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こもりきり

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校閲こわい(挨拶)。いや私も自分では結構ちゃんと調べ物をしているつもりなのだが校閲のなかの人にかかるとあちこち赤く染まった原稿が戻ってくるわけで、そのたびに一生懸命調べ直しに追われるわけである。プロはすごいなあ。まあ指摘箇所の大半は引用文献の写し違いであっていまだに手書きで文献ノート作ってるせいだという気がしなくもない(いやなんか自分の手で写さないと頭に入る気がしなくてですな)。今後はコピー機を活用していきたいと思っております、はい。

なお今回は何ヶ所か「校閲返し」(校閲意見の方が違ってますよ〜)に成功したような気がするのでちょっと気分が良い。もちろんミスのない完全な原稿を作るのが筆者の仕事なので返せて当然という話ではあるし、返せたら返せたで校閲のひとが依拠した事典類が間違っているということなので、そういうもの書く側(のはじっこ)にいる人間として威張れた話でもない。

まあとにかく、ここ数日研究室にこもって校正に追われていた甲斐あって新刊がどうにか出そうなのであるがなんかすでに新刊予定の情報をつかんでブログとかに書いている人を見かけて情報早いなあもう。詳しい話はまた時期が迫ってきたら書きますが、そういう次第ですので乞うご期待です。前著と違って今回のは一般向けでして普通の本屋さんにも並ぶ(と思う、たぶん)ものですからぜひひとつ皆さまよろしくお願い申し上げます。

***

ちなみにどんな校正をしていたかというと、マックス・シュティルナーの『唯一者とその所有』Der Einzige und sein Eigentumを1844年刊行と書いておいたら「1845年と(複数の)事典にあります」と指摘されたので「1844年10月に1845年の奥付を付けてライプツィヒで刊行されています」と言い返してみたり、カール・フォン・サヴィニーは「Karlではないですか?」と(やはり複数の)人名事典を根拠に指摘されたので「マックス・プランク・ヨーロッパ法制史研究所やドイツ国立図書館の文献情報でもCarlで統一されています」と言い返してみたり、ヒョードル・シャリアピンのラテンアルファベット表記に疑問を呈されたので「キリル文字のラテン文字表記法4種類くらいの結果を比較してみるとこうなりますが」と並べてみたりだから何の本なんだこれは。疲れたのでもう寝る。

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Comment(6)

新刊とは無関係のなかの人 さんのコメント (2007年8月 1日 01:33):

はじめまして。いつも拝見しております。

校閲は変換ミスや誤字脱字などを拾うのが本分とはいえ、ゲラにある事実関係の指摘をすることも当然あるわけですが、素人が専門家の書いたことに突っ込んでいくわけですから妙なものですし、恥ずかしい間違い・勘違いもよくやらかします。

実際問題として辞書にはとおりいっぺんのことしか書かれていないわけで、それを見てものを知った気になって鉛筆をいれるなんておこがましいにもほどがあるとは思うものの、さりとてゲラと辞書がちがえば見過ごすわけにもいかず、迷った末に指摘を送って書き手に調べ直させたあげくに鉛筆が違っていた・甘かったときにはやはり後悔の念からは逃れられませんね(そうして校閲者は辞書をだんだん信用しなくなっていくのです)。

……つまり、わたしは1年半ほどまえ、某誌に掲載されることになる大屋先生の論考のゲラを幸運にも読ませていただきましたが、その折りにエントリーのような事例がありましたらお詫びいたします、ということを言いたかったわけです。

では、新刊楽しみにさせていただきます。

おおや さんのコメント (2007年8月 2日 01:20):

>新刊とは無関係ななかの人さん
あああそのせつはどうも大変お世話になりましてありがとうございましたありがとうございましたありがとうございました。
いえもう書いたとおり本来はツッコミどころのない原稿を書く責任が筆者の側にあるわけですし、校閲の方も相応の根拠を挙げてご指摘になられているわけで、応答するのは専門家であるはずの我々の義務だと思うのですよ。またそのご指摘があってることの方が圧倒的に多いわけで。orz
ご指摘を受けて調べ直してあらためてわかることというのもありますし(今回で言うと『唯一者とその所有』出版に関する経緯とか)、こちらが調べたことをフィードバックすれば次の機会に校閲の精度が上がるわけですから、やっぱり情報を増やすことの方が社会的には賢明だと私は思っています。
# しかして研究者もだんだん辞書を信用しないようになっていくわけですが。

トリヘドラン さんのコメント (2007年8月 4日 22:43):

こんにちは(こんばんは)。いつも楽しく読ませていただいております。

推理作家・東野圭吾が、エッセイでこんな事を書いていました。

"某小説に、メーカーの研究所に勤めているが給料が少なくて困っている男を登場させたら、校閲からクレームがついたことがある。メーカーの研究者なら、かなりい給料をもらっているはずだ、というのだった。私はその根拠を問い質してみた。返ってきたのは、「根拠はないけど、そうではないのか」というものだった。"
(東野圭吾は元・自動車部品メーカーエンジニア)

小説だとまた違うようですね。

おおや さんのコメント (2007年8月 6日 19:45):

>トリヘドランさん
ども。校閲のなかのひとによるとか、出版社によるとかいう話ではないかとも思います。新書でも、ごく初歩的な校閲作業も十分にできていないものも散見しますので。
幸い私自身は理解もできないような校閲意見にぶちあたったことはないです。ありがたいかぎり。

なかの人 さんのコメント (2007年8月 7日 00:24):

大屋先生にいただいた反応(ありがとうございます)と、トリヘドランさまのコメントを読んで思うところがありましたので。

東野氏の話は、興味深いと同時に、いかにもありそうだなとい思いました。

校閲者にもざっくばらんに2種類いまして、たとえばエントリのような状況に遭遇したとき、事典Aに1845年、事典Bには1844年と辞書によって記述が違っていることを見つけた(けっして珍しいことではありません)として——各辞書の総体的な信頼性は経験的に似たようなものとわかっている——、Aとゲラはあっているんだからそれでよしとする人と、しかしBのような説もあるようだから喚起はしておくべきだろうかと悩む人とに分かれたりするわけです。

ふたつのタイプが対称になっていないのは、少しでも経験のある校閲者ならゲラとたかだかひとつの辞書が違っていたからといって喜々として鉛筆をいれるような馬鹿な真似はしない(とわたしは信じている)からで、そういう意味でトリヘドランさまが紹介して下さったような話は「校閲者が『ソースは?』と尋ねられたときに『わたしの感覚です』と答えるとは、というかそもそも尋ねられるような鉛筆を入れるとは大恥もいいところだな、おい」と思ってしまいますね。あと、編集消してくれよとか>著者に戻す前に校閲の鉛筆を残すか消すかの判断を編集者がすることは多いです。


(でもまあ、いちおうこっちも毎日10時間くらいなにか文章を読みつづけている自負が多少あるので、事実関係ではなく日本語レベルの話になったときはまた基準が違ってきまして、ある表記が間違いではないが別のベターな選択があり得ることを提示できる可能性があったとき、失礼を承知で「こっちの表現はどうですか」と勝負することもあります。そういえば大屋先生のゲラでも二、三書き込んだ気がしましたが、いま現物を見てもそれがどこだったか思い出せないorz……いや、その節に不快感を与えていたら申し訳ありませんでしたが、よりよい読者であろうとしたときにそれなりの信念もあるという話で、グレー(だと校閲が感じたかもしれないと書き手が判断できる)ゾーンに鉛筆が入っていた場合は、その校閲者が無能でなかったことを信じるかぎりにおいては徹底的に悩んだあとです)


閑話休題、東野氏がどのような感情をもってその鉛筆を見たのかはトリヘドランさまのお話だけでは分かりかねる(まあ「こんな馬鹿がいた」という文脈じゃないかと想像もするわけですが)ものの、しかし書き手が以降もその出版社で書こうと思う/書き続けなければならないときに、「校閲けしからん」で怒って終わらせるよりは、大屋先生のように校閲の精度を高めるために——リソースを使ってもいいと自身が許せる範囲で——カウンターを行って新情報を共有させた方が、最終的な利益を得られるだろうと、第三者的視点を自分に導入するなら、そう思います。もちろん実際のところ、わたしは校閲側に完全にコミットしてますから、お前は労力を使わずに生じた利益にフリーライドするだけじゃないかとなじられれば素直に謝るしかありませんが、同種の不愉快が減る可能性はありますよ、ということでひとつ。だめですかね。

もちろん、東野氏の不満(だとして)が不当なものだと言いたいわけではなく、むしろ書く人間としてはしごく当然の反応であることは間違いありません。もっと言えば大屋先生からのように好意的なカウンターが与えられようと、逆に単なる怒りの発露だけが過ぎていこうと、最終的に正しい(と形式的に保証が与えられた)出版物、内部的には校了ゲラが存在する以上、情報のアップデートは校閲側だけで行えるはずであり、書き手に依存すること自体が校閲側の甘えでもあります。それでもこちら側の根拠に対して「そんなもん知るかよ」と言われるよりは、「わたしは別の根拠を持っているのでそれを採用します」と教えてもらえるほうが、一回的な出版物としての結論はおなじでも、継続性としては全員の情報力が効率的に強化されて得するのにな、というレベルの感慨は持ってしまうわけです(その意味ではこちらの指摘がことごとく採用されて、「校閲さんの調べはすごいですね」と感心されることも、そりゃあ悪い気はしないものの、やはりよろしくないですね)。

大屋先生のような感覚を持った書き手が少数派(印象だけで言っていますので間違っている可能性をまったく否定しません)である現状においては、せっかく情報(力)を交換しているのにその差異からエネルギーを取り出していない、あるいはエネルギーが取り出される差異を意識すらできていないという意味で、完全に資源の無駄遣いをしている気がします(かなりの部分で自戒です)。

長々と失礼しましたが、結論としては大屋先生はやっぱりすばらしくリベラリストだなあと、そういうことですね。

トリヘドラン さんのコメント (2007年8月 7日 10:07):

なかの人さま>

ええと、不満と言うよりはですね、「技術者などのような理系職業への、世間一般の認識レベルというのは概してこんなものである」という例として挙げられている、といった感じです。

最後は「理系と文系の間にある壁を越えてきた人間として、壁の両側をつなぐ役をするのも私の義務だろうと考えている」という風にしめくくられていました。

角川文庫刊の「さいえんす?」というエッセイ集所収です。「理系作家から見た出版界」のようなものが描かれていて、私のような読書好きにはかなり興味深い本でした。

大屋先生>
少々話題ずれしてしまいましたが、ご容赦くださいm(__)m

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