法は守るべきか(補足の補足・1)

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いや私は結果的に意見の違う相手より整合性とか統一性とかのない人間の方がキライなんだよ(挨拶)。川人先生からご本をいただいたときにも少し書いたけど、統一性のある人は同意しなくても尊敬してますよ。共産党は結構好きで時々一票入れてるとかね。「右とか左とかはいい。上か下かだ」とか学生にも言うわけですが、だって立場が違っても統一性のある相手の行動は予測できるけど馬鹿はそうじゃないからねえ。私個人としては根元的他者の接遇とかぜんぜん好まないので(というかそれが本当に根元的な他者だったら私はその訪れを認識できないのではないかとか理論的には思うところであるし)、右だろうが左だろうがわけわかんないのがキライなんです、少なくとも私の自意識としてはね。それはおまえの実存的脆弱さに由来するのだろうとか言われたらそうだねえというか、実存の強固な人間が根元的規約主義とか主張しないよねえという気がする。いや心弱い生き物なのですよ。ええ。

というわけでなんか面白かったのでいろいろと返事してみる。まず今回の事例とひろゆき氏のケースの比較。よく覚えてるな(笑)と思ったけど、大きな違いが二つあるので双方に対する私の態度が同一でなくても不思議ではない。第一に、今回ホテル側は裁判所の仮処分に従わなかったわけだが、本案で命じられるであろう損害賠償についてはむしろ支払う意志を明確にしているので、最終的に法の範囲内でやったことの責任を負うことまでを否定しているのではない。この点で、損害賠償の命令から逃げ続けているひろゆき氏とは大きく異なっている(もちろん特定履行することと、履行せずに損害賠償を支払ったことを同等と評価してよいのかという問題はあるのだが、これは少なくとも事後的には同一であると評価しないと損害賠償制度の意味がないというか、法律は神様じゃないから時間が巻き戻せないのでそう評価するしか仕方ないじゃないかとか、そういう話である)。第二に、ひろゆき氏の行為について好意的・同情的な人というのはまずいないし、氏自身もそのことをわかった上でやっているように見受けられるのに対して、今回のホテル側はおそらく自己の行為が社会的にはある程度積極的に評価されることを期待している点。事件後の反応などからはその期待が完全に誤っていたとは言い難いことも確かだと思うが、だとすれば問題は個人の愚かさではなく特定の行為者にそのような期待を合理的に抱かせてしまう社会のあり方にあるということになる。まあだから異議申し立てとしてはひろゆき氏の行動の方がインパクトあるよねえと思うのだが、これは別に誉めていない。あと一つ、実は両者に共通する期待の源泉の問題があり、これはあとで別の論点とともに述べる。

次に街宣右翼については、個人的な好悪について言うときらい。音は大きいし何言ってるかわからんしそもそも(私の主観的判断としては)わからせようと思って喋ってないんだから言論表現の自由の範疇に入れなくていいんじゃないかとか思うわけだが、もちろん私がそう思うということは実際に権力的にそこから除外することの十分な根拠にはならない。ある種の前衛芸術とかやっぱり何がしたいんだか私にはさっぱりわからないし、街で聞いたら99%がそう思うようなものもあるかもしれないが、だからそれは「表現」でないとするのは乱暴なわけで、その自由を制限すべきかどうかは他者に与える侵襲の程度を基準として判断するしかないだろうと、そういうことになる。

そうなると論点は、右翼の街宣と左翼のビラ配布の侵襲程度の比較に移る。前者の方が後者より侵襲性が高いと言えるか、実は単純にそうでもあるまいと思う(ここで「街宣」は日教組の全体集会に街宣車がやってくるようなケースを、「ビラ配布」はすでに何度か触れたマンションのドアポストへの配布の事例を想定している)。第一に、街宣の場合その対象となっているのは第一義的には組合活動をしている当人であるのに対し、ビラ配布においてはそうではない。合法的な組合活動であってもそれが「活動」として社会に対し何事かを訴えていく筋合いのものであるならば、それに対する反応が社会の側から、あるいは社会の中にいる敵対者の側から返ってくることは当然に覚悟しなくてはならない。従って当事者には敵対的な言説を受けることをそれが合法的な範囲にとどまっている限り甘受する義務があるだろう。これに対し、自衛隊の官舎のケースであっても家族は自衛隊の活動の当事者ではないのだし、一般マンションの場合についてはなおさら無関係である。まあこれは侵襲性の程度というよりはそれを阻却する理由の有無の問題だが、両者には対象の面で差があることは踏まえる必要がある。

第二に、街宣の場合には両当事者にとってのアウェイにおいて行われるのに対し、ビラ配布がまさにホームに対する活動だったことを見逃してはならない。街宣の場合、それをかけられる方も相手の行動を予期して対決の場を選ぶことが可能である——それが今まで日教組がちゃんとやってきたことだったわけだが。それに対し、ビラ配布は直接的に私生活の平穏に影響してしまう。受け手の側での結果回避可能性ということを考えるならば、街宣の方が侵襲性が高いと単純に言うことはできないだろう。

さてこう書くと、街宣の場合には対抗している相手方よりも周囲の第三者に影響を与えることが主目的なのではないかという疑問が出てくるだろうと思う。それはその通りであって、正当な統治活動を行っている省庁の周囲の歩道に抗議活動のために集まって気勢を上げる行為が当の省庁に対する影響よりは世論を喚起することを目的にしているのと同じくらいにそうだろうと思う(だってそうじゃなきゃアポなしで訪問したりしないだろ?)。もちろんその際に当該省庁周辺を通りがかった通行人には、右翼の街宣の脇を通りがかった訪問客その他と同様の迷惑が発生するわけだが、だからといっておよそデモ一般を規制するのは政治的表現の自由に対する著しい制限であって、右だろうが左だろうが自分がその規制の対象になり得るということを真面目に受け止めるならば賛成しないだろう。もちろん私も反対である。だが逆に政治的表現ならば何だろうと免責するという規則もろくな結果を生まないことは明白であって、なんか いしいひさいち 氏が政府に対して交渉を始めたいというメッセージを送るために爆弾を仕掛けてしまうテロリストの話を昔書いていたのを思い出す(「ほかのやり方が思い付かなくって」「おまえはプロポーズするのにも爆弾を仕掛けるのか?」)。そこにはやはり一定の限界線を引く必要があると、まあここまでは多くの人が同意するだろう。

となると問題は合法性の次元に移るわけで、つまり相手方や第三者を含めた法益の保護と表現の自由のバランスを取るために一定の刑罰法規・行政法規が取り決められているのだから、それに該当する行為はダメであり該当しないのであれば(いかに気に食わなくとも)OKだと法的視点ないし政府の行動を論ずる場面においては言わざるを得ないことになるだろう。さてこの点について言えば、私は街宣右翼の方が左翼よりうまい、と言いたくなることがある。なおこの「うまい」はたとえば職業的空き巣の方が中学生万引き犯よりうまいという「うまい」であって、純粋に技術的な巧拙の問題であって規範的に肯定的な評価を含まない。

というのは、典型的にはビラ配布が住居侵入罪の構成要件に合致してしまったのに対して、街宣をそのように違法行為と処理することが簡単ではないという点に現れている。多くの場合街宣は相手方の意思決定の自由を奪うまでの威力を加えていないので威力業務妨害罪に問うことも難しいし、脅迫や名誉毀損にも当たらないように言葉を選んでいるわけである(「褒め殺し」について想起すること)。迷惑としての騒音とか交通への影響も問題だが、音を出すこともゆっくり走ることも市民生活を過剰に束縛しないために(たとえば石焼芋のトラックを路上から排除しないために)一定程度で認められており、そして彼らはその「一定程度」のぎりぎりを狙って行動するわけである。要するに彼らには自分たちが悪いことをしているという自覚があり、だからこそ合法性の範囲を踏み外さないように気を付けるという知恵があるわけで、それは自分が正しいことをしていると確信しているが故に合法性問題を無視してしまうビラ配り左翼と奇妙な対照をなしている。もちろん個人的には私は彼らの行動は市民的自由の悪用だと思うが、それを「悪」と位置付ける根拠は(推測される)彼らの内心の意図にあるので、それを根拠として権力による強制を機能させるべきではないと考える。すると私の主たる関心はそのような「悪用」を合法性の次元にとどめてしまう法規制のあり方に向かうわけで、それが後述する論点とも重なることになる。

つづく(2008.02.22公開(ウズベキスタン時間))

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