法は守るべきか(補足の補足・2(完))

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しかし実は街宣行為の評価は主論点に無関係である。それは、今回の事件で問われたのが市民には問題に立ち向かう義務があるのかという点だからだ。いま、右翼による街宣の危険性は実際にあり、それを受けると世間からのホテルの評価が低下すると仮定しよう。裁判所の命令が出た以上ホテルは開催を受け入れるべきだったと言う人は、その負担をホテルが甘受すべきだということを含意している。だが、悪いのは(という視点に立つならば)そもそも街宣をかける右翼であり、「うるさいから」という理由でその騒音の発生に誰が責任を負っているのかということを考えずにホテルの評価を低下させる世間のはずである。なぜそのツケをホテルが支払わなくてはならないのだろうか。もちろん自由かつ自発的に契約関係に入ったのだからという説明はできる(そのリスクを考慮しても引き合うと思ったんだろう?)。だが、であればその計算が間違っていた(と思った)際に、適切な代償の支払いによってその契約から退出する自由も認めないと筋が通るまいと思うのである。なお、このリスク発生源に対するコントロール能力があるかというのもひろゆき氏の事例と今回の違い。

もちろん各市民が自発的に問題に立ち向かって解決への努力をしてくれるのは素晴らしいことであり、そうする市民に比べてそうしない市民は劣っているといっても構わない。だがそれは、そうしないことがただちに悪であるとか違法であるということにはなるまい。「酒なんか飲まない方がいい」から「酒を飲まない人は飲む人より優れている」としても、「だから酒飲みは人間失格である」にならないのと同じことである。特に私が違和感を感じるのは、国家が私人に問題に立ち向かうことを命令するという解決の妥当性である。これは田中真紀子氏の娘さんの個人的問題が週刊文春に報道されようとした事例の仮処分に関して言及したポイントでもあるが、問題が起きるのは社会が間違っているからだとして、しかし「間違っているのでそのようなものは考慮しなくても良い」とすれば被害は実際に発生し、その負担は立ち向かわされることになった私人に発生する。それを強制することが国家に許されるのか、それを解決する責任は一義的には国家にあったのではないかと疑うわけだ。

今回の事例でいえば、ホテルの評価低下が生じるような街宣を阻止することが国家に可能であれば、あるいはより正確に言えば可能であるとホテルに信頼してもらえれば、ホテル側の開催拒否という決断はなかったのではないか。そして信頼というのは基本的に信頼しない側が悪いのではなく、信頼してもらえない側に問題がある。そのことを棚に上げてホテル側にだけ正しく振る舞うことを強制する偽善性というものに少なくとも注目しておくべきだと、私は考える。

さらに言えば、今回ホテルが裁判所の命令に従わなかったことがただちに憲法体制の危機であるという位置付けも誤っている。というのは、世の中馬鹿は一定の割合で発生するわけである。刑法によって殺人は禁止されているわけだが(と言い切っていいかどうか実はかなり問題だがそういうことにしておく)、それでも人殺しがなくなることはない。もちろん多くの良民はその禁止に自発的に従うわけだが、最初から禁止を知らなかったり知っていても従う気がさらさらなかったりで人を殺す人間はある程度おり、従って法の命令は貫徹されていないわけだが、だから法体制全体が危機に直面するということはない。何故ならその多くの場合については違反者に制裁が加えられ、そこまで含めて法体制としての落とし前が付くからである。あるいは、「落とし前が付いた」と多くの良民が思い、法体制に対する信頼を維持することができるからである。ノージックが、国家が国家たる条件は暴力行使の物理的な独占ではなく、その正当性認定権の独占であると指摘していることを思い出そう(Anarchy, State, and Utopia)。マフィアのように国家の領域内で・国家外の暴力を行使する集団はあり得るが、だからただちに国家が崩壊するわけではない。国家がその暴力を「違法なもの」と名指し、その名指しが有効なものと人々に認められる限りにおいて、国家とその法体制の正統性は揺らいでいないのである。

このように考えたとき、問題が深刻なのは不合理な主体が違法な行為に及んだときよりも、合理的な主体が違法な行為に及んだときである。上述の通り前者は一定の確率で発生するので、国家はそれに対して適切な制裁を加えれば足り、それによって周囲の良民は「違法行為は引き合わない」ことを確認して法体制に対する信頼を維持するだろう。これに対し後者の場合、国家による制裁より違法行為によるメリットの方が大きいという判断のもとにそのような決断を下したのだろうから、第一に制裁を加えても当該主体は計算通りの得をするのであって、しかもその計算は同様に合理的主体である多くの良民にも共有されてしまうだろうから法体制への信頼を掘り崩すことになるだろう。第二に、その計算を崩すためには相手の予想以上に大きい制裁を加えるという手法があり得るが、それ自体が法の予想可能性という信頼への要件を掘り崩すことになってしまう。もちろん制裁を加えないのも最悪の手法である。今回の事件の眼目は、このように合理的な主体の違法な行為にどう対処するかという点にある。

さてここにおいて、「そういう考え方をするのはよくない」(「違法行為をする」という選択肢に・違法であるという事実それ自体によって・大きな負の効用を割り当てていないのはけしからん)と批判することは、第一に当事者の次元においては構わないがあまり意味はないだろう。というのは当の行為者はそう思わなかったから(そういう選好構造を持っていなかったから)そうしたのだろうし、人には他者の価値観に従わなくてはならない義務などないからである。もちろん「引き合う」という行為者の判断が「考え違い」であったことを悟らせるために自分の判断をアピールし、他者にもアピールするよう呼びかけるというのは十分にあり得る対応である。

第二の問題は、統治者の視線に立った場合は上記のような対応は許容されにくいだろうし、また本質的ではないという点にある。国家が特定の価値観を個人に対して強制することには厳に警戒しなくてはならないというのはまさに日教組や朝日新聞が強調してきたことなのであって、liberalである私(たぶん日本語の「リベラル」とは違うのだが)も基本的にそれに同意する。しかし異なる価値観を持つ他者同士の共存の条件として一定の強制を行なうことは許され、かつその基準は最終的には民主政過程に委ねられざるを得ないと考えるあたりで袂を分かつことになるわけだが、その場合でも許されるのはあくまで外面的な行動に現れる限りでの強制であって内心への干渉ではない。というかそもそも文字通りの「洗脳」でもしない限り内心の価値観を誰かに強制することなど最初からできない(ここで「道徳」教育によって自分の価値観が適切に変化しただろうかと思い返してもよい)。統治者にできるのは個々の当事者が自発的に望ましい選好構造を持つように外面的な行為に対する制裁を配置することだけであり、だからこそ一定の割合でそうならない個体が発生して犯罪に走る可能性が残ってしまうわけだ。

別の言い方をすれば、「全市民が正しい心がけを持てば犯罪もなくなり世界に平和が訪れるのです」というのは正しいが、法的には無意味である。人々の魂に訴えかけてそれを操作する方法があると信じる宗教家はそのような解決策の可能性を探っても構わないわけだが、法によって操作できるのは人々がその中で心がけを形成する社会制度であり、心がけそれ自体ではない。ホテルを批判するのは簡単だが、それは殺人犯に対して「けしからん」と言うのと同じくらい法律家にとっては意味のないことである。けしからんのは当たり前で、問題はだからそれをどう防止するか、数を減らしていくかという点にあるはずだ。その鍵はこの事件の場合、ホテル側の判断を支えた司法府の行動に対する予期と、世間の行動に対する予期にある。つまり法を破った場合に加えられる制裁が小さすぎるという現在の執行制度の問題と、結局組合活動の自由よりも静穏な環境を守った方が評価が高いであろうとホテルが考えるに至った顧客の選好の問題である。

注意してほしいのは、法律家はこの両面についてそれを作り維持している側に入っているという点にある。日教組や普通の市民は別に執行制度にたいした責任はないので、後者だけが問題になる。だからそれらの人々に対して私が期待したのは自分たちの価値観がホテルの判断を作ってしまったのではないかという自省であり、私はそうではないと力強く言い切れる人はそれで構わないので存分にホテルを批判すればよいと思う。一方法律家については、命令を受けたものがその命令に従いたくなるような・従わざるを得ないと思うような・従うことが合理的であると判断するような執行制度を作ってこなかったことへの責任があるはずである(この点に関するそれがないという期待が、ひろゆき氏と今回のホテルに共通するものだ)。この点に関する自覚なしにホテルの行動を批判するというのは、私には責任放棄にしか思えない。繰り返すが、「正しい心を持て」と説教するだけで問題が解決するならそもそも法律家などこの世に不要なのである。特に、国家の執行力強化に反対してきた法律家が本件におけるホテルの決断を声高に批判することは、自己の過去の主張に対する整合性を欠いていると私は思っている。それは結局自らを常に批判者という特権的な地位に置き、社会を成立させるという責任を不当に逃れようとすることだという怒りが、私にはある。

今回の事例が憲法体制の危機であるとすれば、それは単に法に従わない個体が発生したからではない。法に従わないことが合理的であると判断した個体が発生したこと、これの言うことに従えばおおむね良い結果を得られるであろうという「権威」を裁判所の命令が喪失したことであり、それに責任を負っているのはそのシステムを運営してきた法律家である。その罪の自覚なしに従わざるものを断罪することは、本質的な問題の隠蔽に他ならないのである。(2008.02.22公開(ウズベキスタン時間))

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コメント(3)

やや、帰国されていましたか。
それでは再開といきたいところですが;

LDRの要約を見て「ケンカ売られてる♪」とwktkしてやって来たのですが、全文を読んでも特に反論する必要性を感じませんでした(^^;

> 今回の事例が憲法体制の危機であるとすれば、
> これの言うことに従えばおおむね良い結果を得られるであろうという「権威」を裁判所の命令が喪失したこと

という以上のことを言った/言っているつもりはないですし。ホテル側を批判/非難したつもりもない。
ただ、自分のブログに書いたことが誤読されたなとは意識していて、補論を書かねばと思っているうちにもう1ヶ月経ってしまった…orz


なお、
> 適切な代償の支払いによってその契約から退出する自由
契約救済法上、履行強制主義が採用されていたとしても、債務者にはしかるべき代償を積むことで債務から解放される、という「自由」があることも指摘しておきます。

続報があったので見に来ましたよ。
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20090317-OYT1T00005.htm

特に付け加えることはないんだが(附帯施設キャンセルは直接に法で禁じられてはいないということなのかな)、付随して、人種差別等あまりよろしからぬ理由で結婚式場などが一方的にキャンセルされる場合に、法をもって制裁することは可能なのかどうかという疑問がふっと湧きました。

>鰤さん
基本的に法律というのは事後規制の手段であって、無理矢理に何かをやらせるということには向いていないのです。「式場を使わせなさい」と命令して、でも経営者から従業員から全員が「そんなことするくらいなら舌噛んで死にます」とか言ったらどうするか。まさか一人一人の後に警察官付けて「働かないと撃つぞ」とか脅すわけにもいきますまいし、そうしたところで拒否するやつは拒否しますわな。「何かをやらせない」方なら警察力とか軍事力で対処のしようもありますが、行為の強制は難しい。「間接強制」という、つまり《やるまで延々とカネを払いなさい》という手段はありますが、これだっけカネ払えばやらなくていいという理解もあり得るわけで。
だからまあ、事後的にはもちろん悪質だということで損害賠償を積み増すことはできるのですが、そこまでかなと。「それが怖ければ命令を聞きなさい」という呼びかけは、しかし確信犯と愚か者には届かないわけですね。

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