雑感

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留守中にたまった案件を逐次処理中。とりあえず校正3件のうち2件を終わらせ残り1つ、だがこれが長い。そうこうしているうちに別の仕事が増えはじめるわけで 母さん、僕の夏休み、どうしたんでせうね?/ええ、碓氷から霧積へゆくみちで、/谷底へ落としたあの夏休みですよ。というわけで、雑感。

どうしたものか、その1。中日新聞9月16日夕刊「夕歩道」欄

“歴史認識”のズレはそこから生ずる。自民党の安倍総裁候補は、日中戦争が日本の侵略だったとは言わない。また朝鮮を植民地にしたことにも触れない。が、向こうは忘れない。豊臣秀吉の侵略だって今も。
過ぎ去ったことは水に流して恨みっこなしとはやられた方は、そうはいかん。自らの命を捨ててでもテロをやめない側にも、長い恨み骨髄の“歴史認識”がある。そこを解きほぐさねば、手打ちには至るまい。

シンプルには「ああそうですかテロ肯定ですか」の一言だが、もう少し言うと「壬申倭乱!」と言われたらこちらにも「元寇の恨み果たさでおくべきか」という言い分があるのであって、もちろん先方としても「白村江のカタキ!」とかなんとか言い返してくるであろう。当事者の「恨み」なんてえものを根拠に仕返しすることを肯定していると歴史をずんずん遡って収拾が付かなくなるから「宣戦布告」と「平和条約」あたりで法的に戦争状態と平和状態を区別し、とにかく手打ちは済んだことにしようというのがヨーロッパの生んだ国際法の原則なのであって、そのあとは不満があるにしてもオモテで言うのはみっともねえし、実力行使に及ぶのは論外というお約束になっているわけである(注記すると、なので私としては東京裁判は勝者による裁きであって受け入れられないとかオモテで言うのもみっともねえと思っている。「勝者による裁きだった」というところまでは歴史評価の問題として言って構わないが、効果に対して文句を言うのはどうか、と)。

もちろんそれはヨーロッパで作られた約束であって我々が従うべき道理がないとか弱者からの異議申し立てを圧殺する権力として機能しているとか反論することは可能だし、実際に戦争法を無視したゲリラ活動で抵抗した人たちというのもいたわけだし、いまテロ活動に燃えてる人たちに聞けば似たようなことを答えるかもしれん。しかし、前にも言ったことだが弱者側がこの仕切りを踏み越えれば強者の側も踏み越えてくるのであって、その理屈など上述の通りひねくれば出てくるのである。で、定義から強者の方が弱者より強いんだからガチで勝負すれば(そりゃ強者の側も怪我をするのではあるが)より痛い目にあうのは弱者の側である。多大な犠牲を払いながらそれでも抵抗を続けている気になって、一番得をしているのは誰か。「抵抗を続けるべきだ」と煽動しているヤツじゃないのか、とは考えるべきだと思うのだ。

お互いに思うことはあって、それは当事者として引き受けなくてはならないし引き受けることになるだろう。だが互いに一定のルールを守り、直接に殴りあうことはもうしない。という単純なルールに戻るべきだ、それに対する不満を煽る者こそ、実は弱者の復権に対する最大の障害だと思うわけである。いいからカール・シュミット読め。

*****

どうしたものか、その2。朝日新聞9月17日社説「靖国批判 米国からの問いかけ」

米下院の外交委員会が、日本の歴史問題で公聴会を開いた。テーマは小泉首相の靖国参拝をきっかけに悪化した日本と中国、韓国との関係だ。
この主張が米国を代表する見方というわけではない。公聴会で「米国は介入すべきではない」と発言したグリーン前国家安全保障会議上級アジア部長のように、問題を日米関係に波及させないよう求める声もある。
だが、ハイド氏らを一部の限られた存在と片づけるのは間違いだ。このような公聴会が開かれたこと自体、靖国をめぐる米国の空気の変化を物語っているのかもしれない。

この社説には二通りの応答が可能であろうと思う。第一に、当事者として遊就館展示の正当性を問うハイド下院外交委員長やラントス議員の背後にはあの戦争において日本・ドイツは「悪」でありそれに対抗したアメリカは「善」であったという歴史観がある、少なくともそのような大枠に関する相対化を拒否する姿勢があるわけだが、それを無批判に受け入れてしまっていいのか。「殴った方は忘れても、殴られた方は忘れないという。例えば、原爆で灰にされた広島や長崎は、何年たっても忘れないが落とした方は『戦争を終わらせるための選択だった』と、もはや忘却のかなたのようだ。」(上掲・中日新聞「夕歩道」欄)という批判に対して、どう答えるのか。

第二に、たとえ多数ではないにせよ当事者の中にそういう意見があることを受け止めなくてはならないと言うなら、「自らの国家や民族に固執する右翼系の若者が世界的に増えているという事実」(朝日新聞9月11日)も肯定的に受け止めなくてはならないのではないか。先の戦争を生きた人たちだけが「当事者」であり現在の若者はそうではないというのならそれは無根拠な体験至上主義であるし、当の社説子からして偉そうにお説教を垂れる資格はなさそうなものである。だいたい当事者には過去に対する思い入れがあるわけだがそれを尊重すると世の中ろくなことにならないわけで、満洲には日露以来の父祖の血が……とか言っていたらどうなったかを思い起こすべきではあろう。念のために言うと遊就館にもそういう思い入れ要素がだいぶあるわけで、まあじいちゃんたちの思いとしては仕方ねえなと思いつつ歴史は歴史として客観的に論じる姿勢がもちろん必要なのである。

端的に言うと、これはいわゆる富田メモの際にも感じたことなのだが、ちょっとオポチュニズムが過ぎるだろうという話である。言い分の結論さえ合致していたら何でも使うのかと。いろいろと左前になってきて焦っているのかもしれないが、昔と違って紙面や主張の一貫性をチェックしている人も沢山いるし、それを公表する機会も増えている。その時々の言葉尻で勝った気になっていても良いことないのにな、とは他人事にして思う。

なお富田メモ問題について、左翼の中で一番筋が通っていたと思う発言は、高橋哲哉先生の「憲法の問題なんだから天皇がどうでも関係ねえだろう」(意訳)というもの。いや高橋先生は紳士なので私みたいなべらんめえな表現はされないが、しかし立憲主義者としてはかくあるべし。憲法の根源は国民の意思ですが、それに従うつもりはあるんですか?とかイジりたい気もするが、それはまた今度の機会にする。

*****

ところで先程引用した朝日新聞9月11日の記事は「メンズウェアの胸元 ワンポイントおしゃれに復活」というものであって、「メンズウエアの胸元に、ワンポイントマークが復活している。かつては中年男性のゴルフ用ポロシャツに、必ずついていた傘や熊などのマーク。それが今、おしゃれな装飾としてさまざまな形に進化している。」という書き出しからなんであんな結論に至ってしまうのか、なんだかわからんがきっと必死なんだろうなあと思うと涙を禁じ得ない。2ちゃんねるでは早速穴埋め問題にしてからかわれていたようだが、大学入試出題率No.1を誇る朝日新聞としては記事内部の論理的整合性というものにもう少し留意していただきたいと願うや切。いやほんとに困るんだからこっちが。

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こんにちは。日本では、会社における政治から国の政治に至るまで、様々な政治レベルで

>多大な犠牲を払いながらそれでも抵抗を続けている気になって、一番得をしているのは誰か。「抵抗を続けるべきだ」と煽動しているヤツじゃないのか、とは考えるべきだと思うのだ。

ご指摘のような懐疑が足らないことがままある、と感じていましたので、大変共感して拝読しました。変なところで頑固な割に、自分が踊らされているのに無自覚なまま、平気で踊る人たちが少なくないので、重要な提言だと思います。率先して扇動している、一番得をするはずのヤツに「まずお前が抵抗しろ」と扇動するのがひとつの手ですね。ウソがなければ迷わず抵抗するはずですが、間違いなく自分では動かない。他者を、自らの利益を実現する手段として動かすことだけが目的の、大変質の悪い扇動(あるいは脅迫)だと思います。比喩的に言って、笑顔で、単に迷わず動じない、そんな人々が多数になるといいと思います。

>bunさん
ども。正直こういうことはいろんな人に言いたいのですが、信じちゃっている人ほど「雑音」に耳を貸さないのでどうにもならんな、と思ったりします。本気で信じていて自分が犠牲になることも厭わない扇動家というのもいたりして、それもそれで手に負えませんが(笑)。

こんばんは。元「Dworkin萌え」でございます。やはりちょっとアレなハンドルだと思ったので変えました。お久しぶりです。

>多大な犠牲を払いながらそれでも抵抗を続けている気になって、一番得をしているのは誰か。「抵抗を続けるべきだ」と煽動しているヤツじゃないのか、とは考えるべきだと思うのだ。

連綿と言われ続けていることではありますよね。微妙に生臭い例で恐縮ですが、古くは「天皇制と国家権力を批判している者が党内における宮本顕治の絶対権力に疑問を持たないのは自己欺瞞ではないのか」という保守陣営からの(ほとんど類型的ともいえる)批判がありましたし、薬害エイズ患者支援運動や先のイラク人質事件の折りには、本当に窮地に置かれている人々をイデオロギー闘争に飲み込もうとする「いかがわしい勢力」の存在が指摘されたりもしました。しかしそれらの指摘も、結局は個々の文脈を超えた認識に昇華されることなく、つまり「教訓」とされることなく、今日まで同じ図式が繰り返されているようです。

したがって次には、なぜ同様の図式が反復されてしまうのか、そこにはいかなる必然性があるのか、ということが問われるべきですが、ぱっと思いつく限りでは二つほど仮説があります。

ひとつには、日本人の権力観が(その言語にふさわしく)あまりに膠着的だということが考えられます。つまり日本人は、実際の権力者と権力そのものとを分けて考えることができない。だから、いったん「国家権力と、それに抵抗する者」という図式(=教義?)ができあがってしまった以上、後者であるはずの自分が権力を握るという契機に気付くことができなくなってしまう。となると、日本語を母語とする者の認識論的障害に原因が求められることになります。

いまひとつは、要するにラスコーリニコフのジレンマです。つまり、煽動者側もいったんはみずからが権力を握るという契機に関して「悪」とする可能性に思い至ってはいるものの、「小さな悪はより大きな善の前に聖化されるはずだと」いう考えによって容易に「小さな悪」を容認してしまうということですね。これはいわゆる「過渡期としてのプロレタリアート独裁」の問題にも関連することですが、これに対しては、要するにその論理は形而上学ではないのか、善を語(騙)るフリをしつつ結局は凡人を非情の道に引きずり込む「悪霊」の役割を果たしているに過ぎないのではないか、という批判が可能です。

以上をふまえ、煽動者が(無自覚に?)弱者を食い物にするケースが絶えない状況を改善する策を講じる段になると、中々やっかいです。もし前者が主たる原因だとすれば、日本語を通じた認識に認識論的な断絶をもたらすような言論を仕掛けなければならなくなるでしょうし、後者ならばそもそもひとはこういう「思想の誘惑」に抗うことができるのかという主題が問われることになるでしょう。

まあ、後者は文学の領域で問われるべき問題だと思うのでこの際措くとして、前者ならば法哲学の問題として問うことができそうな気はしますね。権力論に多くの関心を寄せられている大屋先生だけに、こういうところに突っ込んだ話を一度伺ってみたい気もしますが、これは僕の贅沢な希望と言うべきでしょうから、先生の今後の研究に期待しておきます。

http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20060921

ここで取り上げられていましたよ。

>よはん さん
ども、ちょっと大変に忙しいので簡単にだけお答えすると、(1)膠着語ってのは別にねばねばしているわけではないのではないか、(2)こういう現象は膠着語圏特有ではなく、ヨーロッパその他でも見ることができる、という二点から前者の説には懐疑的です。前にミクロとマクロの権力という話を書いたのですが、そういう一般化できる話ではないかと。もちろん、だから正当化できるという趣旨ではないのですが。

>sさん
ども。trackbackもいただいてないし、ご本人としても書きかけというご認識のようですから、今の段階で私が反応すべきものでもないのではないかと思います。はい。

>前者の説には懐疑的

そうでしょうね。と、書いた本人が言うのも変ですが(苦笑)。なにしろ、そういえばこの仮説では日本の例しか説明できない、より残虐なセンデロ・ルミノソなどの海外の例が外れてしまうなと、アップしたすぐ後に気付いたくらいですから。

煽動者の問題は仰るとおり一般的なものですから、そのことからいえば、膠着語の問題は、煽動者の問題一般にかかわるものというよりは、一般のなかの特殊を説明する原理と言った方が良さそうです。その限りでは、膠着語という条件の特殊性は一考の余地があるのではないかと思います。(たとえば、動詞の統辞作用が弱く、目的語の観念が存在しないため、そこが行為者それぞれの想像によって埋められてしまう、それが「気分の共有」による煽動を帰結してしまう、等。)大屋先生がこの点に懐疑的なのも理解できますが。

すると、残るは後者のラスコーリニコフ問題です。僕はこれを文学の問題と書きましたが、以下のように考えればドンピシャで法哲学の問題になりますね。つまり、『罪と罰』におけるラスコーリニコフのアリョーナ殺害正当化の論理を「正義の特殊構想」ととらえ、それが白痴のリザヴェータ(=無知のヴェール)に直面することにより試練に晒されるのだとすれば、ロールズ正義論の問題状況そのものです。すると問題は、現代の煽動者はなぜ無知のヴェールに直面しないのか、なぜ自らの固有の正義を括弧に入れる(=超越論的懐疑に付す)作業を怠ってしまうのか、という点が問われることになりましょう。

そういうことでいうならば、弱者サイド(とりわけ煽動者)は無知のヴェールに触れて自己の「正義の特殊構想」を吟味すべき倫理的責任を負うことになりますが、それは強者サイドをも拘束するルールとなるでしょう。本文にあったような国際法的な解決の枠組みが実効性を持ちうるのは、そうした地点からでしかありえないようにも思えます。

しかし、言うまでもなくこれは困難な道です。まして、いわゆる「南側」の国々における抵抗運動を背後で煽っているのは多くの場合欧米先進国を中心とした大国なわけで、そういう場において抵抗運動は煽動者にとって「他人事」です。(というより、「他人事」だからこそ関与するといったほうがいい。)すると、ますます彼らに正義の一般構想を問うことは困難に思われます。紛争抑止のルールに服することを、拒絶する以前に妨害し続けているのが現状ですから。

こうした状況において国際法のような正義の一般構想をより実効性のあるかたちで実現してゆくためには(欧州においてそうであったように)人知による不断の関与が必要であり、そういった意味において大屋先生のような法哲学者に求められる役割は大きいというべきでしょう。

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