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「マンダレイ」とリベラリズムの基底性

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今日は午後に校務がなかったので早めに引けて成人映画見に行ってきました(挨拶)。つうても『マンダレイ』Manderlayなんですけどね。名古屋では上映館も日程も限られているので、どうしてもここしか予定が空いていなかったのです。つくづく映画が高価な娯楽になったのを実感しますね。いや入場料の話ではなく(それもあるけど)主に機会費用の問題で、この映画一本見に行くために往復2時間近くかけて名古屋駅前まで行く必要があったわけです。正直差し迫った原稿のネタにする必要があるから見に行きましたが、そうでなきゃ大して値段が違うわけでもなしDVDを待ちますな。

しかしこれ、なんでR-18だったんでしょうね。やらしいシーンは話の本筋にほとんど関係ないので削ってしまえば、中学生に見せるのにいい映画だと思いましたが。というわけで以下作品の内容に触れる箇所があります。

この映画はつまり「むき出しの」デモクラシーではダメだという話だが、しかしそんなことはっきり言えばプラトン以来わかっており、だからこそ「まともな」デモクラシーのやり方を考える方向(熟慮の民主政)とか、デモクラシーを抑制するものとしてのリベラリズムとその基底性を主張する方向(eg. 井上達夫)とかにすでに政治思想は進んでいるわけだ。そこに標準時を多数決で決めるような素朴なデモクラシーを持ち出し、民主政の困難さと権力を背景にした強制の問題点を指摘したつもりになるというのは、確かに多数者の専政というのがアメリカ民主政の問題点として指摘されてきたことを考えればわからなくはないが、しかし議論がトクヴィルの時点でさらに先に進んでいたことを考えると素朴すぎやしねえかと思うわけである。だから「中学生向け」だと本気で思っていて、この映画が新たに突きつけた理論的問題など何もない、というのが(もちろん映画は政治理論を語る道具ではないから極端な評価基準に過ぎないことを認めた上でだけれども)私の本音である。

もちろんアメリカ社会が問題の解決に成功してきたかといえばそれは大層疑問である。だからパンフレットが引用している対照的なレビュー——「アメリカ民主主義についての、寓話的作品」(New York Times)と「議論し尽くされた人権問題」(Hollywood Reporter)は、どちらも正鵠を射ている。つまり問題の理論的な解法は議論に基づいてわかっているのだが、それをどうやって現実に解くのか、特に誰もが自由に行動できる民主政の社会において実現できるのかがわかんないからみんな困っているわけだ。言い換えると、「むき出しの」デモクラシーよりも個々人を「自由で自律的な個人」として尊重するリベラリズムが優先される必要があるというのはいいとして、その上でそれをどうしたら実現できるか、特に当事者も自由の重みに耐えられないかもしれない状況でいかに自由を現実化していくかが問われているわけである。ということは、この問題に対する答えは個別具体的な文脈を背負った具体的なものになるべきであって、それに対して自明の結論を繰り返してお説教した気分になっている奴がいたら苛立ちが向けられるのもある意味当然かと思われる。逆に言うと、そのように一般化するならば別にそれはアメリカ固有の問題ではなく、つうか『自由からの逃走』ってどこの国の話だったよおいとは思うわけだ。

その意味で、一番正しいなと思ったのはグレイスの父親を演じたウィレム・デフォーの、「この映画はただアメリカのことだけを語る映画ではないと思う。世界全体のことについての映画なんだ」という発言だった(これがインタビュアーに対する反論にとどまるのか、『マンダレイ』をアメリカ三部作の一つと位置付けるラース・フォン・トリアー監督に対する遠回しの皮肉なのかはよくわからない)。脚本が「完全に白人の視点から語られ」ているという違和感を表明するダニー・グローヴァー(「おしゃべり黒人」ウィレルム役)の発言を、それに重ねて見ることもできるかもしれない。

つまり何が言いたいかというとエーリッヒ・フロムにも丸山眞男にも触れずにこの映画の解説書ける神経がわかりません、という話であり(いやフォン・トリアーがヴィクトリアの暴力性に関する話で丸山に言及できないのは当然なんだけど、だからこそ日本人がどこかでその話しないとダメでしょう)、Civil Rights Movementを「市民権運動」と訳したパンフの翻訳者は見逃してあげるけど、The Freed Enterprise of Manderlayは「マンダレイの自由事業」じゃなくて「マンダレイの解放された企業」だろうということである。どうやら字幕翻訳の中の人が語尾の「d」を見逃したらしいのだが、念のために注記しておくと戸田奈津子せんせいではない。だってそこ以外はだいたいまともだったし(暴言)。

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Comment(5)

学生最前線 さんのコメント (2006年5月20日 01:31):

はじめまして。
おおや先生が面白くなさそうに行われる講義を面白く拝聴している1年生です。

『マンダレイ』、見てはいませんが興味があります。(とはいえ、前作の『ドッグヴィル』にニコール・キッドマンが主演しているというアカデミックとは程遠い理由ではありますが。そして『ドッグヴィル』さえ見ていないという自分勝手さ。

おおや先生は「中学生に見せるのにいい映画」と仰っていますが、大学1年生が見るのにはどうなのでしょうか?18禁だし、DVDを買おうにもかなり気が引けるのです。

最後にもうひとつ質問、丸山眞男の著作で「コイツはお勧め」というのがあれば是非教えてください。それとも18坊主に丸山眞男はまだ早いですかね。。。

あと、エヴァンゲリオンは分かりませんが、攻殻機動隊は映画、漫画、アニメ全部好きです。

truly_false さんのコメント (2006年5月21日 11:42):

長尾先生が、池田先生に叱られてをります(↓

池田信夫 blog
新聞は公共財?
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/

>法哲学者でよかったね。経済学者が公の場でこんな発
>言をしたら、学者生命を失うだろう。

おおや(出張帰り) さんのコメント (2006年5月21日 23:29):

>学生最前線さん
ども。演出にだまされてはいけません(謎)。さて『マンダレイ』ですが名古屋の上映もう終わったんじゃない? R-18つうても女性の胸と男性の局部がちょっと写る程度で(モザイクなしではあるが)、やってるこた『火曜サスペンス劇場』以下ですよ。性表現規制に関する各国の考え方の違いとかに思考が誘われるところではあります。
私もちゃんとした丸山眞男読みではないのですが、この映画との関連で言えば「超国家主義の論理と真理」だから『現代政治の思想と行動』ですか。原典で読むか、と聞かれるとううむもちろん読んだ方がいいのは間違いないんだが。

>truly_falseさん
ども。前後の文脈がわかりませんが、この部分だけを素直に読めばそれは池田先生が正しいでしょう。新聞自体には排除性も競合性もないのは間違いなく、それを特段の注記なしに「公共財」と呼べば法哲学会でさえ怒られるに違いないです(まあその、長尾先生はもう法哲学会にはおられないのですが)。
ただその、あえて弁護を試みるならば財自体が「公共財」でないとしてもその供給方法に特殊性が認められる場合というのはあり得るのであって、実は池田先生ご自身が「多くの人がともに使うが、私的財」の例として挙げた電力とガスというのはその典型ですな。つまり料金が従量制を基本としているのに対し、供給には地域独占などの競争制限が認められており、価格決定にも市場原理の働く範囲は限定的である。もちろんこれは、特に家庭向けの供給システムの構築・維持には多額の経費を要するので市場競争の過程で二重〜多重の投資が行なわれるのが好ましくないという事情に由来すると考えた方が良く、従って排除性がないというよりは法的強制によって排除性を排除するケースなわけですが、「私的財の供給方法が公共財にあたる」と言えば言える、かもしれません。いやもちろん放送や新聞の供給にそのような事情があるかどうかは大問題ですが。
それに対して「そんなのを略して『公共財』と言うな」と言われれば誠にごもっともなのですが、しかしこの問題に関して相当に偏った報道をしていることが周知となっているメディアのインタビュー記事なので、ちょっとその点を割り引いて論評した方がいいんじゃねえかな、とは思いました。はい。

ええと、『マンダレイ』について書いてるんだけど私の記述の内容には一切触れていないページからのトラックバックが複数来ていましていやまあ別に消すの消さないのという話にはしないけど映画感想業界ってなそういう流儀なんかね。とりあえず片方の人にはもいちど映画を見直すことを強くおすすめしたいところであって、バート(ヴィクトリアの夫)が絶望のあまり自殺したなんてトンチキなことを言ってるんじゃないありゃ「奇妙な果実」にされたんだよという話なのだが(そういう写真がエンディングタイトルで何度も出てきたでしょうが)、出かけていってクサすのもなんだからここに書いときます。

TK さんのコメント (2006年5月28日 22:40):

「自由からの逃走」が好きな日本人が、「自由」に向かって突進するという快挙がなされました。社会保険庁の違法免除事件です。私などは、これは、(一方で、納付率UPという自己保身の意図があったのは事実だとしても、他方では、)日本の行政(と、行政の対象者である日本国民に)伝統としてあった「おせっかい」の一時例だと思ってます。多分、(納付率UPという意図があるにせよ)、社会保険庁は、「別に、本人の不利益になるわけじゃないし、かえって、年金受給権を確保できて、本人のためになることだから、本人に代わってやってあげてもいいよね」と思っていたに違いありません。いわば、本人のため、という「おせっかい」をしたに過ぎない、というのが社会保険庁の思いだと思います。
でも、今回の事件で、行政が得意としてきた「おせっかい」は
悪とみなされ、やってはならないことになりました。
多分、この事件は、行政サービスの適正化に資すること大で、今まで「それくらいやっといてよ」と言われ押しつけられてきた雑事から公務員を解放する、という効果をもたらすに違いありません。そして、国民に「自由」を与え、同時に、何でも自分でやる、という自由の反対給付を与えてくれることになると思います(もちろん、「今まで電話でOKだったじゃないか」とか、「今までそんな手続もとめられなかった」とかの苦情の電話も増えるでしょうが)。

それにしても、「答案用紙に氏名を書き忘れた」受験生の救済措置(氏名を割り出して補記する)は美談なのに(これも、「氏名のない答案は採点しない」という事前に示されたルールに反する悪事なのだが)、「年金受給権を確保するために免除要件を満たす者に免除する」は悪事、なんですね。

おおや さんのコメント (2006年5月31日 14:59):

>TKさん
利益を受けた当人が「自由の侵害だ」と言って怒り出さないうちはいつもの役人批判じゃないかと思いますよ。納付している側からすると、免除措置の対象が拡大しない方が利益になりますからね。
違法免除についても答案用紙についてもやらなくていいならやらない方が当事者は短期的には楽なんですが、じゃあ何でやるかというと後で自己責任をとれない人々から文句言われるからなわけです(答案の場合、本人はミスしたと気づいていないのでいったん問い合わせが来るのは当然なんですが)。国民が文句言わないと約束してくれるならorクレーム処理を別の誰かに任せられるならともかく……というわけで「親切な行政」(文句を言われにくい行政)に行くわけですが、本当は「怒られるゲーム」なのでムダ、という救いのない話であるかもしれず。
まあ正直今回のケースも「親切な行政」の延長にあるわけですが、本人に連絡して申請の追完を認めたケースはともかく、連絡無しに申請書を勝手に書いたというのはやはりアウトですよね。

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