法は守るべきか

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とりあえずホテルが公的施設だという意見は初めて聞きました(挨拶)。あのね、朝日新聞の論説委員さまがお泊まりになるようなホテルのロビーにホームレスが入ってきたら出ていってもらうだろうし論説委員さまもそれを期待するでしょ? たとえそのホームレスがロビーでコーヒーを飲みに来たと主張して実際に二三千円出して見せても追い出すでしょ? それが許される施設のどこが「公的」なんだよというか法的独占も競争規制もない私企業が「公的」なわけないだろというか。なお参照、朝日新聞社説2008年2月2日

というわけでこの問題についていうと、「表現の自由」とか憲法的問題は微塵くらいしか関係なくて(いやまあそれは我々私人も憲法的価値を尊重した方が望ましいかもしれないね、というくらいには関係ある——のだが「憲法は公権力を縛るためのもので私人がそれによって義務を負わされるのはおかしい」主義の人にとっては微塵も関係なくなるはずである点に注意)、基本的には「契約は守るべきか」という信義則の問題と、「法は守るべきか」という遵法義務の問題だろう。

前者について言えば、私は基本的に契約を破る自由を認めるのだが——その方が当事者にとって合理的なのであればそれを認めた方が社会全体の利益が増大する可能性が高い——、この考え方は代わりの財が市場から容易に調達可能であることを前提しているのに対し今回の具体的な事情ではそうではないので、まあ守るべきというか守らせるべく強制する妥当性はあるなあと思っている。あれだけの大会場になるとキャンセルされたからすぐに見つかるというものじゃないからねえというところ。ただしまあ私人の行動なので、次の裁判を通じた強制という要素が加わる前の段階(契約解除)までについては「契約を守る」ことによって得られる信頼と(たとえば)「騒がしくない」という評価がどのようにバーター関係になっており、自らの選択によってどのように変動するかを予想して決断するのはホテル側の自由で、我々がそれに対してできるのは実際に評価することだけだよな、あらゆる顧客に対する約束を守るより「この私」の望む静謐な環境を提供してくれることの方が大事だと思うお客さんはそれなりにいるだろうし、そういう人たちを大事にしたいと思うならそれはそういうご商売でしょう、と。

問題は後者だが、私自身は一般的な遵法義務を認めない立場であるし、今回の事例でホテルは訴えられた側であって自ら紛争解決を法に委ねたわけではないので、自らコミットした以上結果を尊重すべきという議論も使えない。もちろん法秩序を尊重している私個人としてはホテル側の行為について極めて遺憾であると思うし、そういう意見は機会があれば表明するし、それは私が当該ホテルを利用するかどうかという形で反映されていくと思うわけだが、それ以上は何ともなと。

しかしよくわからないのは日教組の委員長が「法律を守るということさえできないのか」(asahi.com)と怒っていたり朝日新聞社説が「ホテルの姿勢は、なんとも許しがたい」と主張しているところで、だってあんたがたも全面的な遵法義務の存在を否定してたじゃない。市民的不服従を肯定的に評価するというのはそういうことで、自らの良心と法の命ずるところが矛盾したときに前者に従うのが素晴らしいんでしょ? ホテルだって顧客の満足を守るという自らの良心に従ったんじゃないのかねえ。

この点に関する応答は二通りあり得て、第一にそんなのは良心ではない、第二に市民的不服従は「不正な法」に対して認められるところ今回の「法」は不正でない。もちろん後者においては「法」の正と不正を決めるのは何なのかがただちに問題になるわけだが、いずれにしてもジャイアニズムの気配がして不穏なことであるなあと思ったわけである。

なお顧客側からの説明が十分なされたか等について事実関係の争いがあるようだが私自身はいずれにせよ当該ホテルを利用する気はなくしているわけで、というのは知っていて契約したのにあとから解除したなら信義が足りないし、知らずに契約したなら知性が足りない。まあそれ以前にそんな高いホテル泊まれない泊まらないですけどね、ともっと安いホテルの客室から書いてみる。

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先生,リンク先が2月3日社説になっております。意図されますのはhttp://www.asahi.com/paper/editorial20080202.htmlであるかと。

うがった見方ですが、
私は、今回、プリンスホテルが裁判所の判断に従わなかった事で、一番ほっとしているのは、裁判所ではないか、と思っています。
で、一番、残念がっているのは、開催を妨害しようとしていた勢力ではなかったか、とも、思っています。

だって、裁判所にとってみれば、プリンスホテルが決定に従って、会場を提供し、妨害勢力が実力行使に出たとしたら、今後、類似事例で、同様の決定をだすことが非常に難しくなる(または、出しても、みんな無視する)から、裁判所の権威が地に落ちることは紛れもないでしょう。

妨害勢力にとってみれば、裁判所の決定の権威を地に落とし、今後、類似事案で裁判所に駆け込んでもムダ、という実例をつくる格好の機会だったろうから。

アメリカでは、黒人の公民権運動で合衆国最高裁の判断を貫徹するためには、連邦軍最高司令官としての合衆国大統領による連邦軍の投入を必要としました(執行官ベースでは、無力だった)。日教組も、最終的には自衛隊の出動(治安出動)を求めるつもりだったのでしょうか?

TKさんのおっしゃっているのは、アーカンソー州で1957年に起きた「リトルロック暴動」ですね。
自衛隊は行き過ぎでしょうが(安保騒動の時だってなかった)警視庁は当然、“鬼”とまで評される第4機動隊を出したはずです。

>teiresiasさん
ありがとうございます。直しました。
editorial.htmlは当日分のファイルを指しているのですね……

>TKさん
う~ん実際のところよくわかっていないので自信を持って言うわけではないですが、日本で街宣右翼がどれだけ暴れても警察力で抑えられる水準を越えたりはしないのではないかと思います。公民権運動への反対勢力は社会の相当の割合の積極的・消極的支持を集めていたわけですが、日本の右翼勢力の割合なんて人数的には無に等しいし、消極的支持もほとんど得られていない。生活保守からしてみれば日教組はちょっとうっとうしいかもしれないけど関わりを持たないようにもできるのに対して街宣右翼は端的に「うるさい」わけで、まだ前者の方を支持してしまうような気も。
個人的には、某施設で会議に出ていたらたまたま同じ会場でやっていた左翼団体の集会に街宣をかけられてしまったことがあるのですが、傍目で見てると警察もそう警戒しているでもないし、街宣車も結局警察にたてつかない範囲で大きな声だけ出してるような感じで、まあ左翼の人たちの主張の伝わりにくさみたいなのをしばしば私は批判しているわけですが右翼について言うと単に論外だなと。なんだかんだいうても運動を続けて組織を維持していこうとできているだけ共産党も日教組も偉いよなと思うところはあります。
まあ「どれだけ(物理的に)危ないか」について言えば、全体集会みたいに総力戦になってくるとちょっと事情が違うかもしれませんのですがね。

法律の問題は全く念頭からすっ飛ばして、純粋に私情のみで考えると、かのホテルの近辺に住む者としては、街宣右翼が乗り出してきて警察側と衝突して公道を塞がれるよりは、今回の判断の方が有り難くはあったりします(笑)
ただでさえ近所にロシアの在日通商代表部があって、右翼の定期巡回ルート的な位置にあたるもので・・・

同じ港区の北の方では、中国大使館と韓国大使館が近接するという絶好の立地条件につき、街宣車を警察が食い止めて道路閉鎖、という光景が日常的に見られたりもしますし。

まあ、もちろん、付近住民のことまで考えて出された結論ではないのだろうと思いますけれども。


> 契約を破る自由を認めるのだが
> ——その方が当事者にとって合理的なのであればそれを認めた方が社会全体の利益が増大する可能性が高い——、
> この考え方は代わりの財が市場から容易に調達可能であることを前提している

代替財の市場があれば、債権者としてはそちらから財を調達して債務を履行すればよいだけなので、構造的に債権者のほうが取引費用を節減できるような事情のない限り、履行強制原則主義も損害賠償原則主義も無差別となり(但し「何が代替財となるか」の情報は債権者のほうが有しているという点では若干後者側に傾くが決定的ではなく);
むしろidiosyncratic valueが係わる場合にはその算定は困難であるから履行強制を認めて現物を渡してしまうルールが簡便であり;
そもそも債権者・債務者間の取引費用が十分に低ければいずれのルールを採用しようが無差別となり(コースの定理);

だいたい「契約を破る自由」を考えること自体、(a)契約債務の履行の時点において債務者が履行をなすかどうかというモデルを組み立てているわけだが、これを最適化するルールを組んだとしても、契約に絡む行動はこれに限られないから、例えば遡って
(b)履行を信頼してなされる債権者側の投資を最適化するルールは(a)と異なる可能性は大いにあり;さらに遡って
(c)どれほど詰めて契約交渉を行うかを最適化するルールは(a)~(b)と異なる可能性は大いにあり;さらに遡って
(d)どれほど熱心に契約相手方を探索するかを最適化するルールは(a)~(c)と異なる可能性は大いにあり…
という具合に遡っていくとどう考えたらいいかだんだん分からなくなって契約法の経済分析はぐだぐだになりましたとさ(Eric A. Posner, Economic Analysis of Contract Law After Three Decades: Success or Failure?, 112 Yale L.J. 829 (2003))(挨拶)


という実体法の話は本エントリの主題からはあまり重要ではなくて;
ホテル側に着目して遵法義務として問題を定式化するのもポイントを外しているように思われ;

この事件は裁判所の側から定式化されるべきであって、本件の最大の問題は、裁判所のlegitimateな決定が下されたにもかかわらず、それが実現されなかった、という法の支配の根幹に係わることにあります。そして言うまでもなく司法権は国家の統治権能の一部である以上、日本国の統治権が貫徹されなかったという、本件は国家体制の危機、国体の危機です。
日本国としてはそのような事態を看過してはならないはずで、国家の機能を特徴付けるところの暴力装置を動員して、裁判所の決定に従わせしめるべきところでした。
アメリカでは選挙で選ばれた最高裁長官も裁判所の命令に従わなければ懲戒免職されるのに。
こんなことでは洞爺某ホテルが「反グローバリズム団体や反捕鯨団体が来てうるさいから先進国のお偉方が集まる会議なんて引き受けられない」と駄々をこねたとしても、それを従わせしめる手段はないことになってしまいます。
もちろん集会の自由云々はマヌケな間違いですが、それよりもより根底的な意味で憲法体制が動揺した事例だと言えます。
この点を重視しないのは「権威の過小」を問題として提起する貴兄に相応しいとは思えませんが。

ついでに、
ホテル従業員(とたぶん右翼団体)の怒号の中、機動隊に守られて日教組が集会を開くというナイスな事例によって、秩序とは暴力なくして維持し得ないという当たり前の事実を分かっていない方々に啓蒙する機会が逸せられてしまったことも残念です。

「ホテルは公的施設だろ常考。ソースは人種差別撤廃条約」とのことです。
http://nagablo.seesaa.net/article/82297413.html
↑にて(トラックバックされていないようですが)
私にはリンク先記事の「ホテルが日教組の思想を差別した」という主張は本件文脈上から正直不可解なのですが、ご連絡まで。

>ASさん
いただいたコメントがなんかスパム扱いされて非表示になっていたので直しました。すいません。

>トリヘドランさん
ホテル側としては近隣住民の感情も勘定に入れていたのではないかと思いますよ。善悪の話は抜きにして言いますが、街宣車との攻防戦が発生したとして近隣住民が苦情の電話かけるのは右翼団体でも日教組でもなくて、ホテルなんですよね……

>IZW134さん
前段、詳しいご説明ありがとうございます。まあそういうわけで「法と経済学」的な分析からだけで「契約を破る自由」を基礎付けるのもちいと難しくて、アメリカの場合は歴史的経緯その他が働いてるんだろうけどね、ということになるでしょうか。
で、後者との関連になるのですが、実のところ本件が本来問題になるのは私のような立場の人間に対してのみです。というのは第一に「良心に従うのが善であって法だの権威だのは知らん」(市民的不服従マンセー)主義者は、少なくとも行為自体の善悪評価のレベルではホテルの選択を肯定すべきだし、それで議論は足ります。第二に「秩序維持のためには法の権威が必要なので個人の良心とか選択とかは知らん」(アーキテクチュアルな支配上等)主義者もとにかくあらゆる手段を使って断固として裁判所の命令を強制すればいいので、悩む必要はありません。個々人が自己決定的主体としての「個人」であることを重視し、かつその「個人」たちが共存するシステムとしての「法」の権威性が重要であると主張する場合にのみ、両者の相克の問題が発生します。
そこで私の結論は、《国家は合法的な範囲でホテルの選択に対する罰を与えるべし》ということにとどまらざるを得ません。そもそも「実は裁判所命令の強制力が弱い」ことに本質的な問題があり、それこそアメリカのように法廷侮辱罪が使えればホテルの選択も違ったのではないかと思うのですが、そうなっていないこともまた「法」のうちであり国民の選択ですから、私にはそれを尊重するしかないのです。「断固として法外の実力を行使したまえ、国民はそれを歓呼するであろう」という《革命》の言説を、理論的にはその可能性が開かれているからこそ封印しなくてはならないというのが『法解釈の言語哲学』の議論でした。
# 今回そうしたとして国民は歓呼しないのではないか、というのはまた別の話。
私個人としては、従って、今回の事件を契機に裁判所の判決により強い強制力を持たせ、執行システムも強化するような法整備が進むことを強く望むのですが、「法律を守るということさえできないのか」と怒っていたはずの人たちなのにきっと協力してくれないであろうなあと思うと憂鬱ではあるのです。

なお「当たり前の事実」についてはきっと全力で目をそらすでしょうし、対立セクトの内ゲバから逃れるために警察に頼ったりした元革命闘士たちが30年以上たってもなお自らの反体制性を誇っていたりする実例に照らすと啓蒙の可能性は絶望的かと。

>MIRさん
お知らせありがとうございます。ええと、ホテルが朝日新聞社説の言う意味においての「公の施設」だったら当該エントリ後段で憲法の《私人間》効力の問題に言及する必要がねえですよね。おわり。
これは後段の内容が正しくて、憲法の特に人権規定は第一義的に国家を中心とする公機関に対して効力を持つものであり、私人間の契約などに対しては間接的な効力しか持たない、たとえば公序良俗に反する契約が無効になる際の「公序良俗」の判断基準として組み込まれるにとどまるというのが判例通説です。
前段は、(1)上記のように憲法が直接的効力を持つpublic sectorと、間接的に適用されるにとどまるprivate sectorの区別と、(2)国家法が適用されるpublic sphereと、それからの一定のimmunity・自治性や自律性が認められるべきprivate sphereの区別を混同しているということになるでしょうか。「複数の法律で同じ用語が使われている場合、両者の意味が同一とは限らない」というのは「囲繞地」のときなんかに書いたことですが、条約と国内法で字面が同じだから意味も同じだとか主張されてもねえ……。まあ書いた方に対しては、副題通り法律を勉強されるようお勧めしたいと、そういうことで。

ホテル側が今表明している見解

http://www.princehotels.co.jp/kouhou/pdf/20080205kumiai.pdf

のなかに「契約破棄が憲法違反、集会の自由を侵すものなら『事前に断る』『契約をそもそもしない』のも自由の侵犯になってしまう」(大意)というくだりがありますが、これは法哲学的に正しい理屈ですかね?

>Gryphonさん
ホテル側の見解は、通説である間接適用説に基本的に準拠できていると思います。契約締結までの話であれば、会場提供を拒否することによって集会の自由の実現が損なわれるとしても、それを保障する責任は民間団体にはないとするのが一般的です。逆に、自治体の設置した集会場等の場合は憲法規定が問題になりますが、そもそも集会の自由って積極的自由ではなくて消極的自由(「妨害しない」が本義)だと思われるので、たとえプログラム規定(資源の範囲内で達成を目指すべき)としてであれ集会場の供給責任が国家・自治体等に発生するとも思えないのですよね。だから基本的には「法の前の平等」の議論(思想信条で差別してはならない)であって、集会の自由を持ち出すことは公的主体に対してであれ筋違いかなという気がします。
話を戻すと、次の問題は《契約締結までは自由に拒否できるとして、契約を結んだことにより法的責任が異なり得るか》という点で、これはもちろん部分的にYes。つまり契約が成立したことによって相手方は会場の提供が受けられるという信頼を抱き、あるいは別の会場を探していたのを中止したかもしれませんから、代替財の入手可能性がないような状況でその信頼を一方的に破棄して良いかといえば問題があります、というのは「契約を破る自由」論者でも肯定するのですね(私も含みます)。しかしこれは民事法上の地位に関する問題で、公法上の各主体の地位には影響しないはずです。契約の前後を通じてホテルはあくまで民間団体であり、である以上憲法を直接的に遵守する責任はないというのがスタンダードな理解だろうと思います。

なので、これに反論しようとすれば(1)憲法の私人間効力について直接適用説をとる、(2)民法上の財の供給契約を私人間で結んだことによって一方当事者の公法上の地位が変動し得る、のいずれかの説に立つ必要があると思いますが、まあ良くて少数説以上のものではないかな、と。

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