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あららの話(3・完)
さて、こう書いてくると「しかし企業間の紛争じゃないだろう」と言いたくなるひとが増えてくると思うのだが、まさにその通りであってそこが指摘したいポイントである。つまり上記の通り唐沢氏側の対応はたとえば企業間紛争における法務担当者のものとしては非常に真っ当であっておかしくも何ともないと思うのだが、本件の被害者である筆者氏は企業でもなく、法務担当者とか法律屋でもないわけである。ここでは紛争処理のルールの違うひとが相互に直面しているわけで、そのことがトラブルの最大の原因ではないかという気がする。
典型的には企業間紛争の特徴は、それが結局はカネの問題だということだ。筆者氏によれば唐沢氏側から提示された慰謝料は20万円だったということだが、まあこの金額が本音なのか交渉過程でたとえば5割増しになることを見込んでの言い値なのかはわからない。わからないが、いずれにせよ財産的被害に対する補償としては結構な金額である。というのは第一に唐沢氏が適切なクレジット等をして著作権法上の引用の要件を満たしていれば筆者氏に金銭的な支払いをする必要はなかったわけであるし、第二にこの金額が同書の出版から唐沢氏の受ける利益(とりあえず定価×印税率×出版部数で概算できよう)に占める割合を推算するとまあおおざっぱに1/4前後がすっとぶということからもそう言えそうである。
しかし筆者氏が求めていたのは財産的被害に対する補償ではないのであって、それはこの金額の提示に対して筆者氏が慰謝料支払自体を断っていることからもわかるだろう。そこで求められているのは記述が誰のものかについて正当に表明せよという名誉の救済なのであって、そうなると面子の代金として20万はいかにも安いという話になる。
もともと著作権には、(狭義の)著作権という財産権的な要素と著作者人格権という人格権的な要素が混在している。従来、著作権をめぐる紛争の主役は基本的に職業的な執筆者・創作者であり、要すればカネのためにモノを書いている人々であるから紛争の処理・救済もカネの話として行なうことができた。しかしインターネットの普及などに伴って、カネのためではなく自らの人格の表現として作品・記述を公開する人が増えてきており、かつそこで公開された記述に対する権利侵害が問題になるようになってきている。その場合に注意しなくてはならないのはこれらの人々の著作行為がカネ目当てではないことで、むしろ適切なクレジットがなされるなら別にカネなど要らないと思っている人も多い。その場合、問題になるのはカネが適切に払われたかどうかではなく事前の本人の了解があったか否か、適切な氏名・出所表示がなされたかどうかということだろう。もちろん救済としても金銭の支払ではなく、本人の同意取得・クレジットの表示を適切にやり直すことが求められる。著作権をめぐる紛争の対象は財産権から人格権に移ってきている。このように自分の記述・名誉・人格が適切に尊重されることを重視するという立場から見た場合には、逆に筆者氏の感覚が当然なのであって幻冬舎けしからんという話にもなるだろう。だがそこで問題視される対応が従来のカネの問題の処理としてはごく普通だというのはすでに述べたところである。結局ここでは求めるもの・尊重すべき価値の違う主体同士が衝突しており、それが混乱の原因だと思うわけである。
今回の問題を傍から見て思うのは、この点について幻冬舎サイドがおそらく完全に考え違いをしているということだ。相手が同業他社だったらこの対応でいいけどそうじゃないだろ、そんなことホテルジャンキース事件とか先行例いくらもあるじゃねえかと、まあそういう話。誰がどういう考えで交渉した結果こういう顛末になったのかはもちろん私の知るところではないが、あるいは混乱を避けるために交渉窓口を出版社に集約したことがかえって仇になったかな、とは思うところである。
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幻冬舎側で丁度別件の著作件侵害疑惑が持ち上がったせいで態度が硬化したのではないか、と言う説も出てきてますね。
流石に「ネット上で謝罪文6ヶ月」とか言う条件を前例にされると困る、と言うのがあったんじゃないでしょうか。唐沢俊一個人ならばキャラ的に許されても他に波及したら拙いでしょう。
まあこの辺り交渉過程をオープンにした弊害と言うか。幻冬舎も他に選択肢が無かったのではないかと。
>そこで求められているのは記述が誰のものかについて
>正当に表明せよという名誉の救済
とありますけれど、そうは思いません。
なぜなら、記述が漫棚さんのモノであることは唐沢が表明するまでも無く既に明らかだからです。
唐沢も「盗用」という言葉は避けながらも記述が漫棚さんのモノであることを既に報告などで認めています。
問題は「盗用」を「盗用」と認められない唐沢側にあるように思えます。
>横綱さん
(1) 別に「無断利用の経緯を明らかにして謝罪すること」を加えていただいてもいいですよ。要は経済的利益ではなく名誉とか帰属といった人格的利益の問題だというのがポイントです。
(2) また、私は問題が唐沢氏側にあることをまったく否定していません。人格的価値にこだわる筆者氏のスタンスは、私も物書きの端くれですから、非常によくわかります。そのスタンスは企業間紛争の相手方の場合とは違いますが(これは単なる事実の問題)、もちろん権利侵害を犯した唐沢氏の側がそれを踏まえた適切な対応をすべき問題だったろうと思います。ただ唐沢氏なり幻冬舎なりの交渉態度を単に不誠実であると決めつけたり悪しき意図に由来するものだと疑うとすれば、いやそうではないだろうというまでの話です。
(3) なお以前のエントリで書いたとおり私は故意の「盗用」と故意・過失を包含した「無断利用」を区別しており、客観的類似から明らかであって唐沢氏も認めているのは「無断利用」である(そして「盗用」かどうかが争いの対象である)という認識で書いています。
で、「盗用」の故意があったかどうかは故意を本当に主観的に考えれば唐沢氏と神様くらいしかわからないでしょうし、客観的な証拠類から認定する場合でも事実関係が詳しくわからないと何とも言えないよな、と思います。
(4) が、あくまで現状双方で書かれていることをもとに「私はこう思っている」という水準で言うなら(だからもちろん別の感じ方があることを私は認めますが)、私自身は故意の盗用だったとはあまり思っていません。というのはまさにお書きになったとおり、記述が客観的に似すぎているからです。唐沢氏もプロの物書きとして長いあいだメシを食ってきた人なわけで、関係者が見れば一発でバレるような明々白々たる盗用をやればどういうことになるかというのはよくわかっているはずだと思うわけです。
実際、事後の対応もまずまず危機管理のセオリーを踏まえたもので、まあ「盗用」ではありませんが自著の問題を指摘されたときに同じ物書きであるはずの林信吾氏(という疑いが非常に濃厚である人物)が取った対応と比べるとまさに雲泥の差があります。これも私が《実は幻冬舎問題なんじゃないか》と思う一因ですが、もちろん私は唐沢氏を一部の著作を通じて知るだけですので、もっと近いところで見ている人や広い範囲を見ている人には違う意見があるかもしれません。
>紅氏
へえ、なんかダメダメですな。まあ新書も競争が激しくなって、一部には如実に質の低いものが入ってきてますからね(と自爆してみる)。というか前に平凡社新書に関して指摘したけどごく基本的な誤記すら直っていないものがあってちゃんと校閲やってんのかというか、やっぱりクオリティコントロールには編集さんとか校閲さんの役割が重要なんだなと(と何かのフォローをしておく)。
紛争処理過程については同情できる点もあるのですが、ちょっと腹が据わってねえなというか、「普通の企業法務の感覚と同じ」というのは出版産業にとって褒め言葉じゃないと思うんですけどね。