったく動作時間が違うなというか。
ところで大学教員が・学外のサーバで公開していたブログの内容が不穏当不適切であるというのでぼうぼう炎上したり大学に講義が行なわれたり大学側が謝罪したりという話になっているようなのであるが、第一に大学側に法的責任がないのは当然であって、それはブログの内容が云々以前に大学によるコントロール可能性がないからである。民法上の不法行為責任は当事者の故意または過失を要求するわけだが、それは基本的には何らかの行為の存在を前提にしている。もちろん作為義務のあるところでは不作為(行為しなかったこと)が過失にあたる可能性もあるわけだが、大学に教員の生活をプライベートまで含めて監視する義務があるとは思えない、というかそんなことしたら人権問題である。この点、大学のサーバに設置されたページの場合とは異なる点には注意が必要だろう。
だがもちろん、法的責任がないことは政治的だか道義的だかの責任が生じることを否定するものではなく、というか所詮「法は最低限の道徳」であるから、法的に問題がないから社会的に免責されるというものではない。法的に問題なくとも任命責任とかそういう人物に授業を担当させている責任とかを問う声はあるだろうし、それが不当だというわけでもない。そもそも「言論の自由」の次元で言うなら、大学に干渉されたり処分されたりしなくないのなら自分のアイデンティティを明らかにしなければよかったのであって、書くときには「●●大学の教員」と明記することで一定の(おそらくはポジティブな)効果を狙っておきながら、問題を起こしたら大学に連絡されたくないとか干渉されたくないとかいうのもおかしな話である。あるいは、当該教員にどんなトンチンカンな意見であろうが言論表現の自由があると言うのであれば(私はそのことをもちろん認めるのだが)、その言論で傷ついたと思う人にもどの思いがどんなにトンチンカンであろうが言論の自由があるのであって、どこに抗議の思いを伝えようがひとまずは自由だと言わざるを得ない。まして上記の通りトンチンカンとも言えないのであれば言われて当然、と思うわけである。
ただ、法的責任についてはその「責任の取り方」が法で定められており、イヤだといっても最終的には強制的に履行させられてしまうのに対し、そうでない責任についてはどういう仕方でナシを付けるかが決められているわけではない。大学は社会的存在であって広く一般大衆の批判に応える責任があると考えるところもあれば、ご商売であって学生やその親御さん、あるいは将来の顧客である受験生などの動向には注意するがそれ以外の有象無象など知らんという選択肢もあろう。あるいは、ある構成員に対して向けられる批判と彼を抱えていることによって社会の特定部分から得られる強力な支持を比較衡量するという態度もあり得るわけで、まあ光市の事件について言えば菊田先生を擁する明治大学が彼の言動に対して何事かを表明したことはないように思うし、別件だが朝鮮新報とかで活発な言論活動を繰り広げている人が所属大学からどうこうされたこともないようである。今回大学が謝罪したのは当該教員にもその言説にも守りきる価値はないと判断しただけのことだろうし、結局「問題教員」(と批判された人)にどう対処するかということも含めて世論からの評価に委ねられるしかないのだという話でもあるだろう。
で、ここまでの点について私は大学教員固有の問題があるとは思わない。他の「炎上」の事例と同じく、書いた側については広く公衆の目にさらす自己情報のコントロールという話が一つ、異論者への対応という話がもう一つあるだけだろう。第一は要するに書いときゃ飛び火するわなという話であって、インターネットという公開の場へ何を見せて何を見せないのかのコントロールが十分にできていない(あるいはその結果への覚悟ができていない)ということだろう。第二は、まあ私のところも時折ぼうぼういうわけで偉そうに言うなと思われるかもしれないが、しかしコントロールできずに飛び火するほどの大火になったことはないように思う。それは何故かというにやはり私は異論のある人にもできるだけ誠実に応えようとはしてきたよ、という話。PSE騒動のときなどを思い出しても、もちろん燃え上がるのが楽しくてとにかく燃料を足してみようとする人も少数いるわけだが、大多数は私の言ったことに納得いかないとか反対であるとか、いわば真面目に怒っている人だったと思う。で、前者はもう何をしても無駄というかとにかく話を聞く気がないわけであるが、後者はこちらも真面目に対応すれば納得するかはともかく怒りは収まるというか、少なくともその場で異論を表明しようとするのであって余所に火を付けに行ったりはしないよなという気がする。その意味で、今回の当該教員の対応について聞く限りでは、誠実な対応がなされなかったことが延焼の要因なのではないか、延焼ルートがあって本人が鎮火の努力しなけりゃ燃え広がるのは理の当然、という気もするのである。まあただ、怒らせた人たちの居場所や種類によってこのあたりの空気は変わってくるかもしれないから、この議論だけで済ませる気もないのだけれど。
もう一つ、発言者が大学教員ということで問題になり得るのは「学問研究の自由」の論点だろうが、これは本件に無関係というのが私の意見である。だって学問じゃねえじゃん。実定憲法の解釈としてはともかく、学問の自由が保障されるのはそれが科学的な真理の探究だからであって、当事者が大学教員という身分にあるからではないはずである(でなければ法の下の平等に反する)。たとえば一般人に禁止されている麻薬の所有がある種の大学教員に許されるのはそれが学会の認める公正な保有・管理・使用の手続きにのっとって研究目的で使われることが確認されているからであって、「大学教員であること」はそれを確認する一つの材料ではあっても決定的な要件ではないはずだ。アカデミックな手続に従わないなら大学教員の行為でも「学問の自由」による保護には値しないし、準拠するならどこの誰の行為でも保護すべきだというのが大前提であり、その意味で学問の自由とは査読誌の自由であると言ってもいい、というのが私の意見である。
もちろんここで「査読誌」とは学会の定める手続規範の象徴であり、実体としての査読誌ではない。ウェブサイトだろうがブログだろうがしかるべき手続を踏んで作成された内容であれば保護に値すると考えるから、たとえばこのブログの中には保護対象となるものがあると主張したいし(たとえばこないだのネット規制法案の検討などはそれに近いだろうか)、そこで表明された意見に対して世論の批判が強いから処分するなどと大学が言ってくれば「学問の自由」を根拠に戦うことになるだろうが、それ以外のものについても私が大学教員である以上保護対象になるなどと厚顔なことを言う気はまったくない。そこにあるのは「言論の自由」だけであり、私は自由な批判を甘受しなくてはならない。ただ「学問」の部分を批判しようとするのであれば、批判者にも「学問」の手続を踏むことを求めると、それだけのことである。
それでその種の「学問」が問題になった教員のブログにあったのか。繰り返すが「学問の自由」の源泉は手続であり、ということは一定の厳しい制約の下でモノを言うというのがその本質であって、言いたいことを言うというのはまさにその対極にある。大学教員が「言いたいことを言う」自由を守れというのはそれを特権階級化しようという発想であり、私自身はそれに与する気はない。
したがって今回のケースで当該教員へのクレームを大学当局に入れた方々に言いたいことがあるとすれば、それは次のようなアドバイスに留まる。第一に、不愉快な言説であってもそれが自己の利害に直結しないのであれば無視するにとどめた方が良いのではないかということ。それは精神衛生的な問題でもあるし、その方が社会全体としてギスギスしないのではないかと思うからであるが、人生において何を重視するかは人ごとに違うと思うので絶対にそうしろとはもちろん言わない。第二に、不愉快で抗議したいのはわかるが実際に対応する大学の事務員さんが気の毒なのでみんなでまとめて一件にしてはどうかということ。業務妨害にわたるような「抗議」をしてはいかんというのは法的に当然であるとして、問題は不愉快に感じた一人一人が抗議すると受ける側では相当の数になってしまうということであり、その相手をするのはだいたい問題を起こした当人ではなくたまたま電話の前にいる不幸な事務員さんだというところにある。もちろん抗議に対する反応を返すのも個別にはしにくいので、連判状なり署名なりでまとめて一件にした方が結果を期待するなら有益ではないかと、そう思うわけである。
ところで本件で一番おかしいと思ったのは、所属大学が謝罪したのがけしからんので内容証明で抗議しようかと息巻いた方であって、いやあなたその大学となにも権利義務関係ないんでしょ? 内容証明郵便というのは後日の法的争訟に備えて一定の通告をした日時と内容を公的に確認しておこうというものであるから、権利義務関係が現に存在するか、その可能性がある(たとえば権利侵害する可能性のある相手に事前に警告する)場合に用いるものだろう。それを無関係な大学に送るというのは不適切なクレームの付け方に他ならないというか、「法」の権威を借りて相手を脅そうというのかなというか、とにかくそれが言説へのクレームの付け方が不適切だといって怒る人間のすることかよと思うわけである。
まあちょっとその他折々のことも含めて本に書いてあるのが法律だと思う人にありがちやなというか法フェティシズムというか、そういう兆候が見られて関心せんなと思うところはあるのだが、第一にそれは結局法学が読んでわかる学問になっていないとか誰でも同じことができる「科学」になっていないということだと批判されれば否定する気はなく、しかし法学とは今のところおおむねそういうものなのである。第二に、上記の通り私は科学の生命を手続に見いだす人なのでいわゆるニセ科学問題については当該人物の活動を支持しており、そのあたりは誤解しないでいただきたいとは注記しておく。
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