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今日も今日とて(1)

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「法整備支援連絡会」というのが法務総合研究所国際協力部で開催されるというので大阪まで出張してまいりました。昨年、日本の支援によって起草されたカンボジア民事訴訟法案が無事可決・成立したということもあり、カンボジア王国司法大臣アン・ヴォンワッタナ閣下ご臨席であります。ちょっと内職のできる雰囲気ではなくおおいに弱る。

まあ大臣を含む偉い方々からは今後の法整備支援のあり方とか日本政府の方針とかそういう大きな問題についてのご講演があり、もちろんそれを踏まえて具体的な支援計画を考えていく必要のある実施機関の偉い方々にとっては非常に重要だったと思うのですが、私なぞは実施レベルの人間なのでよくわからないところもあり。それよりは配布された冊子などに載っていた、実際に現地でプロジェクトに従事した方々の体験談が興味深かったですな。

「法整備支援」なので法律家、特に法曹三者の方が中心なのですが、かねてから支援対象国とのギャップとして指摘される典型的なエピソードがやはり出てきている。というのは、たとえばこんな話。

いま、ある不動産の所有者Aが、XとYという別々の買い手に対して当該不動産を二重に売却してしまったとする。この場合に当該不動産がX・Yいずれの所有に帰すかという問題に対して日本民法177条は「不動産に関する物権の得喪及び変更は、不動産登記法(平成16年法律第123号)その他の登記に関する法律の定めるところに従いその登記をしなければ、第三者に対抗することができない。」と定め、つまり先に登記した人間のものになるとする。いわゆる「二重売買」という事例だが、民法の整備に関連してこの問題を説明するとほとんどわかってもらえない、というのが共通体験として出てくる。

「なぜそんなことが可能なのかわからない」というのが典型的な指摘である。AがXに不動産を売却した時点でAはもはや当該不動産の所有者ではない。だとすればYに対してAは自分の持っていないものを売ったことになるが、そんなことはできないはずだ。従ってYに対する売買は無効であり、常に先の買い手Xが保護されるべきだというのである。「そんなことをするAは悪いやつだから処罰するべきだ」とか、さらには「我々の法律ではこんな問題は起きない。日本の法律よりこの点では我々の方が優れているのではないか」というような反応もある。さて、どうするか。

通常なされる説明は「取引の安全を守るため」だろう。仮にいま、Xの後で売買契約を結んだが先に登記した買い手Yから当該不動産を買おうとしているZがいたとする。日本法ではこの場合に、登記を確認すれば自分が損害を受けないことを確信することができる。しかし先に契約したものを常に保護する法制の場合そうはいかない。この場合は登記の記載にかかわらず先に契約したXが所有者として保護されるのだから、登記上の所有者Yから購入しても所有権を得ることができない。自分が間違いなく購入した不動産の所有者になれることを確認するためには、現在の所有者(と称する人物)がきちんと有効な契約によって所有権を得ているかを調べる必要がある。だが前の所有者が二重売買の「後の買い手」だとすればその売買における前の買い手が保護されてしまうから、ひとつ前の売買契約に問題がないことも確認する必要がある。だが前の前の所有者が二重売買の「後の買い手」だとすれば以下略。

つまりこの場合、ある契約によって本当に不動産の所有権が移転するかどうかを確認することはほぼ不可能になってしまう。それでは安心して売買が行なえないではないか、というのが取引の安全による説明である。まあそれでもこれを理解してもらうのは大変だ、というのが体験者のお話。

さてここからはよりややこしい話になる。念のために言うと、177条は前述の通り不動産に関する規定であり、動産については178条により引渡しが対抗要件になっている。動産は運んできて渡すことができるし、ある物体を同時に二人の人間が別々の場所で持つことはできないから、二重売買の問題は生じない。さきほど「我々の法律ではこんな問題は起きない」と豪語する支援対象国の法律家の反応を紹介したが、なぜ起きないかというとおそらくその国では不動産も同様に考えられているからだ、というのがポイントである。確かに不動産も、同時に二人の異なる人間が完全な利用を享受することはできない。ある不動産の支配それ自体を引き渡すことを売買の成立要件にすれば、二重売買を防止することができるだろう。

と書くと法律を学んだ人間にはタネが割れるのだが、それはつまり「占有」である。日本法や、日本が継受したドイツ法では事実的な支配である「占有」possessioと、自由な使用・収益・処分の権利として抽象化されている「所有」dominiumの区別がある。二重売買の問題が発生するのは「所有権」Eigentumが事実上の支配を離れた観念だからであり、所有と占有の分離を認めていなければこの問題は起きない。二重売買の起きない国というのはどうやらそういう法制のようであり、その源流としてはロシア法・ソビエト法を指摘することができる。革命の前後を問わずロシアでは「絶対的・排他的な使用・収益・処分の権利」としての所有権は成立しておらず、所有主体に応じて土地利用の形態が規制されていたという。ある売買が有効であるかどうかは前の所有主体にどの程度の処分権限が認められていたかに応じて決定されるということになろう。ここにおいてある不動産を「持っている」とは(我々の言葉で言えば)それを占有しているということであり、その状態を事実の上でも動かすことが不動産の処分においては求められたということになる。

そのような制度の何が問題か、というのは実用的には先の取引安全の例や、指図による占有移転の例(たとえば日本法では、誰かに貸した家(従って占有はその借り手にある)を第三者に売却した場合、借り手に対して「以後第三者のためにその物を占有することを命じ、その第三者がこれを承諾」することによって占有権を移転することができる(民法184条)。不動産の物件変動に引渡しを必要とする場合、いったん借り手から家を返してもらい、第三者に移転したあと改めて貸さなくてはならない)で説明することができるだろう。一方理念的には、そこで我々が「権利の持ち主」としてではなく、規制の客体として位置づけられていることが問題なのである。

このことを指摘したのが筏津安恕『司法理論のパラダイム転換と契約理論の再編』(昭和堂2001)である。筏津によれば、物理的な占有を離れた「所有権」の概念が確立されたのはカントの法論においてであり、そこで「モノに対する絶対的・排他的な支配」である所有は人の・モノに対する意思的結合と、それを排他的なものとして認め干渉しないという他のすべての人々の承認の双方が揃ったものとして(従って決して矛盾せず存在しうる・必ず正しいものとして)想定されていた。そのように個々人の意思と、それらが外形的に無矛盾に存在し得る条件としての「法」によって権利の体系たる近代私法が誕生した、というあたりを今年(平成19年度)の「法思想史」でも講義する予定なのですが説明が難しくてですね。まあでもそんな所有の本質がどうこういう抽象的な議論に現在性があったのだなあという意外な感に打たれていたのですよ。はい。

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内藤 さんのコメント (2007年2月15日 08:41):

いささか古いページですし、おおや先生あたりはとうにご高承のことと思いますが、
この辺の話のさわりが
http://www.moj.go.jp/HOUSO/CAMBODIA/c-01.html
あたりにありますね。
法整備とか法意識とかに関係のない素人の私でも読み物として結構面白かったです、ハイ。
(あと、Webページ制作の拙劣さに関しては定評のあるあの某省にしては随分まともな情宣活動だと思った記憶 *** self-cencered ***)

おおや さんのコメント (2007年2月17日 00:12):

>内藤さん
あ〜、これネットで出てたんですか。会場に冊子版が置いてありまして、腹を抱えて笑ったので周囲の人間にも勧めて持って帰ってきました。
この続編のような法整備支援体験談がまた出てますので、ネットで公開されるかもしれません。やはりいろいろと面白いです。

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>内藤さん あ〜、こ
内藤 on 今日も今日とて(1):
いささか古いページで

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