前の記事: 「一般意思」 << | >> 次の記事: 病院にて

「おろかもの」

| | コメント(0) | トラックバック(0)

ようやく動員解除(だと信じる)(挨拶)。さていま発売されている『週刊朝日』に、「「日朝関係の克服」にむけて」という姜尚中氏から川人博弁護士に対する「再々反論」が掲載されている。冒頭から小林和之『「おろかもの」の正義論』(ちくま新書、2004)を肯定的に引用した同文において姜尚中氏は川人弁護士のことを「おろかもの」の正義をふりかざして他者を断罪する「徳の騎士」(ヘーゲル)と形容して批判しているのだが、同書における「おろかもの」は一方的な正義を振るって他者を断罪する人々のことではなく、むしろそれに対抗する「多くのことを知り、新たな可能性を見いだし、自分が知らないうちにとらわれていた思い込みから自分を解放する」人のことを指している(19ページ)。つまり、まったく逆。

傍証1。姜尚中氏が引用している「暗黒的正義観」を説明した部分は序文にあるが、まず小林氏はその前の『臨済録』「殺仏殺祖」について述べた部分で自身を含む我々を「凡愚」と位置付けている(「それ[悟りの境地]は厳しい修業の末にようやく到達できる究極の境地ともいうべきものだろう。凡愚になしうることではない。/そして、愚かな凡人としては、素朴な疑問も起きる。」(11ページ))。そして序文は「暗黒的正義観」の批判から上に引用した文章に続き、「本書のねらいは、あなたが以前より自由に物事を見られるようになる手助けをすることである。」と結ばれる。つまり小林氏のスタンスは大自在の境地も暗黒的正義観も退け、「愚かな凡人」として考え続ける・考え抜くことになる。その立場から、物事を白黒に割り切ってくっきりはっきり主張する暗黒的正義観を「おろかもの」と呼ぶわけはない。

傍証2。これは姜尚中氏が知らなくてもまったく本人の過失にはならないことだと思うが、実は『「おろかもの」の正義論』という署名は著者である小林氏が付けたものではないそうである。なので「おろかもの」の定義は本書に一切なく(というかざっと見た限り「おろかもの」という表現自体タイトルにしか登場していないのではないかと思われるが)、それがここで「傍証」しか挙げられない理由なのであるが、しかし小林氏自身はこのタイトルが気に入っていないそうである。以下、氏のサイトにある「タイトル・部数決定」という文章から引用。

わたしは、「愚直」ということを表に出すのが嫌いだ。哲学では意味がないと思うからだ。わたしは、たとえ力およばないとしても、徹底的に合理的に考え抜くことこそ重要だと考えている。/その姿勢が周囲には愚直であると見えて、ある種の尊敬を勝ちうることが可能であるとしても、それを売り物にするのは情けないことだと思う。

つまりここでも、「考え抜く」のは「わたし」であり、それがタイトルにおいて「愚直」の意味を込めて「おろかもの」と表現されている、と理解されている。やはり「おろかもの」は(小林氏の意には沿わないものの)考える私の形容であって、暗黒的正義観の持ち主に対する罵言ではない。

というわけで、以上で述べた私の考えが正しければ、姜尚中氏はまったくまともに読めていない書籍からの引用で自己の文章の冒頭を飾ったということになるが、まあ私自身としては正直「あ〜、ねえ」という感じなのでこのエントリはここで終わる。

Trackback(0)

このブログ記事を参照しているブログ一覧: 「おろかもの」

Write Your Comment

November 2008

Sun Mon Tue Wed Thu Fri Sat
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30            

Recent Comments

Monthly Archives