れきしのはなし

| コメント(2) | トラックバック(0)

ちょっと歴史的なことが気になって昔の話を読んでおり、まあ現代モノを読むと神経に障るからという側面がないではない。マルクスが言ったように歴史は繰り返すものだから(ただし一度目は悲劇として、二度目は喜劇として)、現代の問題を見抜く目を養っておく方がいいというところもある。ところで最近よく想起されるのが戦前陸軍の皇道派と二・二六事件のことで、本人たちは天皇を中心とする政治体制・天皇の意志に沿った統治を構築することを主張したわけだが、そのためのクーデタに対して昭和天皇自身は「朕自ら近衛師団を率いて之を鎮定せん」などと激怒した、というエピソードがある。まあ皇道派いわくの「天皇」というのは彼らが正しいと思ったこと・彼らの信念を基礎付けるための空白の概念であって、生身の天皇の意志や人格ではない。結局それは天皇が沈黙し、主体としては空白でいつづけることによってのみ機能するものだったのだなあと、まあそういう話。

ところで憲法にはその国家が目指すべき目標を書き込む部分があって、そのあたりで実態と目標とが乖離することがある、というのは正しい。判例上もいわゆるプログラム規定論というのがあり、たとえば「健康で文化的な最低限度の生活」を保障するというのは財源その他の面から可能な限りそれを実現する義務を国家に負わせたものであって、特定された一定の生活内容を供給することに国家が失敗した場合にただちに違憲違法になるとか国家賠償責任を負わせるとかいう趣旨ではないと解されている。

しかし第一に、憲法の全部が全部そんな規定ではないのであって、憲法に衆議院が内閣不信任決議を可決したら、内閣は総辞職するか、衆議院を解散しなくてはならないと書いてあるところ不信任の可決があって、しかし内閣が総辞職も解散総選挙もせず、いやあ憲法は目標であって実態との乖離が生じるのは当然ですよはっはっはとか言われたらたまったもんではねえのである。第二に、たとえプログラム規定であっても国家はその実現のために可能な努力をするよう義務付けられているのであって、不作為が一定の裁量の限度を越えた場合には違憲違法になり得るわけだ。まあちょっと不穏当な比喩かもしれんが「東大絶対合格!!」とか机の前に掲げとくなら模試でC判定くらいは取るとか偏差値60は超えるとかいう実態が求められるわけで、E判定だの偏差値40だのなのにいやあれは目標であって実態との乖離が生じるのは当然ですよはっはっはとか言ってる受験生が本当に東大合格を目標としていると信じるものがいるだろうか。度を過ぎた乖離を放置するとき、目標は目標としてすら機能しないわけである。

ところで私は良いドゥウォーキン読みではないことを自認するので自信はないのだが、書かれた特定の条文を原理として扱う、という発想は彼にはないのではないかと気になっている。ドゥウォーキンは単純なルールが確定的であることを認めており、たとえば「遺言を有効に為すには3人の証人が必要である」という条文は文字通りそのことを意味していると言っている(だからまあ理論的には低水準だと私ははっきり書いたわけだが)。原理というのは、書かれたものである準則の表現があいまいだったり判断に迷うものだった場合に可能な解釈のいずれを採用すべきかの判断基準として求められるものなので、通常は書かれていない。書かれていないからこそどのような原理を仮定した場合に我々の判断や実践がより良く説明され得るだろうかという問いが成り立つわけで、書いてあったら確定的なんだから迷ういわれはないはずなのである。

この点、ドゥウォーキンと論争したので対立しているように見えるけど実はほぼ同じ立場である(と私が『法解釈の言語哲学』で主張したところの)スタンリー・フィッシュが、オーウェン・フィスとの論争においてルール解釈の当否を定める「規律的ルール」が記述可能だというフィスの主張を徹底的に拒絶していることも参考になろう。まあ私に言わせればこれらはすべて同じ議論の異なる意匠であって、つまり不可視であることによってのみ機能する根拠なのだと、そういうことになる。

なんでこんなことを気にしているかというと、まあクラインの壺だろうが原理だろうが構わないが、それが憲法規範として国家権力の行為を直接に規律することを否定されることによってのみ存続を許される憲法ってなんなのかなと思ったからである。目標なんだから乖離があって当然という論法は、その規定が憲法訴訟の根拠として、国家に対して一定の行為を求める理由として機能することを否定してしまう。特定の規定が原理だ、という議論もその限りでは同様の性質を持つように思われる。どちらにせよ憲法はそこで、現実に対してモノを言えない存在になってしまうのだが、そうすべきことを主張する論者によればそれこそが護憲的だと言うのである。

ところで冒頭の話、昭和天皇にはしかし生身があったので国家の「機関」としての立場を踏み越えて発言することが物理的には可能であったし、通説によれば生涯に二回だけそうした、という。日本国憲法はモノを言うことができないわけだが、もし口があったら何て言うだろうね、とは最近思うところなのである。

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://www.axis-cafe.net/cgi-bin/mt/mt-tb.cgi/408

コメント(2)

おはようございます。あたらしいけんぽうのはなしでもあったのですね。

前に二・二六を鎮定しないでいたら後々あることないこと背負わされてえらい目にあったので今度あんな事件があったら速攻鎮定してやろうと手ぐすねひいて下さっているのではないでしょうか<皇族

ことばの色々なレベルがあって言葉の持つ様々な規範的な機能をレベルの違いに関わらずに盛り込んであるのでとてもカラフルですね(笑)。貴殿は鋭敏にもそのまちまちさを的確に指摘しておられる。この憲法を「夏休みにいたずらしたいたずら坊主による、ことごとくしおらしくした反省文」と評する方がおられてそういう一面もあるだろうなあと思っております。ごめんなさいごめんなさい言い過ぎて変なことになったとこも。


以前、「松沢大学の芦原教授」に評論家の呉智英氏が”インタビュー”した文章で、「台風の被害に議会や行政は何を手をこまねいているのか。ただちに『台風禁止法』を制定せよ」と教授は主張していました
(双葉社「賢者の誘惑」)

コメントする

2013年12月

1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        

Monthly Archive

Webpages

Powered by Movable Type 5.14-ja