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文学部と平等
ええと私はもう32歳になっているのでそれは別人です(謎)。移動も多いのでちょこちょこと本を読んでいる。中でも先頃文庫に落ちた高田里恵子『文学部をめぐる病い』が非常に面白かったのだが法学部の中の文学部っぽいところの人間としては笑ってばかりもいられず。
社会への実用性と反実用性(単に実用的でないという「非実用性」ではなく、それをことさらに正当化して見せる点において)の共存と、〈二流〉たちの愚かな誠実さという「病い」には非常に身につまされるものがあったわけだが、それと別に興味深かったのが高等教育と日本陸軍をめぐる主題で、つまり高学歴者=エリートが特別扱いされない陸軍の「平等主義」(その善悪は別問題として)と高等学校的な「友情」の論理の相克という問題である。もちろんここで筆者は階級と年次がモノをいう抑圧の体制としての「軍隊」を一方的に断罪して済ますのではなく、それと対比される「学校」にエリートがその教養の故に自発的服従を勝ち得るという啓蒙主義的な信仰を読み取るわけだが、軍隊と学校という二つの社会に大きな違いがあることがそもそも(『アーロン収容所』を引いて著者が正しく指摘する通り)日本に特徴的な事態だということに注意しておく必要があるだろう。
というのはこれを読んで天野郁夫『教育と選抜の社会史』を読みながら疑問に思った点を思い出したからである。同書自体は、明治期から戦前に至る日本の「学歴主義」の成立を分析した非常に興味深い著作だが、日本の教育制度が西欧と比較して「開かれた」競争の舞台となっていた点と同時に、その限界についても指摘している。つまり、西欧の学校がすでに存在する階級の文化・秩序の再生産という性質を強く持っていたのに対して、我が国ではその影響は弱く、むしろ「立身出世」のルートすなわち社会的流動性を強めるものと理解されてきた。しかし一方、現実に高等教育に進めるかどうかは単に学力のみによってではなく、教育費の負担に耐える金銭的余力があるかにかなり規定されていたのであって、貧困だが優秀な学生が高等教育を受けることは可能だが例外的事態に過ぎなかったというのである。たとえば1938年の文部省『学生生徒生活調査』によれば、高等学校・高等専門学校段階で家庭の学資負担能力が「困難」であるもの、学資の出所が完全に「家庭外」すなわち育英会・親戚・内職その他であるものはともにせいぜい5%程度に過ぎない。高等教育機関への道は、ほぼ富裕層と新中産階級に限られていたと、筆者は主張する。
それは間違いではないのだろうが、私が表を見て疑問に思ったのは、そこで挙げられているのが「高等学校」「高等工業」「高等農林」「高等商業」だったことで、何が言いたいかというと「高等師範」と「陸軍士官学校」「海軍兵学校」が入っていない点である。いやもちろん、元のデータにこれらが載っていなかった可能性は大いにある。後二者について言えば文部省の所管ではないはずだし、そもそもこれらについて学資の出所を問題にする意義はない。何故かと言って給費制だからである。細かい制度はよく知らないがいずれも学資がなくても進学できるはずで、中には秋山好古のように両方に通った人もいる。一方に金銭的余裕がないと進めない学校群があり、他方に学費の要らない学校群があれば、優秀だが貧乏な家庭の出身者が後者に流入するという傾向がありそうなのだが、著者はそれには言及していない。
同書の別の部分に出てくるデータ、つまり明治43年における中等教育段階の中退率を見ると、中学校・高等女学校・実業学校がいずれも10%以上であるのに対し師範学校(第一部)はわずか3.9%であり、大きな差がある。入試の競争率も前三者が2倍以下なのに対し、師範学校は4.1倍である(もちろん時代の違うデータなのでただちに重ねて見ることはできないが)。同程度の学力があっても家庭の経済力によって選び得るルートに差異があり、それが異なった人間集団の対立につながり、さらには両者が出会ったときの摩擦につながっていったのではないかと、話は『文学部をめぐる病い』に戻っていくわけである。
経済的にも恵まれた学校エリートに対する、貧困層出身エリートの反感こそが陸軍の「平等主義」であり、『真空地帯』や『きけ わだつみのこえ』はそれに対する恨み節であると言えば、もちろん単純化のそしりは免れない。陸軍士官学校と一口に言っても中学校出身者と幼年学校出身者では社会的バックグラウンドが異なるし、給費制だという理由だけで師範学校系列と同じに見ていいわけでもないだろう。海軍のエリート主義との差異についても気にかかるところである。しかし個人的にはそういう悪い読み方に魅力を感じるなあと思っていたら、何のことはない高田氏ご自身が関連するテーマを扱っておられたという話をどこかで読んだ。面白くなりそうなので今から楽しみにしているところなのである。
- 高田里恵子『文学部をめぐる病い: 教養主義・ナチス・旧制高校』ちくま文庫、筑摩書房、2006 (原著・松籟社、2001)。
- 天野郁夫『教育と選抜の社会史』ちくま学芸文庫、筑摩書房、2006 (原著・第一法規出版、1982)。
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メモ。bewaad氏のところのコメントで紹介されていた本:広田照幸『陸軍将校の教育社会史: 立身出世と天皇制』世織書房, 1998. そうか、このあたりを読むと話がつながるかもしれん。ちくま文庫で出ないかな。『教育と選抜の社会史』によれば昭和10年時点でも前期中等教育(高等小学校・実業補習学校など)の卒業者は初等教育卒業者の50%。すでに初等教育(尋常小学校)の入学率は99%以上、大正15年度入学者以降では卒業者も90%を超えているので人口比では半分弱と見てよいだろう。人口比でいえば現在の大卒くらいの位置づけになり、これを「社会的弱者」と位置づけるのは、端的に無理(さらに能力等で選抜されているわけだし)。本当に「弱者」というと尋常小学校卒業にさえ至っていないような層を想定すべきだが、彼らについては少年兵としての志願どころか、徴兵検査でも体格面での不利があったんじゃないかなあと推測。
広田もそうですが、日本教育史上の陸軍の重要性は教育学者に随分前から認識されていたようで、その文脈で近時出された仕事で面白かったのは(既に知っているかとも思いますが)佐藤卓己『言論統制-情報官・鈴木庫三と教育の国防国家』(中公新書、2004年)です。全く余談ですがそこで批判的に言及されている(この領域では、その浩瀚さからいっても、ある種の標準とされている)『近代軍隊教育史研究』の著者遠藤芳信氏が、兄弟子Oさんの同僚だと知ったときには、軽い驚きを感じました。
広田さんが親分をしている科研の研究会に混ぜてもらってますです。何かございましたらお聞きしておきますよ。
>よこはまさん
ども。教育と国家による統治の普及に対する重要性はよく知られていたと思うのですが、平等主義的性格(がどの程度本当にあるかというのも含めて)についてはちょっと新鮮な論点かと思いました。鈴木庫三とか、あるいは渡辺錠太郎のような立志伝の舞台ではあったのですけれど。
>いなばせんせい
ありがとうございます。素人が文献読んで楽しんでる段階なのでプロの人に質問できるようなことはないと思うのですが、機会がありましたらよろしくお願いします。はい。