ああそう。

| コメント(0) | トラックバック(0)

「教員の教育能力向上研修、全大学に義務づけ 文科省」(asahi.com)。いやまあ、自分が学生だった頃を思い返してもひどい講義ってのはあったし今もあるだろうから苦情が出ることは当然だと思うんだが、これは意味のある改善策なんだろうか。というのは大きく二つ問題があって、

(1) 誰が研修を実施するのか: 教えるからには教える中身が決まっている必要があるが、大学における教育手法についての研究というのは進展していないんじゃないか。そもそも学問分野や科目の位置づけによって相当に「正しい」手法が変わってくるだろうし、想定する学生手段の違いも影響するだろう。教育の成果をどう評価するかという問題もある。医学教育のように教えるべき内容が相当に統一されていて、とりあえずの評価基準として医師国家試験あたりが想定できる分野なら結構まともに研究できそうだけど、という感じ。

講義を初めてやることになった頃にこのあたりのことをちょっと考えて、池田・戸田山 他『成長するティップス先生:授業デザインのための秘訣集』(玉川大学出版部 2001)なんかも読んだ。参考にはなったが「そんなの常識だよねえ」という部分(「セクハラは問題外」とか)や「これは法学(法哲学)分野では使えない手法だねえ」というところ(「学生とコミュニケートしよう」――いや大教室だし扱う内容も多いからそんな時間的余裕はない)も多かったなあ、という印象。この本は結構良くできていると思うんだが、それでもこう、ということは共通的なFDや教育手法確立の可能性や有効性には悲観的になる。やるとすれば同じあるいは近隣の分野でノウハウを共有していくための研修会とか、そういうのの方が有効かとは思われる。小中高の先生たちはそういうのやってるみたいですね。

もちろん私が「常識だ」と思う内容が全教員にとっての常識になっているかといえばもちろん悲しいことにそうではないというのが現実であって、それはセクハラ事案が全国の大学で続発していることにも示されているし、個人的には著作権処理だの個人情報保護だの情報セキュリティだのに関して学内で話をするたびに痛感させられることでもある。だから研修というのも最低限以下のものを最低限に引き上げるのが目的だと割り切ればその必要性を理解しないではないのだが、そんなもんに付き合わされる側の身にもなってくれい。ただそれでもまだ心配しているのは、

(2) 研修に対する反応性があるのか: ということである。一つ目はまあこう物議を醸す言い方かもしれないが、こういうのダメなやつほど来ないでしょ?ということ。自分の講義に問題がある(かもしれない)ので研修などを通じて改善のヒントを探らなくてはいけない、と思う人はその時点で最低限の自覚(「良い授業」を提供しなくてはならないし、そのためにはまだ改善できるところがあるかもしれない)を持っているわけですよ。それ以下の人に対して研修を通じて改善を働き掛けようとしても、それは講義で欠席に対するお説教をするようなものなんじゃねえの、と。

もう一つは、しかしそうなるべき理由があるという話で、だって大学教員は授業の能力で評価されてないからねえということ。まあ大学や分野によって違いがあるだろうし、最近では採用面接で模擬授業という話も増えてきているようだから今後は少し事情も変わってくるかもしれないが、伝統的には大学教員の「業績」というのは研究に関することであって、採用も昇進もそれで評価されてきたわけですよ。その評価基準に照らして「授業がうまい」ことがどういう意味を持つかというと率直に言ってマイナスだな、という気もする。だってそういう評判になって受講者が増えると授業の管理に必要な時間(典型的には答案の採点時間)が増えて研究時間が減るんだもの。となると合理的な教員はなるべく学生を追い払おうとするだろうなと、学部演習の教材にドイツ語・フランス語文献を指定する人の話(当然学生から敬遠されて登録者ゼロになると開講しないで済むのがねらい)などを聞くと思う。なお分野によっては学生が集まると共同作業が進展したりしてむしろ研究に有利になることもあると思うので、上記はあくまで個人営業的な学問(私見では法哲学はここに含まれる)の話。

さて、ではどうすればいいかというのは結構問題なのだが、一つには「授業はできないが研究のすばらしい人間」を囲っておくというのも大学の重要な機能だと思うのである程度は学生にもあきらめて欲しいなあと思わなくもない。これに対して「そんな人は学部学生に講義しないようにしまっておいてください」と学生が思うとすればそれも妥当なので、収納先をきちんと考えるというのが課題だろうと思う。

しかし一方、授業が下手なことの言い訳で「私は研究者だから」とかいう人間の研究が本当にすばらしいケースがどのくらいあるかという問題もあり、だから本当に重要なのは評価の問題だよな、と思うわけである。反応性も効果もよくわからない研修を義務づけるくらいなら、研究と教育の能力・成果をきちんと評価してそれに相応した待遇を保障するようにすれば、研究に専念してそれでいいやと思う人はそうするだろうし、教育に関与する人間は良い評価を目指して改善に取り組むんじゃないかと。もちろんその評価プロセスや基準をどう設定するかという難しい問題もあるわけだが、大学人がそれを自律的に設定することを回避し続けてきたから外部からよくわかんないシステムを押し付けられちゃうんだと、そういういつもの話になるのである。

なお私自身はなんでか知らないが結構授業というものに独自の価値を感じており、それなりに手間をかけて取り組んでいるつもりなわけですが、それが本当かどうか(さらに成功しているかどうか)は学生諸君の判断することですな。

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://www.axis-cafe.net/cgi-bin/mt/mt-tb.cgi/372

コメントする

2012年10月

  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      

Monthly Archive

Webpages

Powered by Movable Type 5.14-ja