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雑感
前を行く幼稚園バスの客席でなにやら緑色のものがわしゃわしゃと蠢いており遊星からの物体Xでも襲来したかと思ったら竹を葉っぱごと横に詰めて運搬していたことが判明した七夕の朝(挨拶)。別にいいけどあと掃除とか大変じゃないのかな。というわけで雑感。
- LSの「情報と法」の教材が「名大の授業」とやらいうプロジェクトで公開された際に、ある弁護士さんのブログで名大のLSでは知的財産権が重視されているらしいという趣旨で紹介されていて、つまり(その方が詳しいところの)サイバー犯罪なんかが扱われていないという点に注目されていた。「すいません単に私がわかんないだけです」とか弁明しようとしてコメント欄が開放されていなかったので果たせなかったのだが、もう一つのスジもあって、これは講義の際には話をしたのだが、サイバー犯罪の本質は別に情報化と関係ないんじゃないかと思っているせいでもある。どういうことかというと、講義で取り扱っている言論の自由や知的財産権をめぐる問題では、情報流通に関する技術の量的変化が最終的には法的規整に構造的変化をもたらすと思っているのだが、犯罪については単なる手段面における変化にとどまるのではないか。拳銃を使おうが包丁を使おうが殺人は殺人であって、バタフライナイフとか新しい凶器が使われれば外見上は多少目新しいものの殺人を殺人として処罰すべきだという点に違いがあるわけでもない。結局それらは従来の理論の延長で処理できる問題であって、だとすれば法哲学者がやるより刑法の人が応用問題として扱った方がいいよねえと、そう感じていたわけである。
- その印象を裏付けるような話が最近あって、「サイバー犯罪の多くは技術的な攻撃ではない」(ITmediaエンタープライズ)という記事なのだが、警察庁によると「2005年のサイバー犯罪検挙件数は3161件だが、内訳を見ると、コンピュータやネットワークなどの仕組みがなければ成り立たない「コンピュータ・電磁的記録対象犯罪」はわずか2%、「不正アクセス禁止法違反」も9%。残る89%、圧倒的多数が「元々あった人間らしい犯罪」だという」。つまり問題の中心は従来から犯罪であったような行為類型がインターネットを活用して行なわれるようになるという「ネットワーク利用犯罪」にあり、ネットワークやデジタル技術によってはじめて可能になったような行為類型ではないのだそうである。もちろん違法行為にコミットする人間同士が知りあう可能性が増したり、トレーサビリティが下がったりするので犯罪操作や摘発の技術という面においてはかなりの問題があるのだろうと想像するが、そういう具体的な話は実務家の人に任せた方が圧倒的にいいだろう。やっぱり理論屋の出番はあまりなさそうだなと、そういう話であった。
- 別の話。なにやら大きな花火が7本くらい打ち上げられたようで、対応を迫られている関係各位には気の毒きわまりないというか、がんばってくださいとしか言いようがないわけだが、そのわりには我々の日常に大した変化がないことをどう考えるべきか、とは思う。まあ「日本人の平和ボケ」とか常套句でごまかしてもいいわけだが、のんきな日常の支配力が強いことが単純に悪いわけでもなかろう。A国に向けて配備したミサイルの実験をB国が国際慣行と二国間の外交宣言に反して強行した当日だか翌日だかに、A国におけるB国の居留民が「待遇が悪いから改善しろ」と申し入れをするとか、普通の国際関係だったらリンチとか発生しないかと思うわけであるが、今のところそう大した話もないようで欣快に耐えない。逆に、そりゃ前もって申し入れの日程も決まっていたのかもしれないが、この状況で予定通りそれを実施してしまうというあたり、B国居留民団体側にものんきな日常が感染しているのではないかと疑うわけだが、まあ3世代も一緒に住んでりゃそうなるかなという気も。
- 地下鉄サリン事件の際に、しかし当日も翌日もみんなその地下鉄を使って通勤し続けていたわけで、確かある評論家が普通は恐怖で行動を変えそうなものなのに皆そうしないのはいかに彼らが社畜として抑圧されており現実を見なくなっているかみたいなことを書いていた。そういう理不尽を強いる会社に抵抗すれば、しかし強い報復が待っていることを予期してしまうために、そもそも恐怖を感じないという対処を選んでしまうのだみたいな論旨だったのだが、すると今回の人々の行動を鑑みるに、我々はミサイルをぶっぱなした国に抑圧されてその恐怖から目をそらしているのだろうか。社畜からの解放を主張するその評論家氏としては、我々がミサイルによる不条理な死を強いられる恐怖から解放されるためにその恐怖の源泉たる体制を崩壊させることを決意した場合に、それが我々の生き生きとした生の実感を取り戻すために必要なことだとして賞賛されるのであろうか。聞いてみたい気もするのだが、まあどうせ自分の言ったこと覚えてないだろうしな。
- また別の話。奈良の放火の件に関してこの種の人間が医者になる前に排除されたことは望ましいという思いが一番中心になるあたり自分でも冷たいかなあと思うのだが、いやもちろん被害者母子は大変気の毒だとして、しかし無事医者になったあとで自分のミスを嘘をついてごまかし、ごまかしきれなくなってからブチ切れて後先考えない行動に出られるよりは良かったと言いたくなってしまう。もちろん被害者に何か落ち度があったわけでもないし、将来の可能的な被害より大きな悲劇を生んだのかもしれないわけだが。
- 別に「知育より徳育」とか言いたいわけではなくて、重要なのは勝ち方より負け方だなという話。どれだけ人生がうまく行っても百戦百勝というわけにはいかないのだから、しくじった時に撤退戦をどう闘うか、世間に対して・自分の中でどう落とし前を付けるか、そこで失敗すればそれまで築いた成果なんか一瞬で崩壊するというのはブログの「炎上」騒ぎなどからも見て取れることだろう(別に自分の対応が正しかったとは思わないが、間違ってはいなかっただろうなとは思う)。
- 正直、能力を伸ばすのは別に難しいことではない。努力すればある程度は伸びるし、例えば他人より物覚えが悪くても二倍努力すれば勝てるだろう。で、別に努力というのは本人に意思がなければできないというものでもなく、無理矢理させてもいいわけである。で、まあ子供相手ならそうやって伸ばして外見を整えるのも難しいことではないのだろう。しかし遅かれ早かれ人生には追い詰められる瞬間というのがやってくるわけで、そこで他人の人生を犠牲にして爆発するタイプというのは最悪だし、内攻して自滅するタイプはそれに比べればまだマシかもしれないが周囲として寝覚めが悪いことこの上ないし結局生き残れないのは変わらない。結局競争からはサヨウナラ、ということになるわけだ。
- 助手になった頃、子育て中のお父さんから子供にどういう力を身に付けさせるのがいいかというアドバイスを(なんでか知らんが)求められたことがあって、体力だと思いますと答えて奇妙な顔をされたことを思い出した。もちろんここで言う体力は筋力とか瞬発力のことではなく、努力し続ける力・最後まで粘り続ける力とそれを支える肉体の持久力を指している。しばらく前に『ドラゴン桜』とかいう漫画がドラマ化されたりしていたが、「東大に入れば人生変わる」とか書いてあってよく理解できなかった。私が東大で学んだのは、その程度で人生どうにかなるもんではないということである。当たり前のことだが東大には東大に入れる程度の頭脳の持ち主がぞろぞろいるのであって、その中で勝ち抜こうと思えば他人とは違う能力を発揮するか、他人以上に努力するしかないわけだ。能力が同じなら体力で差がつくのだし、そこで焦って暴発するタイプの人間は遅かれ早かれ競争過程で淘汰されただろうと、冷たく思うわけである。
- 念のために言うと別に勝たなくていいので「東大卒」を確定させてそれで食っていきますというのは随分利口な戦略であって、それを「負け方がうまい」と呼んでもよい。まあ別にあらゆる競争に勝つ必要もないのであって、自分が勝つべき勝負を見抜くことが勝つこと自体より重要だろう。死なない人間が最後には生き残ると、まあそれだけの話なのである。
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うちの指導教員から以前に伺った話ですが,彼に「大器晩成するためにはまず長生きをすることが重要だ」と言っていた研究者がいらっしゃたそうです.しかし皮肉なことに,その方は早くにお亡くなりになってしまったのですが・・・.
おや痔さんのコメント中にある研究者の方の「大器晩成するためにはまず長生きをすることが重要だ」という言葉で思い出したことをひとつ。
研究者志望だった僕の父の指導教員はかなりの大酒飲みで、父が大学院の博士課程にいたときに亡くなったらしいです。
弟子(?)の研究者を育て、跡目(??)を継がせるなら、それなりに長生きして定年で退官、というのが一番ってことでしょうか。
まあ、その方がお亡くなりにならなければ(「おかげ」というと無礼ですが)僕も生まれてなかったんだなあとたまに思います。
名古屋大学法学部の元教授だった方なので、おおや先生は流石にご存じなくても、他の先生ならご存知かも。
それにしても幼稚園バスに物体X・・・・キシャー!(すいません
>学生最前線さん
それはもしかして,もり○とせんせえでは?
いろいろな職業の方にお話を聞く仕事をしていたことがありますが、みなさん「この仕事に必要なのはまず、体力」とおっしゃっていました。どの方も「ホワイトカラー」でしたが……。
学問の世界の話では、修士課程在学中に某教授が「語学力はこの分野では基礎体力だからね。それだけあってもしょうがないけどこれがないと話にならん」とおっしゃっていたのが印象に残っております。その教授は英・仏・土・亜刺伯・波斯語に堪能でいらっしゃいました……。