東京法哲学研究会に行ってきた。

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何故かというと『公共性の法哲学』合評会であって師匠から君らの論文なんか弁護したくないから自力で何とかするようにと召集がかかったからである(一部捏造)。まあしかし合評会の中でも指摘されたのだが「公共性」というテーマは一応共通していても論者のあいだにかなりの立場の差がある論文集だったというのは事実であって、私自身も師匠の見解を批判しているので弁護しろと言われても困るのは当然である。なので好き勝手言いましたとかいう事態になると今度は私が困るのでまだ時差ボケの治らない体を引きずって出かけた次第である。なお治っていないのは多分に私がもともと宵っぱりだからであって、もとからバンコク時間あたりで生きている傾向が強いところ何とかニューデリーくらいまで戻ってきたかなという感じ。新学期までには日本に戻ってきたい所存である。さて。

コメンテーターが宇野重規・斎藤純一・嶋津格以上五十音順敬称略という結構な豪華メンバーだったこともあり盛況だったが、しゃべりたがりが多いこともあって3時間という設定は少し短かったかなという気もする。とりあえずコメントに5分で応答しろと言われて時間を守った自分を褒めてあげたい。でまあ、そのときの内容について若干書くのだが、一つは市民的不服従をどう評価するかという指摘があり、不法ですが何かと率直にお答えしたことについて。

ポイントは3つあってそのうち2つは当日も触れた。第一に「正しい」市民的不服従というのはそれによって公論を喚起することを目的とするわけだから、ちゃんと不法行為として扱ってその機会を提供しないと失礼であるということ。第二に不服従の対象として行政機関の一次的な行為と、それに対する司法的判断という二次的な行為は区別する必要があるだろうということ。後者を説明するために2ちゃんねるの管理人が損害賠償を払わないという例を挙げて「これを市民的不服従とか呼んでいいか」と問題提起したわけだが、別のところでちょっと騒動になったようなので少し余計に説明すると、どういう場合に管理人に責任ありとするかという実体法的な論点と、「責任あり」とされた判決に従うべきかどうかという手続法的な論点は区別しないといけないだろうという話。

私は、そりゃまあいろいろな問題はあるが2ちゃんねる的な匿名掲示板にも存在意義はあり、その上で問題ある言説が流通してしまった場合でも管理者の責任は限定的にとらえていく方が望ましい、メディアの特性上可能な範囲で事後の問題解決への努力が真摯に為されていれば十分であり、それ以上は「対抗言論」more speechによって解決されるのが本筋であるという意見であって(もちろんそのような基準から見た場合に現在の2ちゃんねるを正当化できるかという問題はなおあるわけだが、それは措く)、おそらく法学者としては匿名掲示板的なものにかなりfriendlyな立場だが、しかし裁判には応訴しない損害賠償は払わないという態度は正当化できないと思っている。それは端的に言えば、実体法上の視点では加害者・被害者・管理者の利害のバランスが問題になるのに対し、手続法の観点ではそれにこの制度が額面通りに機能するであろうという国民全体の信頼というファクターが加わるからだ、ということになるだろうか。実体法上はどれだけ言い分があろうが、一定の手続を踏んだものはその手続自体の価値によって尊重しなくてはならないというのが法システムの根本的なお約束である。これが2ちゃんねるの管理人だからまだ訴えた企業に賠償金が入る入らないの騒動で済んでいるが、たとえば国家賠償請求訴訟で敗訴した政府が同じように強制執行されるまで支払わないとか執行官を実力で排除して抵抗するとかやりはじめたらえらいことになるわけで、たまたまいま問題になっているのが(社会的影響力や実力がどのくらいあるのかは不明だが)一個人だからといって見逃してよいような話ではないのである。なお4月に刊行される岩波講座憲法・第1巻に掲載される予定の論文は、憲法解釈について同様の論点を扱ったものなので間接的には参考になるかもしれない。まあつまり憲法が政府の行動を直接的に規律しているという信憑を破壊することによって現行憲法を延命させようとすると立憲主義と法システムに対する信頼全体が破壊されてしまうのでやめたがいいという話である。

話を元に戻す。当日は言及しなかった第三の論点は、「市民的不服従」とかそんなに特別なことなの? という話であって、確か西野喜一先生の裁判研究がそのあたりを実証していたかと思うが、最高裁が判例変更をする場合に多くは「先触れ」的な下級審判決が存在するという指摘がある。もちろん下級審裁判官の人事とか待遇とかは最高裁事務総局が仕切っており、最高裁判例と異なる判示をして上級審で覆されればマイナス評価になるからそれをやりたがる人間は少ない、従って最高裁判決は下級審に対して事実上の拘束力を持つと従来は説明されてきた。しかし実際には、確立した最高裁判例や法文の解釈に逆らって判決を出す裁判官というのがいて、しかもその勇気ある行動を上級審が事後的に是認する(判例を変更する)こともあるわけだ。「権力」の内部にもこのような「不服従」がある、というより有限のルールで無限のケースを処理しなければならない以上「権力」の動作にこのような「賭け」は不可欠なのであって、国家が実際に動いていくあいだにはその中の人々の正当化と説得への努力が無数にあるわけだ。そういうものを見ずに「市民」の行為だけに注目していていいのかな、という思いが私にはある。

もう一つは、これは論争の軸を師匠が的確に指摘したと思うのだが、社会秩序は稀少なのか過剰なのか、国家ないしその権力は弱くて崩壊の可能性を秘めたものなのか、逆に強すぎて危険な存在なのかという問題である。そこにおいて私は明確に前者、つまり秩序は稀少であり国家権力はむしろ弱いという立場を取るが、その一つの根拠は法整備支援などを通じて見た発展途上国の実情というあたりにある。深夜の誰もいない赤信号で止まる人間と止まらない人間のどちらが「法の支配」に適合的か? という問題提起があり、その方の意図は理屈をこねて止まらない人間の方が「法」を理解しているというあたりにあったのだが、私が「ベトナムでは誰も止まりませんが」とまあいつもの芸に走る。いつぞやシティズンシップ論について述べたときにも言ったことだが、世界ではようやく国民国家が成立したとかまだ作ってるとかいう地域の方がたぶん広いので、近代国家が確立して熟れ過ぎたあたりの社会の中の話だけをしても良くないんじゃないかとは最近よく思っているのであるとまあ、そういう話。

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