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on subjectivity
トラックバックが不調ですと言ってあるにもかかわらず更新しても何も言ってこないというのは「読まれたくありません」というパフォーマティブな意思表示かしらん、お仲間同士でオダを上げているのに水を差すのも悪いしなあと思っていたのだがいくつかわからない点とわかったような気がする点があるので書く。
ひとつめは「御用学者」という言葉を無前提に悪い意味で使われているようであり、いやまあ確かに普通はそうだがそれは特定の政治勢力におもねるために客観的に誤った主張をするとか(「神武天皇のy遺伝子」とかな)、さまざまな勢力に従うので言っている内容にintegrityがないとかそういう話なのではあるまいか。しかしApeman氏の描くところの私というのはまず抽象的一般的なレベルでは正しいことを言っているようであり、しかしperformativeな効果を考えてその正論を言ったり言わなかったりする、その結果として特定政治勢力に一貫して忠実であるとそういうことであるらしい(私が本当にそうかは読者の判断に委ねるべきことだろうと思う)。そうだとすると上記「御用学者」の問題点に当てはまらないのではないかというか、だって私自身が口に出すかどうかはともかく「正論」はもう言っちゃってるわけであって、カードは場に出てるんだから私が表に返さないなら誰かがやればいいだけのことじゃないのか。
逆に、特定のコミットメントがある人間をだから正論を言っていようがなんだろうが排除する、ということにした場合自分たちが政権取ったらどうするんだろうというのが大変に気になるところではある(*)。体制に忠実な専門家抜きで統治やれるつもりなんだろうかというよりは、まあ多分そんなことは考えていないというのが正解なんだろうなあ。高橋和之先生が抵抗の憲法学と制度の憲法学という対比を導入して物議を醸したことが想起されるわけだが、自分たちが常に抵抗する側にいるという前提の下に統治者に寄生する限り、確かにreversibilityとか尊重するいわれはないとまあそういうことなのだろう。
ふたつめは直接的な強制と間接的な誘導(とわかりやすい言葉を使っておくが)の区別について「現在の文脈においてはその「区別」は歴史学にとっても政治的にもたいして意味のないことなので、研究科の紀要にでも書かれてはどうかと思うわけである。」(強調ママ)と書かれている点で、いや意味がないなら受け手の側において無視するなりすればいいことなのになんでこう人様のすることに干渉したがるのかなあという点である。言論弾圧好きなのかなあ。すでに述べたとおり私自身はApeman氏の私に対する批判というのはほとんどまったく完全にポイントを外していて無意味だと思っているわけだが、だからといって私は氏に黙れとかそんなこと書くなとかは言わないわけである。私は間違っていると思うし関心ありませんというのはあくまで私自身の態度表明であり、氏の自由に何ら制約を加えていない。
とこう書くと「おまえはかつて『アゴラに出て行け』とか言ったではないか」と勝ち誇る人がすぐに出てきそうでうざいので先に言っておくとそれは「ブーメラン言いたがり病」であり、私のが特定のルールに従う部分社会にふさわしくないからより広い全体に戻りなさいという趣旨であるのに対してApeman氏のは部分社会に閉じこもりなさいという意味なので、前者が否定していない一般的発言の自由を後者は否定しているわけである。それとも私は気付かなかったがブログワールドも部分社会であっておよそブログたるもの満たしているべき基準とかブロガーたるもの果たすべき規範とかがどこかの村で決まっていたりするのだろうか。まさかね。
でまあこの点に関する私自身の意見としては大きなお世話ということであって、第一にブログは読みたくなければ読まなければいいもので誰も強制されているわけでなければ稀少資源でも何でもないので、表現の自由に制限を加えるべき根拠が見あたらない。第二に私自身はどのような場面・媒体であろうと基本的には同じスタンスで書いており(証明や説明の水準はもちろん想定読者によって変えている)、ブログを書くについてはまあそういうスタンスの発言を読みたがる人というのもいるのではないかなあと予想してはいるわけだが、どうも一応商品として流通させても困らない程度には実際にも読者がいるらしく書き物仕事をいろいろといただけているのは嬉しい限りである。
つまり私としては自分の表現がどこにどの程度流通するかというのは読者の側の問題だと考えているわけだが、その中の一人が自らの態度決定についてならば別段、普遍的な読者の地位を僭称して他者の行動に掣肘を加えようとしているわけでもう完全に珍獣を見る目になっているわけだが、もちろん本当に檻の中にいるのがどちらなのかはわからない。まあでもこれやっぱり、「ぼ、ぼ、ぼくがローゼンメイデンがこんなに好きなのになぜ君は見ようともしないんだあああああ」だよなあ(正確には「ぼくはローゼンメイデンが読みたいのでそれ以外のマンガを雑誌に載せないでください」か。でブログという媒体の性質を考えるとさらに数等倍ばかばかしいと)。
で。ここまで書いてちょっと思い当たったのだが、ひょっとしてApeman氏(およびお仲間の方々)は私が「on reversibility」において教科書検定の結果に歴史家や一般市民が反対を表明するのはけしからんと主張した、と思われたのだろうか。いや歴史家とのreversibilityとか教科書の内容を法律家が批判したくなる可能性とかが私に対する批判として並べられていて何をこの人はとんちんかんなことを言っているのかと思っていたのだが、あっはっはっは、そりゃまあ怒っても当然だわ。そんなこと言ってたらな。
うんなるほど「結果が気に入らないからといって「中立」となっている機関の決定に文句を付けはじめるとどういう結果になるか」というリードとそのあとの記事引用からはそう読む可能性がなくはないのだなあと思うが、ひとまずは発言者である私の意図に関する主観的な証言として言えばそうではなく、これは政治家と「中立」の機関(裁判所や審議会が——もちろんその「中立」がどの程度真正かという論点は留保しつつ——想定されている)の関係、さらにそこから帰結される政治家の行為規範について述べたものである。この点に関連する私の主張を明確化すれば以下のようになる。
- 大前提として人民には表現の自由があるのであり、専門家であろうが非専門家であろうがどのような発言をしようがそれ自体は自由である。もちろん他者の表現に対して批判する自由も表現の自由に含まれるので、最大限に排除されるべきなのは言論を封殺したり自粛を要求するような言説である。
- ただし、任意に一定のコミットメントを選択した場合、その帰結について一定の責務を負うことは認められなければならない。たとえば敗訴後に「不当判決」と垂れ幕を掲げるような行為を私が批判するのは、判決が当該社会における権威的決定として通用するという司法手続を紛争解決手段としてあえて選択し、勝訴した場合にはそれが相手方の受け入れざるを得ない決定として通用することを期待しながら、その規範を自己が敗訴した場合に適用していないからである。端的に言えばボクシングのルールに従う気がないのならリングに上がるな、ということ。
- 教科書検定において、出版社および執筆者についてはこのようなコミットメントが存在する。誰も教科用図書として認められることを目指すよう強制されてはいないので、任意にそこに参入する以上そのシステムはひとまず正当なものとして受容すべきであり、望ましくない結果が出た場合にはシステム内部の異議申立手続にのっとって処理すべきである。ただし(1)「システム内部の異議申立手続」には行政内部での手続だけでなく行政訴訟が含まれる、(2)次回の検定に向けてルールを変更すべく働きかけるのは今回の決定を受容することと矛盾しないので、許容される。
- 教科書検定の結果について、上記のようなコミットメントをしていない人々が政治的に異議申し立てをすることは、制限すべき理由がないので許容されるべきである。事柄が学問上の事実認定に関わるのであればそれを左右するために政治運動に訴えるというのは私の趣味ではないが、他者危害原理により許容される場合を除き、誰かの趣味によって他者の自由を制約すべきではない。そのような手段に訴えることが目標達成のために適切ないし賢明かという議論は、やはり他者の自由を制約する理由にならない。私は愚行権を承認する(**)。
- 政治家について言えば、その地位に至るにあたって本人の自発的なコミットメントがあるはずであり、従って一定の規律に服することを要求できると考える。それが具体的にはreversibilityであり、自分たちが多数派であるときに行なったのと同じことを少数派になってされても甘受しなくてはならないという規律から、従って自分たちがされたら困ることをするべきでないという教訓が導き出されるのだが、後者についてやはり私は愚行権を承認するので「やり返されても構わない」と覚悟するならアリ、とも認めざるを得ない。
- この点について補足すると、本件決議案などが安倍政権末期の「強行採決」などを含む強引な国会運営に対する反動ないし反撃としての正当性を持つという議論を私は肯定しないが、それはそもそも「強行採決」が悪いことであるという規範を私が共有しないからである。つうか小選挙区制下の議会に求め得るのはアピール機能くらいだが、いまどき議場で演説しないと一般大衆にアピールできないということでもないだろう。この点について私はreversibilityを認めるので、民主党(なり他の野党なり)が政権を獲得したとして強行採決に訴えることがあってもそれを批判する気はない(政権を持っていない・参院多数派として議事日程コントロールを活用することにはこれと別の論点が関わってくるが、それについては公刊予定の別稿を参照)。
というわけで、まず私の主観としては私は当初から歴史家や一般市民による批判可能性を封殺するようなことは言っていないのであり、Apeman氏の空想だか妄想だかはまったく的外れということに(私からは)なる。この私の「主観的意図」がどの程度客観的なものであるかについては、改めて論じる。
(**) 今回の沖縄県民集会が「愚行」であると主張しているわけではない。まあ「11万人」(あるいはそれ以上)という「数」を主張したことによって実際に数えたら何人かという議論の道を開くことになったし、他者の歴史改変を批判する側が歴史を改変するんですかプゲラという反応を引き出すことになったことを考えると結果的に愚かだったということになる可能性はあるだろうと思うが、その「結果」など歴史の行く末を見ないとわからないことであるし、正直私にとってはどうでもいい。念のために言うと「主催者発表」が景気のいい数字にかさ上げされること自体は右だろうが左だろうが金儲けの話だろうがたいていの場合にそうなのであって歴史偽造が云々と騒ぐような話でもないが、一生懸命写真で数えた人の意見を聞くとちょっと景気が良すぎねえかとは思う。逆にその、あれは確かに誇張だが誇張したらあの数字になるような人数をおまえら集められるのかとか歴史修正主義の人とかに言ってみてもいいんじゃねえ? 日本に多いのは生活保守であって、ああいう声高に騒ぎたい人ではないよね、という気はする。
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