続・ひたぶるにうら悲し

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年頭近くに林信吾『反戦軍事学』(朝日新書、朝日新聞社、2006)について多少書いたところ著者たる「林信吾」氏を名乗ってゆかいなコメントを残す人物が出没したことについて、ここを読んでおられた方があるいはご記憶だろうかと思う。その際、私としては自分の軍事知識が非常に限定的であることは理解しているのでその面での検討は十分にできないと明記しておいたわけだが、JSF氏の『週刊オブイェクト』(「朝日新書「反戦軍事学」を読む〜序章〜」以下)において、主として軍事的な事実に関する検証が行なわれているのでご紹介するとともに、そのあたりの議論も受けて若干の疑問について書いておきたい。

なお以下、当所コメント欄などに出没した「林信吾」氏が本物であるという悲しい事実を仮定した上で話を進めるが、そうでなかったら本の価値が上がるというものでもないし、「林信吾」氏の評価が上がるというものでもない。そうであったらさらに両者の評価が下がる、とは言えるかもしれないが。

さて、同所のコメント欄では「なぜあんなコメント消さないのか」(要旨)というご指摘もいただいたが、端的に言えば私が馬鹿に馬鹿と言われても恥にはなるまいと考えているからである。もちろん林信吾氏が馬鹿なのか、氏を批判している私が馬鹿なのかは私自身にはわからない話であって、そこは(ここを読んでいる――と注記しないと林信吾氏には理解できないようなので)読者の方々が判断すれば良いし、またそうすべきものだろう。私としては、その際の判断材料を多く保存しておく方がそうしないよりも良いと思っており、まあつまり私は基本的には思想の自由市場の信者である。

この点はそもそもどの時点で批判的に論じる資格があるかをめぐる見解の違いにも現われているように思う。林信吾氏は批判するなら金出して買ってからにしろと言われるのであり、まあ私としては金を出せば買える程度の本の世界に住んでおられることに対して羨望の念を禁じ得ないが、しかしいまとても読み通せないくらい質の低い本があったとして(いや私自身は林信吾氏の本がまさにそうだったと主張しているわけだが)「読み通していないから何も発言するべきではない」という林信吾氏の主張に従うのと、「こういう理由でとても読めませんでした」と明記して問題点を説明するのと、どちらが読者ないし広く一般大衆なり国民なりのためになるのかと言えば、後者であろうかと思う。

もちろん読んでないのに読みましたと嘘を付けば問題だが、そうでない限り正しい意見かどうかはそれこそ読者が判断すれば良いわけだし、書店に行けば自分で手に取って内容を確認できることが多いわけだから私一人が独占的な情報供給者の地位に立っているわけでもない(独占的であれば市場メカニズムは働きにくいので、行動規制をかけることにも合理性があると思うのだが)。まあ買ってほしいという著者の思いは理解しないでもないが、「とにかく情報増」という私の規範にも十分な合理性があるだろう。ただまあ、これは直ちに自分に返ってくるだろうことを承知の上で言えば、やはり買いたくなるようにさせるのは作者の責任であり、読者にはどのような責任もない、買うことも買わずに済ませることも彼らの(我々の)自由なのだ、とは言いたくなる。

というわけでこの論点はある共通のルールに立ってそれに反しているかどうかを争うというよりそもそもどのようなルールに従うべきかをめぐるものだと位置付けることができる。であるとするならば、相手が自分のルールに従っていないからけしからんと一方的に批判することにはほぼまったく完全に根底から意味がないのであって、林信吾氏としては自分のルールに従うとどのような良いことがあり、そうしないとどのような悪いことがあるのかを提示して私(を含む読者)を説得すべきであった。もちろんこれは、そのような相当に合理的なルール同士の争いというものが存在し得るということが林信吾氏には理解できないであろうということをわかった上で書いているのであり、端的には「ああなっちゃいけませんよ」というだけの話である。

***

実はもう一つ少し不思議なことがあって、いや私は確かに林信吾氏が特定された通りの機関に所属する、氏が挙げた通りの実名を持つ人物であって、そのことは否定するつもりはないし否定したこともないが、しかしあんまり書いてないよねえという話。実名については原稿のデータを挙げるエントリには基本的に書いてあり、それを元に検索するかあるいは他のエントリをよく見れば断片的な情報を総合して正解に到達するのも簡単だと思うわけだが(なおその内容を形式的にも正確に書くのは結構難しいのだが、まあその問題は措く)、しかし自分でまとめてはっきりと書くことは(このblogでは)ないし、ちょっと見直したが『反戦軍事学』に触れたエントリ2つにも、その直前あたりのエントリにも書いていないようである。

しかし林信吾氏は私のプロフィールのいくばくかを把握しており、まあその使用法が効果的であるかどうかについては疑念なしとしないが、それをコメント等でも使われている。で私の疑問というのはつまり、これ一生懸命調べたのかなあということである。

いや別に自分が批判されていた場合に批判者が誰なのか知りたくなるとか、実際に知ろうとするということを咎めようというわけではまったくない。単純な好奇心とか、その批判にどの程度の妥当性があるかということの手掛かりとして発言者の背景を探るというのはありそうなことだと思う。しかし発言それ自体については発言者が誰だろうが差が生じるものでもないし、それを知らなくても反論とか説明はできるよな、とも思うわけである。現に私自身は林信吾氏が「なりすまし」かどうかについて若干確認する必要があるといったような特殊な場合を除いてはコメントを書いてくれた人の素性について詮索することはないし、また反応するにあたってそれで不自由もなかろうと思っている。

逆に言うと、純粋に言論的には発言者のプロフィールを把握する必要などないにもかかわらず、林信吾氏がコメントを書き込む前に相当の努力を払ってそれを知ろうとしたとするならば、その背景にはどのような理由が考えられるだろうかということであり、まあその答は氏のコメントから前述の「批判のルール」をめぐる部分と私のプロフィールに関する部分を除くと何が残るか、という点から明らかだという気もするのである。相手にはりつけることのできるレッテルを懸命に探すことで自分の空疎なプライドを守ろうとしていたのであれば、やはり私として言えるのは――林信吾氏に対してではなくこの状況を見ている人々に対して――「ああなっちゃいけませんよ」の一言であろうか。

***

最大の疑問はこういうことである。JSF氏のサイトにおけるコメントで、林信吾氏はこの本を軍オタのために書いたわけではない(要旨)と述べている。さて一方、氏の歴史的知識の乏しさと憲法・法制度に関する明白な常識の欠如に照らすならば、人文社会科学の素養がある人々に向けて書かれたというわけでもなさそうである。じゃあいったいこの本のターゲットは誰なのか

もしそれが、「反戦」への素朴な強い志を持ち(別に私はそれが悪いと言いたいわけではない)、だが専門的知識を持たないので自らその信念の正しさを検証したり批判に対して反論することができず、逆風が強まっていることを感じて支えとなるものを求めている人々であるとするならば、筆者の主張に反してその「支え」が何の助けにもならんであろうものであることを見るにつけ、ほとんどこれはリフォーム詐欺だと思うわけである。そういう行為こそがその政治勢力を支えるリソースを枯らすことになるんだ、とは強調したいところなのだが、よく考えたら「新左翼」というのはまさにそのリソース枯らしの名人でその成れの果てが林信吾氏なのであって、すべてはまたもひたぶるにうら悲しい話になってしまうのであった。

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コメント(3)

というあたりの話を書いたところで『週刊オブイェクト』における林信吾氏のコメントがあり、あまりに呆れ果てたので少し書く。プロだから金にならないものは書かないというのは一つの見識であり、それをどうこう言う気はない。一方、ネットの影響力など知れたものであって実社会はそれと無縁に動いている、という主張にも(どの程度――たとえば証拠に基づいて――正当化可能かという問題はあるだろうが)一理はあるだろう。

だが、だとすればそんなところで自分がどれだけ批判されていようがけなされていようが気にせずにプロとしての金になる原稿を書くのに専念していればいいだけの話である。現に世の中にはネットには一切姿を現さないとか、自分が広報として言いたいことを言うためのページだけを作っているとか、ブログは書いてコメント欄も開放しておくけど俺自身は返事しないよとか(内田樹先生のことである)、いろいろな書き手がいるのであって、林信吾氏がネットでの批判に対して何もしなくても誰も怒る人間はいないのである。

問題は、であるにもかかわらず積極的に・意図的に、しかも自分がコメントを書き込むという形で反応したのなら何らかの形でその責任を取ることが求められても当然ではないか、という点にある。もちろん私は林信吾氏にそうする義務が(法的・道徳的に)ある、と言いたいのではない。単に、《人々がそれを期待することは当然なのではないか》と言いたいまでのことである。

しかも単なる誹謗中傷ならともかく、事実の指摘に基づく批判に対して「忙しい」「金にならない仕事はしない」などと泣き言を書いていれば「反論できないから逃げたのだな」と思われるのは当然だろう。もちろん本当にそうなのかもしれないが、であれば最初から別に反応しなければよかったのだ、というのはすでに書いた通りである。ネット上の言論には《証拠がくっきりと残る》、《いつでも過去の内容が参照され得る》という特徴があるので、つまり端的に何が言いたいかというと《はっきりと「勝ち」の形を作らない限り「負け」に見えてしまう》ということである。従来のメディアのように、なんかいつのまにか皆忘れているとか、あいまいに終結するとかいうことが少ないのがネットメディアの特徴であり、仮にネット上での言論のやりとりを「喧嘩」だと思うならば(私自身は相互に有益なコミュニケーションというのもあるので単純に勝ち負けで言うのは好きではないが)《コミットするなら勝つまで徹底的に資源を投入する、そこまでできない見通しがあるなら最初からコミットしない》というのがその「勝ち方」かなと思う。

で、林信吾氏の対応というのは概ねこの「喧嘩の仕方」を《ほぼ完全に踏み外している》ので、これで喧嘩のやり方がどうのこうのとご大層な口を聞くあたりにも痛々しさがただようところである。正直、メディアごとの特性を踏まえないとか自分のやり方がどこでも通用すると思ってるとか《プロの書き手としては技術レベル異常に低いんじゃねえの?》と思うが、まあそんなことは私が判断すべき事柄でもあるまい。

>ほとんどこれはリフォーム詐欺だ

はい。私は反戦平和派に対し「詐欺に引っかかるな」と呼び掛ける名目であの連載を始めました。林信吾氏は最近のコメントで、

「俺の著作が言及していない事柄(銃剣が着脱可能だなんて、当たり前過ぎ)を取り上げては、「この人、なんにも知らないよね」式の煽りに持って行く、幼稚きわまる詭弁。」

と、このように私を批判しています。しかしこの批判は的外れな上に自爆行為だと言えるでしょう。

何故なら、反戦平和派は銃剣がどのライフルにも装着可能だという当たり前の事を知らないのです。軍事常識を知らないからこそ軍事入門書を手に取ろうとしているのです。それなのに当たり前の事をきちんと説明していない、この「反戦軍事学」という本が反戦平和派に薦められないものになっているということを、林信吾氏は理解していません。「反戦軍事学」での説明では、

「八九式は精密な新型小銃でありながら、チャンバラをやるための銃剣を装着しているが」

とあります。この書き方では銃剣装着に関する常識を知らない反戦平和派は、「精密な新型小銃に銃剣を装着することは時代遅れで愚かな事」と認識してしまいます。

もしこの書き方を意図的にやっているとしたら、「反戦軍事学」には詐欺紛いの記述があると断罪できますし、意図せずに書いてしまったというなら、著者の文章構成能力は著しく低いものであると証明される事になるでしょう。

大屋助教授、初めまして。
この林氏ですが、各所の米欄とか見てみますと
何というか、目に余るところがチラホラとあります。
最近のコメントでは、ケンカ(論戦)では
自分の方が勝っているとか言っていますが第三者から見ますと

JSF氏>>その他のコメントに書いている人達>>越えられない壁>>林氏

としか見えません。
しかも、かの有名な糸山英太郎氏が言うように
ケンカをする際には、必ず落し所を設けなければなりませんが
彼の場合、一方的にレッテル張りして
逃げているように見えます。
ご本人は、これは撤退ではなく転進であると言い張っていますが。

自分から見れば、どう仕様も無い人物に見えてしまうんですけどね。
本のほうも、立ち読みした程度ですが
ゲンナリしましたね。

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