最低投票率の問題

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どうも最近疲れているので神経に触るものをできるだけ見ないようにしており、というわけで新聞の社説とか投書欄とか読むはずがないわけですがなにか(挨拶)。特に後者については従来よりその無意味さが指摘されてきたわけであるがブログでもSNSでもいいけどこれだけ普通の人が世間様に対してモノを書く手段が増えてきたご時世においてなおあの投書欄という制度に固執する人々の欲望のありかというものは考えても良いことだと思う。つうかたまに目に入ると決まって同じ人が書いてるような気がするんだけど気のせいだよなきっと。

しかし憲法改正に関する国民投票法案をめぐっては、こちらが危険地帯を歩かないようにしていても組合のチラシだのメイルだので目に入ってしまうのであった。与党修正案が衆議院で可決されたことを踏まえて、特にそれが投票の成立する最低投票率を定めていない点が批判されている。朝日新聞419日社説「国民投票法案最低投票率を論議せよ」もそのような議論の一つであるが、基本的にどれを見ても論旨が同じなので特に必要のない限り区別せずに扱う。

まず私自身は別に最低投票率規定など設ける必要はないと考えているのだが、その理由はさしあたり以下のようなものである。与党案によれば改正を可とするものが有効投票の過半数に達した場合に改正案は可決されたものとするのであるから、投票に行かないこと(棄権)と行って白票ないし無効票を投じること(白票)はどちらも帰結に影響を及ぼさないという意味で等価である。問題はあくまで積極的な賛成票と積極的な反対票の量の比較だというこの制度下において、帰結に影響しないのにわざわざ投票所まで足を運ばせることもないではないか、いろんな事情で投票所に行きにくい人だっているだろうにとまあそれだけの話。

つまり私は、棄権も白票も同じくnon commitment (関与なし)であり、その意味するところは双方に0.5票ずつ加算するのと同じだと、こう理解している。non commitmentに独特の意味を認めないこのような視点からは、たとえば朝日前掲社説に以下のように言われても……

仮に投票率が4割にとどまった場合には、最低投票率の定めがなければ、有権者のわずか2割の賛成で憲法改正が承認されることになる。それで国民が承認したとは、とうてい言えまい。

なんで? と真顔で聞き返すしかなくなる。投票しなかった6割は半分支持・半分不支持と計算されるので賛否双方に3割ずつ加算されることになり、すると2割+αが積極的な賛成票を投じているのであれば合計して賛成者は5割+αになるではないかと、そう思うわけだ。積極的な意思表示をしなかったことは、賛否に中立としか捉えようがないではないかと。

これに対し、住民投票などで一定の投票率に達しない場合は開票もしないケースがあることを引いてこれが「民主主義の知恵」だというようなことを言っている憲法学者がいたのだが、そういう人は有権者の30数%しか投票しなかったり、さらには候補者が足りずに「無投票」になってしまうような地方選挙についても有権者が承認したとは到底言えないので無効にするべきだと主張するのかなあ。まあそうするとみんなが日本共産党に感謝することになるだろうからそういう主張をしている人にとっては喜ぶべき事態かもしれないが、もちろん一般的にそういう仕組みになっていないことは言うまでもない。なぜ公職選挙には最低投票率を置かないのに、住民投票には置こうとするのか。

これにはちゃんと理由があって、つまり住民投票というのが一種のクーデタだからである。もちろん「暴力的だ」という趣旨ではないが、しかしそれが民主政システムにおいて一旦首長や議会に配分された決定権限を事実上簒奪しようとするものだということには注意する必要があるだろう。井口秀作は以下のように述べている。

住民投票条例の制定は、住民が直接の投票によって決定するという意思決定方法を「創出」するものである。つまり、法的には他に帰属する決定権限を、事実上、住民に「移動」しようとするものが、住民投票条例の制定なのである。
(井口秀作「何のための『国民投票法案』なのか」『世界』2007.5, 岩波書店, p. 129)

住民投票が「決定」するものではなく住民の強い意志を表明するものだと定位されるのもその故であって、つまり法的には正統な決定権限を首長なり議会なりが有しているのだからたとえ住民の全員がそれに反対していたとしても彼らには自らの信ずるところを決定する自由があるはずである。しかしながら彼らは選挙によって選ばれる以上有権者の意思を事実上は無視しにくいのであって、そこで尊重すべき意思を突きつけることによって彼らの自由を奪うのが住民投票の目的だということになろう。つまりそれは民主政内における決定権限の再配分である。

である以上、そこには当該の問題に対する賛否とは異なった論点が発生することになる。すなわち、そのようなクーデタを許容するかどうか。たとえば議会の計画したゴミ処分場の設置に対する反対議案を住民投票にかけるという場合、処分場設置は賛成だがそういう重大施設の立地には住民の直接的な意思表示が必要だと考える人もいれば、設置には反対だがこの種の問題は議会における討議を通じて決定されるべきだと考える人もいるだろう。前者は投票に行ってNo票を投じればいいが、後者はどうすれば良いのか。そのスタンスが住民投票による奪権へのNoであり、ゴミ処分場設置反対へのNoではない以上、No投票というのは彼の意思を正確に表現しているとは言えない。住民投票において「投票率を最低投票率に満たないようにするために、投票のボイコットを呼びかける運動は、住民投票による決定という意思決定の方法そのものに対する反対運動なのである」(井口前掲、p. 130)。ここでは投票へのnon commitmentが議案自体への賛否とは異なる意味を持っている。

それに対し、国会議員・地方議員・地方首長を問わずこれら公職者の選挙はそのようなクーデタ的性格を持たない。それらは有権者直接の選挙によって決するべきことがすでにルールとして法定されているのであって、有権者集団以外の決定者は存在しないのである。したがってそこでは議案自体への賛否と異なる・そのような投票自体へのnon commitmentが独自の価値を持ち得る可能性は——システム全体の正統性を支持する限り——ない。

さて問題は憲法改正に関する国民投票がこのいずれかという点にあり、もちろんそれは後者である。国民投票は改正の必要条件として憲法上明確に定められており、この過程を経ずに改正が行なわれることは——憲法体制全体を覆してしまう「革命的」事態を除けば——ない。だとすれば投票自体へのnon commitmentというのは憲法体制自体の正統性を否認しそれに従うことを拒否すること以外には存在しないのではないか。森英樹教授が著書のタイトルにされている通り『主権者はきみだ』。"The buck stops here."というのはトルーマン大統領の机に掲げられていた標語だというが、この国のあり方を決める根本的な責任と自由を担っているのは国民自身なのであり、他には存在しない。投票自体へのnon commitmentのようにそこから逃げる可能性を認めるべきではない、投票しなければ中立投票をしたのと同じことになると国民自身に示すべきだと私は考えるところである。

しかしもちろんこれに対して、であるのならばすべての国民が自らの意思を積極的に表明するべきであるという反論は可能だと思う。私の見解はすでに述べた通り、まあ中立という立場もあってよく、だとすれば棄権を認めても同じことだというものだが、中立は認めるべきでない、あるいは中立にせよせめて白票を投じるくらいの手間をcommitmentとして示すべきだという意見はあり得るだろう。

だがその場合は最低得票率制度ではなくむしろ義務投票制の導入を主張すべきだと思われるのだが、どうだろうか。別に世界に例のない制度ではなく、オーストラリアとかがやってたからイラクとか北朝鮮の専売特許というわけでもない。我が憲法の解釈上も選挙権は権利にして義務であるとされているから、まあ刑罰の威嚇によって強制するほどの必然性があるとは思わないが、正当な理由なく投票しない場合には行政罰としての過料を加えるという程度の制度は検討されても良かろうと思う。だって「主権者の意思を確かめることが、いちばん大切」なんだろ?

もちろん問題は、私の知る限りではあるが、いま最低投票率制度のない与党案を批判している人々の誰一人として義務投票制を主張したりはしていないところにあるのだが、いったいではその背後にある欲望とは何なのだろうか。憲法改正それ自体にせよ改正内容として提起されているものにせよ政権与党ないし社会のごく一部の望むものであって国民の真の要求から遊離しているというのであれば、できるだけ広汎な国民に積極的な意思表示を求める制度を正面から主張すればいいのになと、素直な私にはよくわからないことばかりなのである。

* * *

ところで今月の『世界』の特集「施行60年目の憲法状況」には結構興味深い論文が載っているので、ご関心の向きは一読されると良いかと思う(私が一番面白く読んだのは宍戸論文である。さすがだなあ)。まあそれ以外の部分はいつもの調子であるし、特集内にもしょむない対談とかあるので買うほどの価値があるかどうかは難しいが。

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コメント(10)

はじめまして。いつも興味深く拝見しております。一つ質問してよろしいでしょうか。

>住民投票というのが一種のクーデタだからである。・・・それが民主政システムにおいて一旦首長や議会に配分された決定権限を事実上簒奪しようとするものだ・・・

これがよく理解できません。通常の選挙では「人を選ぶ」わけですが、だからといって議員に「すべてを任せた」わけではなく、重要な問題については、住民投票という形で直接に民意を問うことは、少しもおかしくないと思うのですが?

投書欄を読まない、良い選択肢ですね。でも、つい読んで、神経に障る悪循環を繰り返しています。
しかし、教師という教育公務員なんとかなりませんかね?今日の朝日にも教育公務員のご高説が載っていて、楽しく読ませて貰いました。公務員には憲法尊重擁護義務があるのだから、公務員は憲法擁護のために立ち上がれ、という主張と私は理解しました。
これで、永らく抱いていた疑問が氷解しました。何故、世界レベルのインテリ層が、終戦(敗戦)という一大事を経た上でも、天皇制を維持しようと懸命に努力したのか、何故、マッカーサーが来た途端、学校教師が正反対の内容を(何の疑問もなく)教壇から説くことができたのか。

それにしても、投書者は、憲法が改正されて「命令されたら他国を侵略しろ」という条文が追加されたら、自分の教え子を海外侵略に送り出すんでしょうか(もちろん、「憲法を守る事ができた」と感激の涙を流してです。で、「侵略戦争はダメ!!」という人達に、「お前等憲法を守れよ」と説得するんでしょうか?)

護憲したいのは分かるんですが、「憲法に護憲しろと書いてあるから護憲してよ」では、能が無いと思うのですが。。。

しかし、朝日の投書欄はなんとかならないものでしょうか。

こんにちは。
これを読ませていただく限り、先生は憲法改正限界がないというお考えに見えますが、いかがでしょうか。

全体として憲法秩序の崩壊を招かないレベルの改正であっても、例えば第3章の人権規定は個別の条項が憲法のコアたる構成要素なのだから、そのうちの1つの権利を実質的に廃止する内容の改正は、現行憲法の改正手続では不可能で、それは革命と称すべきである・・・というかなりきつきつの改正限界説をとりつつ、
他方最高裁の統治行為論の態度を併せて考えると、

上記のような改正限界があるかどうかは解釈でしか導かれないので、改正の是非は裁判所に判断してもらいたいが、裁判所は逃げ回るだろう。だとすると、改正限界内に収まるような仕組みを改正手続自体に内在させるしかない。
2章の人権規定に直接お世話になるのは、マイノリティである。だとすればこの改正手続にはマイノリティに拒否権を与えたほうがいいのではないか。先生はこの文章では明言されていませんが、最低投票数を用意するということは少数派に拒否権を与えるという意味になりますよね。

という考えはとれないでしょうか。
種類株主総会や特別決議なんかと似たような発想で考えてしまいます。
ただ、この立場をつきつめると最後の一人でも抵抗したら改憲しない、という帰結になってしまいそうですが

先生は、最後の一人でも抵抗したら改憲しない、という立場になりうるこの考えより、改正手続に乗る以上、拒否権など与えず総有権者の5割を超えればどういう内容であれ改正できる、というほうが一貫しているとお考えなのだと思いました。
ただ、一定数の少数派がまとまったら拒否権を与える、というのも原状維持という意味では有りなのかな、、とも思ってしまいます。私はどちらがいいかはまだ迷っています。

>charisさん
ども、いくつかのレベルに分けて考えると理解しやすいと思います。
まず法的には、一旦選ばれた首長・議員はその権限の範囲内で、住民の意向に関わらず自己の信じる行動をとっていいわけです。選挙公約も法的な拘束力は持たない、有権者と選ばれた公職者の関係は命令委任ではないというのはそういうことです。リコール制度のようにこの法的権限に対する明示的な例外はありますが、その場合投票の結果は法的な効力を持ち、たとえばリコールされた首長は自動的に失職します。住民投票条例に基づく住民投票はそうではなく、通常は政治的な意味を持つだけです。つまり法的には、住民投票の結果にかかわらず首長・議員は自由に決定を行なうことができます。
もちろんそれは通常《政治的に》賢明なことではありません。しかし有権者の政治的な判断は次の選挙の際に・人を選ぶという形で=個々の政策についてではなく一定の政策パッケージに対する信任・不信任として示されるしかありませんから、たとえば政治家としては次の選挙までに人々がそのことを忘れるだろうとか、それまでに世論に逆らった政治家の判断の方が結局は正しかったことを人々が悟るだろうとか、他の政策に対する支持が強いので結果的に投票は減少しないだろうなどの予期に立って有権者の民意に反する行為を選ぶことができます。前述の通り《法的には》政治家は任期のあいだのフリーハンドを与えられており、民意は予期的な制約としてしか機能させないというのが代表民主政の基本的な発想であるところ、ある時点での「民意」を・しかも特定の議案に対する賛否という形でポラライズして示すことによってそのフリーハンドを奪おうというのが住民投票ですから、それはクーデタだということになります。
念のために言うと上記は、「クーデタだから悪い」ということをただちに含んでいるわけではありません。成功したクーデタは正統化されるでしょう。

>TKさん
「お国のために戦争に行け」と教壇から説いてたその口で「平和憲法万歳」と言ったわけですから、その逆の変化も簡単に起こすんじゃないですか。権威主義的パーソナリティてえのは、たぶんそういうものかと。まあ私は狷介主義的パーソナリティなのでそういうご時世になったら人権活動家になると思いますが。

>mggさん
まずお答えすると私は憲法改正無限界説だと思います。というのは第一に憲法改正限界説の論拠に説得力を感じたことが一度もないからですし(リバタリアニズムにおける自己奴隷化問題をめぐる議論とかちゃんと勉強した方がいいと思うわけですが)、第二に根元的規約主義という私の法哲学的立場からすると「憲法改正の限界」ということの意味自体をとらえ直さないといけないからということになります。簡単に言うと、八月革命説が成り立つなら憲法改正限界なんて無意味だろ、だって《形式上は旧憲法の改正条項に合致していても、旧憲法の延長と理解することが難しいような転換が含まれているのであれば、終わったあとから「あれが実は革命であった」って言えばいいんだから》ということになるでしょうか。
もう一つの問題にお答えすると、現在想定されているような最低投票率の水準ではマイノリティに拒否権を与えることにはならないし、major minorityに授権することによってminor minorityに対する不当な扱いをかえって助長する危険性があります。一方minor minorityであっても拒否権を事実上行使し得るような高率の最低投票率を定めた場合、それは逆に少数派による多数派の支配というどうにも正当化しがたい事態を招くことになります。
また、そもそもマイノリティをマイナーであるというだけの理由で優遇すべきかというのも難しい問題で、たとえばアメリカ社会で黒人が少数派なのは何らかの是正を必要とする、少なくともその検討を必要とさせる要素だと思いますが、天動説を信じているのが少数派であるとか南極の地下に秘密基地があってナチスのUFOが飛んでくるのだと思っているのがminor minorityにとどまっているという自体はむしろ慶賀に値すると思います(と書いて本当にminorであるかどうかにちょっと自信がなかったり)。この点を仮に認めるとすれば、結局重要なのはその要求が正義にかなっているかどうかであり、それを少数派のvetoで担保するのは不健全だということになるのではないでしょうか。

ただ一点テクニカルに私も疑問に思ったことがあり、というのはたとえば井上達夫の批判的民主政であれば上述の《正義にかなっているか》の判断は活性化された司法府に委ねられるべきこととされるわけですが、憲法改正案というのはおそらく形式的意義における憲法ですわな。何を言っているかというともちろん通常の法律制定手続とは違うわけですし、下位規範である(形式的意義の)法律で憲法が改正できると考えるのも硬性憲法国たる我が国では許されないでしょうから、法律の改正案が法律であり「平成××年法律第××号」と番号を付されるのと同様、成立すれば「平成××年憲法第××号」と称されるのではないかと思ったのです。
ところで憲法81条は「最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所である。」としており、何が言いたいかというと憲法は違憲立法審査権の対象ではないのではないかと思うわけです。すると第三段落で「裁判所は逃げ回るだろう」と書かれていますが《そもそも裁判所には判断権限がないのではないか》と。
まあもちろん国民投票法案の(改正前における)合憲性を問題にして、違憲な手続で行われた国民投票は無効なので改正が成立していないという訴訟は可能でしょうが(そして負けると思いますが)、この問題は実定法規としての日本国憲法の解釈論と、そもそもの憲法制定権力論の両面からもう少し詳しく考えないといかんなと、とりあえずそう思いました。というか私の立場からはあまりこういう論じかたで問題にする意味はないので本来は憲法学者の仕事だと思いますが、誰かやらんのかな。やらんか。

私も、憲法改正に限界はないと考えています。
というか、憲法改正限界の問題って、憲法改正手続に従って行われた憲法典条項の変更を、なんて呼ぶか、という話に過ぎないでしょ、って思ってます。
最低投票率については、大体、憲法改正手続に関与するという主権者に与えられた権限を行使しない主権者って何なの?ってあきれるだけですが。。。(ただ、例えば徴兵制度が憲法改正に盛り込まれても、徴兵対象とならない層(老人達)が大多数を占める日本では、議論が盛り上がらないかもしれないでしょうが。。。)

おおやさん、はじめまして

法律がご専門のようなので、私の96条解釈について、ご意見いただければ幸いです。
96条は、原案発案権者規定であると考えています。したがっていま国会で審議されている国会法改正案は96条改憲案そのものであると。

日本国憲法誕生過程に遡って解釈する憲法96条(憲法改正条項)
http://unitingforpeace.seesaa.net/article/41239098.html

>ohtaさん
ども。簡単に拝見しましたが、まず憲法学の信頼すべき教科書をきちんと通読することを強くお薦めします。
少しだけ補足すると、まず同一の単語が異なる法律中で使われている場合、それらが同一の意味を持つことは必ずしも保証されません。もちろん混乱の原因になるので立法作業の段階でそういう差異が生じないように普通は注意されるのですが、日本国憲法については制定プロセスの問題からそのような配慮が十分になされておらず、技術的には非常に欠陥の多い法文になっているので文言をストレートに読み取ってはいけない部分がかなりあります(いろいろ過去に説明したことがありますが、7条4号が天皇の国事行為として「国会議員の総選挙の施行」の公示を挙げているので、素直に読むと参議院通常選挙の公示が行なえなくなることはその一例です)。
もう一つ、確立した慣行として日本では内閣が両議院に対する法律案の提出を行なっており、実際に成立する法律の多くはこのような内閣提出法案であることは周知の事実ですが、この法案提出権の憲法上の根拠について調べてみてください。この問題について戦後すぐに議論された内容も参考になると思います。

国会の議決に議員総数の1/3という定足数があるのに、なぜ国民投票の票決に有権者の何十%という定足数はいらないのか。その違いの理由を聞きたい。

>もらーとさん
(1) 憲法56条1項には両議員の定足数に関する定めがあるが、96条1項にはその規定がないので。
(2) 国会議員にとって議事に参加することは職務であるが(そう思っていない政党もあるかもしれないが)、国民にとって国民投票に参加することは職業上の義務ではないから。
(3) 議会は一定の会期のあいだ開会されているので定足数が定められていないと抜き打ち的に採決が行なわれてしまうような危険性があるが、国民投票の場合事前にスケジュールを決めて十分に予告しておかないとそもそも実施不可能なので、そのような「だましうち」の危険性がないから。

という感じでまあ理屈はいくらも考えつきますが、いきなり人のところに来てタメ口きく相手にはこの程度で十分ですかね。はい。

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