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翻訳について
引っ越しても相変わらずダイニングの机で仕事をしているのだが、旧居は台所が食堂から横に突きだしたような形になっていたのに対して新居はLDKがひとつながりの大きな部屋になっていて食卓のちょうど脇にシステムキッチンがある。おかげで仕事中に茶を入れたり本だの雑誌だのレシピノートだのを見ながら炊事をするのは非常に楽になったのだが、最大の欠点は仕事に少し詰まるとたちまちガス台が綺麗になり始めることである。さて。
ちょっと事情があって大量の英文(しかも基本的にダメな)を読む羽目になったので、気分転換も兼ねて積んであった『アメリカ法思想史』(スティーブン・フェルドマン、猪股弘貴訳、信山社)を読んでいたのだが、ええとこれはどうしたものか。まあ文章について「である」が連発されるのは趣味の問題だとしても主語が二つあったり文頭文末が合っていなかったりするケースがしばしば見られる。まあそれは校正ちゃんとしなかったのかなあで終わりにしてもいい話かもしれんが(しかしSavignyの表記が「サヴィニィー」だったり「サヴィニィ」だったりするんだよ同じページの中で(p. 151))、「ジョン・カルビン」(p. 19)とか書いてあった時点で相当にぐにゃり。「ジャン・カルヴァン」だろうこれは常識的に。フランス生まれでスイスで活動したんだからさ。英語読みで統一するというのならそれは一つの見識だけど直前で「マルティン・ルター」って書いてるじゃないか「マーティン・ルーサー」だろキング牧師じゃないけどさと思ったらあああKarl Loewithを「カール・ローウィス」とか書いてる(p. 14)。
もちろん人名については結局どの言語における読み(の近似表現)を採用するかということであるし、原則を定めても我が国の慣用を考えるとそれを貫くのも難しいということはよくわかる。「アリストートル」とか書いても通じないもんな。しかし現地読みと慣用と英語読みが乱れ飛ぶというのはまあ不見識というか、こういうのは『英語人名発音辞典』じゃなくて『思想哲学事典』とかで確認しないですか普通、という気がする。
しかし後者のような専門辞書類にすら当たっていないというのはnominalismを「名目論」(p. 140)としている点で明らかであろうなあというか「唯名論」だろうこれは普通。ジョン・ロックのsensationを「悟性」と訳してunderstandingとごっちゃにしてるし(p. 32)、ヒュームのsense perceptionを「悟性認識」とか書いてるし(p. 34)あの先生つまりイギリス経験論もドイツ観念論もまったく理解しておられないんですね? そもそもtranscendentalismを「超越主義」(p. 35)にしている時点でtranszendentとtranszendentalの違いを理解していないことは明白なのだが、「悟性」というのはカントが「感性」(Sinnlichkeit)と「理性」(Vernunft)のあいだにVerstandがあるとか言ったから割り当てた訳語でそれ以前の話に漫然と使うなよというかそもそもsense perceptionは書いてあるとおり「感性」=「知覚」の話じゃないか何でそれがVerstandと混ざるんだ。
他にもカントのcategorical imperativeを「定言的命令」にするとか(p. 36、普通は「定言命法」)、何故かOtherを「残されたもの」と統一的に訳すとかそれはどういう特殊な趣味なんですかと聞きたいケースが散見される(いや「他者」だろ普通に)。もちろんこれは標準的な訳語を無視しているというだけの話なので、先程の「悟性」と違って意味がわかっていないという話にはただちにはならない。もちろん定訳が正しい訳・良い訳かと聞かれると言葉に詰まるケースというのも——またも「悟性」のように——あるので、それ相応の理由があれば変更してしかるべきことは間違いない。しかしハイデガーのDaseinを「存在」にしてしまい(p. 41)いやSeinで「存在」なので「Da」をどうするつもりなのかと思ったらさすがに何かまずいと思ったのかそのあとは「ダーザイン(存在)」とか繰り返すところを見ると、いやだから最初から「現存在」を使っておけば何の苦労もなかっただろうというか、定訳には定訳として定着しているそれ相応の理由があるわけであって(他の術語の訳と抵触しないとか)、そういう先人の蓄積を覆すにはきちんと努力とか研鑽とかが必要になるんだけどなと思ったことであった。しかし何が馬鹿らしいといって学生や院生に言うならわかるんだけどなこういう話はということか。なんかだんだん英文和訳の添削をしている気分になってきてつらいよう。ちっとも気分転換にならないよう。
というわけで、訳者に尋ねてみたいことは以下の三点である。(1) いったいどんな辞書を見てこういう訳語を付けたんですか? (2) なんでそもそも訳そうと・訳せると考えたんですか? (3) お手近の法哲学者に訳文を見せるとかしようと思わなかったんですか? と書いたところで、そもそもこの訳者の先生がjurisprudenceを「法学」と訳していたな(p. 3)ということに思い当たる。orz いやそういう事例ももちろんあるのだがここでは「法思想」(legal thought)と「相互互換的に使用されている」(ibid.)というのだから「法哲学」(ないし「法理学」。このどちらを使うかは歴史的経緯も絡む問題なのでどちらでも悪くはないと思うのだが)だろうなんで法学全体とlegal thoughtが等置されるんだ、つうかそれを「法学」にしてしまうと次の文で「幾人かの学者は(……)[jurisprudenceを]より狭く、すなわち法の概念に分析哲学的な焦点を当てることの1つの型に過ぎないものに限定しようとしている」(ibid.)と言っている意味がわからないだろう。あれだなつまりおまえ法哲学の存在知らないんだな?
ちなみに原著自体「プレモダン→モダン→ポストモダン」という図式で画一的に切っちゃってる気配が濃厚で、まあこういうのはアメリカのポストモダニストにありがちだよねえという感じなんだけど「ルターの最も重要な追随者であるジョン・カルビン」(p. 19)とか言ってしまうあたりで(いやもちろん人名表記については原著者の責任ではないけれども)お里が知れるよねえという感じはする。もう読むのやめようかな、これ(それでも半分くらい読んだ。う〜ん連邦初期の法思想のあたりはちょっと面白かったかな)。
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つhttp://www.meijigakuin.ac.jp/~inaba/books/bks0309.htm
「ドイツ理想主義」
あたしゃほかに「マイケル・フォーコート」ってのを見た覚えがありますよ。
つhttp://www.meijigakuin.ac.jp/~inaba/books/bks0309.htm
「ドイツ理想主義」
あたしゃほかに「マイケル・フォーコート」ってのを見た覚えがありますよ。
人名発音辞典みたいなのではなく普通の英和辞書で「Calvin」を引けば「カルヴァン」(ないし「カルバン」)と書いてくれてたりするんですけどねえ。
むしろ学生に課したレポートを何も考えずにつぎはぎしただけと違いますかそれ。それはそれでどうかと思いますが。
>いなばせんせい・トリヘドランさん
いやだから本当に「何を見て訳したのか」が問題だと思うのですよ。
ただこの先生は若干まともだなと思うのは問題箇所は(人名を除くとだいたい)カッコ書きで原語が添えてあって、つまりなんかやばいとは気がついたらしい。逆に言うとこれ以外にどれだけ地雷が埋まっているかわからないわけですが。
>無職者さん
文体に統一的な特徴があるのと、間違い方に一定の傾向があるのでおそらくご本人がちゃんと訳されたのだと思います。それはそれでどうかと思いますが。